05.待宵






深夜。アカギはなるべく音を立てないように慎重に玄関の扉を開けた。部屋の奥から紗雪が起きてこないことを確認して、また静かに扉を閉める。今日は川田組のよこした市川との勝負の日。だが銃弾の残りを確認したアカギは彼らの待つ料亭ではなく埠頭へと向かう。
……そんなことは露知らず眠りこけている紗雪。金曜日というのは一週間の疲労が溜まって辛い日である。いつもより早く就寝したせいか三時頃に目が覚めてしまった。

(……またいない)

深夜にアカギがいなくなるなんてよくあることだ。三日四日帰ってこないことだってある。大抵は喧嘩だからと慣れていたが、ここ最近は麻雀の大きな勝負が控えていたことを思い出して、もぬけの殻となった布団を見て紗雪はため息をついた。

(ほんと、不思議な子よね)







……初めて会った時、アカギは紗雪のアパートのそばで血を流して倒れていた。痣や擦り傷なんかとは比べ物にならない酷い怪我だったので、警戒するのも忘れて慌てて部屋に連れ込んだ。包帯を巻き終えて、満身創痍の彼を布団に寝かせたところで、眠っていた恐怖が目覚める。警察を呼ぼうと慌てて時計回りにダイヤルを回すと、アカギがか細い声で紗雪を止めた。

「あんた、誰?」
「起きたのね、良かった……!」

アカギは不思議そうに紗雪を見上げた。

「あ、えと、私は笠城紗雪よ。で、ここは私の家。ごめんなさいね、倒れてたから心配で勝手に連れてきちゃった」
「……いや、助かったよ。どうも」

実はこの時アカギには深刻な問題があった。
喧嘩をふっかけられたので相手してやったのはいいものの、そのうちの数人が重傷を負ってしまったのだ。逆上した仲間が殺す勢いでアカギを追っていた。喧嘩の傷でフラフラなまま力尽き、人目につかない、それも深夜のアパートの階段下にたどり着いた。だが、見つかってしまえば、あの人数では今度こそ殺される。

「まあ、いろいろあって。あのまま見つかっていたら面倒なことになっただろうね」
「いろいろって、喧嘩とか?」
「向こうがふかっけてきといて、あのザマだぜ?ほんと笑える」
「まったく、男の子ってどうしてこうもやんちゃなのかしら」

紗雪はそんな会話をしつつも、頭の中はアカギの白い髪のことでいっぱいだった。珍しい。雪のようなそれに思わず触れてみたくなる。

「あなた、いくつなの?」
「十一……いや、そろそろ十二になったかな」

まだ小学生ではないか。紗雪は驚きのあまり開いた口が塞がらない。最近の小学生は箱型の革鞄、ランドセルとやらをしょっているというが、彼もそうなのだろうかと頭の中で小学校に通うアカギを思い浮かべる。音楽の時間に子供向けの合唱曲を歌ったり、お弁当の具材に一喜一憂したり、瓶のフタ集めに熱心になったり。とてもそんなようには見えなかった。

「ど、どこかに連絡した方がいいんじゃ……?」
「……どこかって?」
「そ、その、関わりのある大人とか……」

横になったまま、アカギは悪戯に笑う。

「ククク、なんだよ、関わりのある大人って。そんな気使うなよ。親のこと聞きたいんでしょ?」

せっかく気を使って当たり障りのない聞き方をしたというのに、あしらわれてしまって紗雪は少し苛ついた。

「だって、小学生が一人で生きていける訳ないでしょう?お金のことだってあるし」
「それがね、意外となんとかなるんだぜ。俺くらいの年で一人で生きてる奴なんて山ほどいる。戦争で両親を失ったり、子供を養えないぼどの貧乏な親に捨てられたり、病気やら虐待やら、理由はそれぞれだけど」

昭和三十三年。あの悪夢のような戦争から十三年が経ち、日本経済は右肩上がりに回復していた。だが高度経済成長と呼ばれるその社会の流れに取り残され、貧民窟やドヤ街で生きる人間がいた。それは最底辺の工場で安い賃金で働かされていた日雇いの労働者や、戦争で身体や精神に不調をきたしてしまった復員兵など……。そしてその子供たちがどうなるかなんて、簡単に想像がつく。

「……わたしも、両親を戦争で亡くしたわ……母さんは目の前で焼夷弾に焼かれて、父さんは南方戦線に……」

家族の死。この時代、ありきたりとまでは言えないにしても、珍しすぎるということは無かった。

「あんただって一人で暮らしてるじゃない」
「それはお爺さまとおばあさまが……完全に見放されてるけど」

共に音楽家である祖父母は金持ちだったので、紗雪一人を養うなんて容易いことであった。才能のない女、それに反対を押し切って軍人と結婚した娘の子どもなど育てたいと思うはずがなく。中流階級向けのアパートで紗雪は寂しく一人暮らしをしていた。時々召使いが様子を見に来るだけの、寂しい生活。

「……私のことはいいの。あなた、その怪我で帰ってどうするつもりなの?面倒を見てくれる人はいるの?」
「うーん、まあ、考えはあるよ」
「考え?」

アカギは笑みを浮かべたまま紗雪を見つめた。彼の不思議な行動に紗雪は首を傾げる。

「怪我が治るまでここに住む」

唐突な発言。訪れた静寂の中に風が雨戸を叩きつける音が響いた。

「え、えっ?そんな、急に言われても……」
「いいでしょ。どうせ俺が使ってた家は、奴らにとっくにバレてるはずだし」

捨て猫だ。今紗雪の目には、切なげに尻尾を揺らしながらこちらを見上げる猫が見えている。拾ってあげる、なんてことをこちらが言わなくても勝手に住み着いてしまい、人間の慈悲という心に漬け込んで追い出せなくしてしまう。ずる賢い生き物である。

「う、うぐっ…………か、家事は、手伝ってもらいますからね!」
「ありがと。じゃあ、これ」

ポケットから投げられたそれは紙の山だった。……いや、それは金だった。ぐしゃぐしゃになった紙幣。ところどころに血の着いたお札。

「え、これ、なあに?」
「金だよ。喧嘩と博奕でアイツらからむしり取った金。今日からの宿泊料」
「こんなに貰えないわ!」
「いいから」

まだ出会って一時間ほどの仲だが、こうなるともう引き下がらないことに紗雪はなんとなく気づいていた。

「……そうだ、名前聞いてなかったわね」

とりあえず貰っておいて使わないように棚にでも閉まっておこう。最後の日にでもこっそり返せばいい。アカギは重い体にむち打つようにしてなんとかその場に座り込んだ。はあっ、と重苦しいため息をつく。

「アカギ。赤木しげる」
「アカギくん、ね。これからよろしく」

紗雪は優しくアカギの肩に触れた。そっと枕の方へ押し倒して、布団をかけてやる。疲れていたせいかすぐに寝息を立て始めた。あどけないその表情の裏に、どんな闇が隠されているのかなんて、紗雪はまだ知らない。

これが、二人の奇妙な関係の始まりであった。







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