天命マティマティカ




翌朝、旅人は迷彩鳥の鳴き声で目覚めた。可愛らしい見た目のこの鳥は主にスメールの森林地帯などに生息しているはずで、砂漠に野生のものはいないはず。そう思った旅人が窓辺に寄ると小さな紙切れを立派な嘴に挟んだ迷彩鳥がぶるっと身震いをして砂を払い落としていた。

『黄金の英雄になる者へ____

僕があれから家に戻ってしばらくした後、烏が僕を捕まえようとした。彼にとって僕は大分優秀な餌らしく、巣にはついて行けないと言ったらとても悲しんでいたよ。確かに彼の翼は立派だし是非とも一度じっくり見てみたいものだけど食われちゃ困るからね。そういえば、彼と僕は正反対の性格をしているんだよ。僕は常に賢者を目指しているけど彼は2番目でも気にしないみたい。とりあえず君も元気でね。暖かくなってきたし、そろそろ烏も元気になる季節かな?
____命を知る者より』

これは凪紗が旅人に当てて書いた連絡文である。迷彩鳥が途中で紙を落としてそれを誰かに見られてもいいように隠語や回りくどい口調で書かれている。
つまり、凪紗が二番目の烏.......ファトゥスの執行官第二位『博士』に捕まり勧誘された。旅人はその結論に至った瞬間アルハイゼンの元へと走り出した。




「そうか、君があの命論派の賢者サマだな?」

あの夜、旅人達と別れて一人スメールシティに戻った凪紗は知恵の殿堂に来ていた。マハールッカデヴァータやクラクサナリデビ、キングデシェレトなどの神の歴史について調べるためであった。一応明論派に所属している彼はスメールの歴史に疎い上に、情報が漏れてしまう危険があるためアーカーシャも使えず知論派や因論派の書物を引っ張り出すしか無かったのだ。随分長い時間読書に集中していたようで、後ろから近づく影に気づかなかった。

「……ここは関係者学者以外立ち入り禁止ですよ。立ち退いてください」
「そんな冷たいことを言うな。……私だってこの偉大なる教令院の学者だった」
「だった?教令院を自ら辞める学者なんて珍しい……」
「おや、聞いたことがないか?」
「……まさか」

数年前まだ学者だった時に禁書エリアでこっそり読んだ論文。まだ未熟だった凪紗に衝撃を与え、彼が賢者を目指すきっかけにもなった追放された学者の論文。
その内容は非人道的で、とてもじゃないが賛成できるものではなかったが、完成度は高く追放されてしまったのが惜しいと思う程であった。

「あの論文には驚かされましたが、何故ここに?」
「それは簡単な話さ。君のような優秀な学者が、こんなところにいるのは惜しい。そう思わないか?」
「さあ。貴方が何を考えているのかさっぱりですよ」

怪しげな仮面をした男はゆっくりと凪紗に近づく。コツコツ、と部屋に響く音は突き刺すような冷たく高い音だ。凪紗は震える身体を隠すように後ずさりして壁に背を押し付け男を睨む。法器を召喚しようとするが悪寒のせいで元素力が身体に回らず、ただその場でじっと息を殺すことしか出来なかった。

「考えても見ろ。今までの命論派おまえに対する扱いはどうだった?論文は馬鹿にされ破り捨てられ、資金も与えられず、狂人扱いされて挙句の果てには研究室に軟禁されかけていた。とても残念だが、才能だけが全てではないのだよ」
「……何が言いたい」
「私と一緒にこないか。ファデュイは君のような者でも充分歓迎しよう」

男は本棚に密着したままの凪紗にぐいと顔を近づけて言った。その肌はよく見るととても白く綺麗で、思わず見蕩れてしまう程であったが彼の言葉に遅れて衝撃がやってくる。
こいつは、ファデュイの執行官、『博士』だ。
そんな男が自分を引き入れようとしている事実が信じられなかった。あの優秀だった教令院の学者が、今はファデュイにいて自分を勧誘している。元素の力が使えない今、凪紗が博士に抵抗するなんて難しいことでただひたすら黙り込むしか無かった。服の裾を握りしめて耐えていると、彼の上がっていた口角がだんだんと下がりついには後ろに回していた両手を凪紗の首元へ伸ばした。

「……っ!?ぐうっ……っは、あ……」
「残念だな、少年。君はまだ賢いと思っていたんだが……本気でここに残るつもりなのか?」
「……っあ、まだ……やくそくが、ぐっ……の、のこって……」
「実に滑稽だな。このままこの国が地に堕ちる様を見ておくといい。将来の為になるぞ……まぁ、君がまだ生きているかは分からないがな」
「っ〜〜はぁっ、は、は……!」

手を離された瞬間、#名前の身体は本棚にもたれかかったままぺたりと座り込んでしまった。息を整えながらもぼやける視界には扉に踵を返す博士の姿があった。教令院に対する怒りなのか悲しみなのか、どこか寂しげなその背中に彼は手を伸ばして眠ってしまった。


