06.興醒






「お、おかえりなさい!どうだった?」

つまらなそうな顔をしたアカギが帰ってきたのは朝方のことだった。夜中に目が覚めてからほぼ眠れず本を読んでいた紗雪は玄関で靴を脱ぐアカギに駆け寄った。彼は紗雪に何かを投げた。

「さ、札束!?」
「いらないから、あげる」

五千円札の束だ。全部百六十万円、だが昭和三十三年の百六十万は現在の千六百万以上に値する。そんな大金を唐突に押し付けられて、紗雪は驚いて地面に尻もちをついてしまった。

「勝ったんでしょう?何かあったの?」
「途中までは面白かったのに。どいつもこいつも腰抜けだ」

限界の限界を攻めた……いや、さらにそれを超えた、互いのどちらかが破滅するまでの勝負を求めているアカギにとって、今回の勝負は興醒め以外の何者でもなかった。追加の勝負をもちかけようとしたところで、それも安岡と南郷に止められて、一気に熱が覚めてしまったのだった。

「……私にできることはある?」
「風呂は」
「そろそろ帰ってくるだろうと思って、沸かしておきました」
「……じゃあ、風呂入るから、布団敷いといて」
「はーい」

紗雪は眠い目を擦りながら寝室へと向かう。二枚の布団のうち、アカギのものだけを押し入れから出して畳の上に敷いた。

(つまらない。こんなぬるい博奕なんかじゃあ、満たされないんだ)

ぬるいシャワーを頭から被る。
命懸けの勝負。その興奮は何ごとにも代えがたい、アカギの中では三大欲求をすっ飛ばすほど重要な意味を持つものであった。博奕にのことになるとそれは顕著で、矢も楯も堪らず耳を疑うような条件を相手に突きつけてしまう節がある。だがそれは、彼の生きる上での生命線だ。

自分の同類など存在しない。アカギがそう感じて、孤独の闇の中から抜け出せずにいるのは、自分のさがのせいでもあった。紗雪はもちろん、今では南郷や安岡にも良くしてもらっている。だがそれでも疎外感は拭えない。赤木しげるは化け物だ、自分たちには理解し得ない領域にいるのだ、そんな彼らの心の声が聞こえてくるような気分だった。

(化け物で結構。あとは、喰らい尽くしてやるだけだ)

アカギが信じている人間は、赤木しげるただ一人のみであった。



「紗雪さん、風呂上がった……よ」

冷水の入った湯のみを片手に、手ぬぐいを首にかけて寝室の襖を開けたアカギ。目を丸くしたのは自分の布団で気持ちよさそうに寝ている紗雪を見たからだった。

「隈まで付けちゃって。ほんと心配性だな」

顔だけをこちらに向けてうつ伏せで眠る彼女の目元をなぞる。それでも紗雪は目覚めない。
だがそこで、アカギはあることに気づいた。

(……っ)

第二ボタンまで開けられたシャツから見える胸元。人並みかそれ以上はある膨らみから目を離せない。一年間一緒に暮らしていた中で慣れてしまったせいか、アカギのことを弟のようだと思っているせいか、紗雪はこのように無防備なことがよくあった。
アカギは布団のもう半分に横になり紗雪の顔をのぞき込む。瞼、頬、唇、顎、首筋……そして胸元へ。白い肌の上に指を滑らせた。

(柔らかい)

それがアカギが初めに抱いた感想だった。これ以上は、これ以上はさずかに超えてはいけないと手を引っこめる。高ぶる思春期特有の感情をなんとか押さえ込んだ。それでも寝息を立てるだけの紗雪がなんだか憎たらしい。
彼女の柔らかな唇に自分のを押し付けた。
少しからかってみただけのつもりだった。触れるだけのキスでも、アカギは少し満たされたような気分になった。

「……アカギ、くん」

紗雪の黒曜石のような黒い瞳に見つめられて途端にアカギは現実に引き戻される。

「そんな格好で寝るなんて、随分大胆だね」
「ねぇ、今何したの?」

顔を真っ赤にした紗雪は慌ててシャツの胸元の部分を押さえながらそう聞いた。何かが唇に触れたような感覚は本当だったのかどうか。だが、それがただの気の所為だった場合、なんだか破廉恥な質問をしてしまったみたいで恥ずかしくてたまらなくなるだろう。

「ククッ、知りたいの?」

とても十三歳には見えないアカギの扇情的な様子にやられて紗雪は顔を伏せた。心臓の鳴る音がうるさくて仕方ない。壊れたメトロノームのように速くなっていくそれの抑え方を、交際経験のない紗雪はまだ知らない。

「あ、ぇと……」

声が小さくなっていく。

「からかっただけだよ。そんなに嫌だった?」
「えっ!?いや、嫌とかそういう問題じゃ……」

悪戯に笑ったアカギ。手で顔を隠して、その奥から覗き込んでくる紗雪はまるで悪いことをした後の子供のようだった。だがこの場合、責められるべきなのはアカギだろうに。

「こ、子供のくせに……!」

紗雪は布団を引っ張りあげて顔を隠してしまった。添い寝するような形になっていることも忘れている。

「おやすみ」
「……」

返事はない。彼女がもぞもぞと布団の中で少し動いたのが、今日の寝る前の挨拶だった。


紗雪が目が覚めたのは数時間後の午前十一時だった。窓から差し込む眩しい光で目が覚める。
アカギは既に布団にはいなかった。居間からの物音を追いかけて向かってみると、彼がラジオを流しながら床に寝っ転がっていた。読んでいたのは医学に関する豆知識が書かれた本だった。

「おはよう、ねぼすけさん」
「……おはよ」

ゆっくりとアカギの傍まで歩いて、座り込む。昨日の睡眠不足のせいかまだ思考に靄がかかっていた。今朝のことなんてとっくに忘れて、間抜けのようにうつらうつらしている彼女を見て、アカギは思わず笑ってしまいそうになる。

「顔洗って、くる」

洗面所の水音を聴きながら、アカギは脳内で今朝布団に横たわっていた紗雪を思い浮かべていた。今は一番上まで閉じられてしまっていたが、やはりあの胸元は刺激的だ。服の下に一体何が隠されているのだろうか。だが、何があったとしても、紗雪がその優しい腕で聖母のようにアカギを抱きしめることには、変わりはない。

「紗雪さん?」
「……」
「……どうしたの?」

アカギの顔のすぐ横に座り込んだはいいものの、ぼうっと彼を見つめるだけで紗雪は動かない。まだ寝惚けているのだろうか。それを不思議に思ったアカギが体を起こしたところで、紗雪が体をぐい、と近づけてきた。

「……ふふ」
「え、あ…………」

お返しだ。そう言うかのように唇を奪われた。
ほんのり頬を染めたアカギは珍しくしどろもどろになって、嘘だと呟きながら何度も唇に手を当てた。

「じゃあ、もうちょっと寝るから。おやすみ」

寝室に戻っていった紗雪は満足そうに笑っていた。……これが初めて、アカギが紗雪に負けた日である。







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