ラヴシック・シンドローム
「そろそろ帰ったらどうなんだ」
山から降りてくる強風に晒されて、彼女のスカートがふわりふわりと揺れる。だが膝よりも長いそれが捲れることは無い。白いリゾート帽子を上品に手で抑えている。脱げばいいだろう、と言っても彼女は聞かない。杜王町を眺めていた彼女の視線が俺の言葉に反応してこちらに向けられた。
「酷い人ね。せっかく数年ぶりに会えたっていうのに」
「無断で抜け出したのが悪いんだろう。面倒を起こすな。『社長令嬢が行方不明に――』ほら、もう全国ニュースになってる。バレるのも時間の問題だな」
「……じゃあ私と結婚して!そうしたら貴方と一緒に東京に帰ってやるわよ」
朝からこの調子だ。突然リフトの下から声をかけられたと思い下を覗いてみれば、そこにいたのは学生時代の同級生だった。その頃からやたらと俺の後ろを着いてくる女ではあったが、彼女は学校の有名人であったし俺ととても仲が良かった訳ではなかった。俺は過剰な人付き合いが嫌いだったからほとんど図書室にいたし、人の渦の真ん中で愛想を振りまいているような彼女に自分から声を掛けに行くことは絶対に無かった。だがある日、何故か彼女は図書室にやってきて、俺の読んでいた畑を荒らす虫についての本を覗き込んできたのだ。
『これ、面白い?』
どう返したかはもう覚えていない。素っ気ない返事だったのは確かだ。しかし彼女はぱちぱちと数回瞬きをした後で優しく微笑んだ。俺の隣の席に座り、借りるために机に置いていた家庭菜園の本を勝手に手に取って読み始めた。農業なんかとは無縁だろう、その白く傷のない手で一枚一枚頁を捲るその姿が妙に印象に残っている。
彼女とちゃんと話したのはその数週間後のことだ。放課後に図書室を訪れたが、司書の先生が体調を崩したせいで図書室が開いていなかった。借りていた本を返却ポストに戻してかえろうとしたその時、彼女が現れた。もう少しで衣替えの時期だというのにブラウスのボタンを一番上までしっかり閉めていた。長い髪も結んでいない。だが少しも暑そうな様子は感じられなかった。
『図書室、今日は開いてないぞ』
『ええっ……司書の先生どうなさったのかしらね』
心配そうに彼女は言った。
『ねえ、よかったら中庭で少しお話しない?図書室に行くって言ってしまったからお迎えが来るのがまだ先なの』
彼女自身には微塵も興味は無かった。だがその手に持っていた本が、初めて会った時に自分の読んでいた本だったことが、なんだか少し嬉しかったし不思議でもあった。その時初めて彼女のことを知りたいと思った。気づいた時には俺は首を縦に降っていた。彼女はまた優しく微笑んだ。
五月は白い花がよく咲く季節だ。緑の葉をつけたイチョウの中心にして、円で囲むようにベンチが置かれている。傍の花壇ではツツジやバラやクチナシが白い花を咲かせていた。白い花には主に清楚、純粋、高貴などといった花言葉がある。まさに彼女の為にある言葉だと思った。
そのベンチの、一番日当たりの良い席に二人で並んで座った。その狭さのせいか、彼女がこちらに寄せて座っているからなのか、妙に彼女と近い気がする。この程度のことでいちいちドキドキしたりしないが、なんだか不思議な気分だった。
『私##苗字鴇子っていうのよ。杜王町には最近越してきたばかりでね、東京の家を建て替えるからその間だけ別荘に住むの』
彼女の苗字には聞き覚えがあった。よくテレビやラジオのニュースで聞く名前だ。その珍しい苗字はどこかの一流企業のものと同じだった。
『あなたは?』
『豆銑 礼。礼儀の礼って書くけど、れい じゃなくて らい ね』
そこんとこよろしく。そう言って礼の字を空中に書いてやった。らいくん、と鈴を鳴らしたような声で名前を呼ばれた。思わず彼女の方を見れば、彼女は宙に何かを書いているようだった。
『ずく は?どんな字?』
初めて会った時もそうだが、彼女の好奇心は底なしらしい。そこは少し俺と似ているかもしれない。今度は上着のポケットから鉛筆とメモ帳を取り出して、彼女は意外と力強い筆跡で俺の名前を書き記した。書き慣れないのだろう。『銑』の字が少し歪んでいる。俺は彼女の左手に手を伸ばして鉛筆を優しく握った。自分の名前の下に続いて彼女の名前を書いた。
『この字で合ってるか?』
『う、うん』
俺から逃げるように視線を逸らした後で、俺の名前の上に『まめずく らい』とふりがなを振った。さっきよりも震えたか細い字だ。そしてパタンと勢いよく手帳を閉じた。それから少しばかりの間、彼女は何も話さなくなってしまった。単に話題が尽きただけかもしれない。太陽が西にずれたせいでベンチは木の影に隠れてしまった。少し肌寒くなった頃やっと彼女の口が開いた。五分だったか、十分だったか、三十分だったかは記憶が曖昧でよく分からない。
『らいくん……明日、お弁当一緒に食べようね』
声が上擦っていたように聞こえたのは気のせいだっただろうか。絞り出したその声に適当に返事を返した。ちゃんとした返答を考える余裕がなかったのだ。夕日に照らされる彼女の唇の動きや振り返った時の微笑みなどの、その一つ一つが目に焼き付いて離れないから。良作の映画を見ている時のような気分だ。俺たち以外誰もいない初夏の中庭で、彼女は何かのヒロインを演じているみたいだった。
あれから少しずつ彼女と話すようになった。といっても、それは彼女が誰にも引き止められずに教室を抜け出せた日だけのことだが。有名人だから一人になるのが難しいのだろう。かと言ってクラスメイトを雑に扱えば評判も悪くなる。その困難をなんとか乗り越えて中庭に来た時、してやったりと歯を見せて笑うことがあった。上品な彼女の珍しい――いや、これが本来の姿なのかもしれない。
彼女は自分から話すことは少なかった。俺は好きなだけ話せるから居心地が良かったし、人形のようにそこに座っているだけではなく(滅多にないこととはいえ)話を振ったらちゃんと返してくれたから、一緒にいて気分が悪くなることはそうそうなかった。
二年目の冬に彼女は東京に戻ってしまった。彼女の連絡先を知らなかったし、そこまでするほど仲が良かった訳でもないと思って電話をしたり手紙を書くことは無かった。だが、彼女のいない中庭はどこか物足りない駄作の映画みたいだった。イチョウの葉が落ちた冷たい冬のことだった。
「あんなおじさんと結婚なんて嫌。それに私まだ二十五にもなってないのよ。まだまだ遊べるもん」
そして幾年か時が経って、彼女は再び杜王町にやってきた。成人して少しでも自由になったからなのか、学生の頃より無邪気さが増しているように見える。だが気品を失った訳でもない。
「……ねぇ、まだ分からないの?」
「何が」
遊べる。その言葉に何故かイラついた。彼女もホストクラブやそういう店に行ったりするのだろうか。白い花のように純粋なはずの彼女がそんなところに行くなんて考えたくもない。呑気にリフトの上で足をブラブラさせているのが余計に気に食わない。だが次の瞬間、俯いていた彼女は突然リフトの支柱に捕まって膝立ちになった。
「私、自分の人生は自分で決めたいの。あんな男と結婚させられるなら、私の恋が報われないのなら、ここから飛び降りる……」
「馬鹿ッ!」
思わずスタンドを出して彼女の傍に寄った。腕が紐のように解けた俺を見て驚いていたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。リフトが音を立てて大きく揺れた。彼女は俺に抱かれる姿勢のまましがみついている。揺れが収まったところでよくやく顔を上げた。彼女は泣いていた。転校した時でさえ、泣かなかったというのに。
「礼くんが焦ってるの、初めて見た……」
「当たり前だ。馬鹿。お前の脳みそは空っぽなのか?東京で遊んでばっかりいるから退化したんじゃないのかこの馬鹿。飛び降りるなんて馬鹿みたいなこと言う奴がいるか。それで本当に死んだら、死んだら……」
息が切れた。この女があまりにも馬鹿だから、怒る気も失せた。一度ため息をついた後で彼女の方へ向き直った。
「そんなに馬鹿って言わなくても……だって、止めてくれると思ったの。そしたら、本当に来てくれたから……」
鼻をすすりながら必死に目元を擦っている。こんなの、どうしていいのかよく分からない。苺が病気になってしまったらどうするか。畑に有害な虫が湧いたらどうするか。それは分かる。よく知ってる。だが女が泣いた時にどうするか。そんなこと、果物にばかり向き合ってきた自分には分からない。とりあえず、目を擦る彼女の腕を掴んだ。
「やめて、見ないで。礼くんに幻滅されたくない……嫌われたくないの。貴方だけがこのつまらない私の世界で唯一の光だから。なにも見えなくなっちゃうわ。だからどうか、私のことを嫌いにならないで……」
悪化させたみたいだ。溢れて止まらないそれを今度は顔を膝に埋めることで隠し始めた。ここで一つ確信したことがある。彼女は本当に俺の事を好いている。俺は彼女に愛されている。結婚してくれたのは親から逃げるためだけじゃなかった。本当なら誰でもよかったはずだ。大学時代の友達だっているだろう。なのにわざわざここまできたのは、結婚するなら俺がいいと思ってくれたからだ。自分で言うのもなんだが、決して人付き合いの上手くない、無愛想な俺を選んだんだ。そして一人で逃げ出してここまで来た。俺に求婚するために。
「豆銑 鴇子」
「えっ」
「結婚するか。俺と」
それなら、その愛に少しくらいは答えてやってもいい。幸せにする努力まではしないが、不幸にはさせない。親からの呪縛もマシにはなるだろう。かつての中庭で隣に並んで座った時のようにまた黙り込んでしまうのだろうと思った。だがそれは的外れの予想だった。
「礼くん、私のこと、幸せにしてね」
これから死ぬまで書くことになるんだろう。書き慣れなかった『銑』の字も少しは上達するはずだ。試してやるように笑えば、いつかと同じように彼女は幸せそうに微笑んだ。