アルハイゼンはその話を聞いて珍しく怒りを顕にした。二日後の夜、砂漠に戻ってきた凪紗を借りている部屋に引きずり込むと後ろから思い切り抱き締めた。

「あ、アルハイゼン……君、一体どうしたんだ!?離してくれ!」
「君に何かあったんじゃないかと思って心配していたんだ」

その言葉に凪紗は目を見開いた。ふと顔を見上げれば目には涙が滲んでいて、目が合うと優しい笑みを浮かべた。ただでさえそういったことにはめっぽう弱いのに、顔だけ見ればまるで女性のような美しい顔をしている彼からされてしまえばもう無理だった。アルハイゼンは林檎のように顔を赤らめる凪紗をもう一度強く抱き締めて首元に頭を寄せた。凪紗の身体にちくりとした痛みが走る。

「いっ……!アルハイゼン、急に何を……?」
「君を危ない目に合わせたくない。俺の部屋で帰りを待っているといい。衣食住もちゃんと確保するしお金は自由に使ってくれて構わないよ。先客はいるが……流石の彼もそこら辺は弁えてくれるだろう」
「そんな勝手に言われても困るよ!僕は旅人とこの作戦を成功させる約束をしたんだ。今更それを破るなんて出来ないよ。だいたい僕達はそんな関係じゃないだろ」
「そんな関係じゃなかったら……心配しちゃ駄目なのか?」

こてん。あざとく首を傾げたアルハイゼンは少し不機嫌そうだ。なんだか罪悪感が湧いてきてしまった凪紗は見下げるアルハイゼンの頬に両手を伸ばして視線を合わせた。スメールの男性の平均と比べて背が低い凪紗にとって少々きつい姿勢ではあったが、じっくり瞳を見つめてみると以外に綺麗でつまらないものでは無い。

「……それには感謝するよ。それに、君の独占欲や嫉妬も分からなくもない。でも僕たちには成すべきことがあるだろ?そうだな……じゃあ、無事にこの国を救うことが出来たら、君の願いを叶えてあげなくもない」
「なら頑張るしかないな」
「ふっ……純粋か君は。良くも悪くも僕は約束を守る主義だからね、失敗したら知り合い以上親友未満継続だ」

そう言って互いに身体を離した。冷静に、なるべく感情を押さえつけて話す凪紗だが顔も耳まで真っ赤で手を震えていた。乙女のように初心な反応をするのが可愛らしくて、アルハイゼンにしては珍しく微笑む。とんでもない約束を交わしてしまった二人は、これから神と人類の禁忌に立ち向かうのである。





「うーん、こんなもの見た事ないから分からないけどとりあえず試してみますよ。いくつかあてがあるんです」

色鮮やかな花畑の中で横たわる少年を見ながら凪紗は言った。あの日、旅人に敗れた散兵はそのまま眠りについてしまった。今はナヒーダの力によって保護されているが、彼の身体に異常が無いか確認するために凪紗が呼ばれていたのだった。

「色んな学者をここに呼んで試しているのだけれど、あまり成果はないの。相当高度な技術なのね……散兵の力も使いようによってはスメールに有益をもたらすだろうと思ったのに、残念ね」
「そうでしたか……お役に立てずすみません。また何かありましたら連絡致します」
「ありがとう。よろしくね」

凪紗はそう言ってスラサタンナ聖処を去った。雷神によって造られた人形が、神になろうとして旅人と戦い、結局草神に監禁されることになるとは。とても興味深い出来事だった。この事は恐らく語り継がれることなく内密に取り扱われるだろうが、歴史に残べき大事件であろう。旅人はその歴史に立ち会った貴重な人物なのだからと、凪紗は熱烈なインタビューを行った。ただの自己満足である。

「……で、そこの書記官さま?僕たちを心配させたことについては何も思ってないの?」
「……あれは作戦だったからな。仕方のない事だ」
「君らしいね。それで、あの約束のことだけど」

作戦成功を祝うパーティの帰り、凪紗とアルハイゼンはラザンガーデンに来ていた。月の光はステンドグラス調の建物によって青白く降り注いでいる。静かな庭園で二人は向かい合った。

「まぁ、君がしたいならね」
「君は……俺のことが好きじゃないのか?」

考えたこともなかった。初めてあった教令院の研究室から今に至るまでアルハイゼンのことは先輩と後輩……いや、友達程度くらいにしか思わなかった。凪紗はその性格と身分のせいで友達が少なかった為、気軽に話せるというのは嬉しかったが不思議な性格をしているのがどうも気に入らなかった。

「少なくとも嫌い……じゃないけど、考えたことがないんだ。恋愛というものには疎くてね。でも、その……君となら何故か上手くやっていけそうな気がするよ」
「そうか、俺もだ」

あの気難しい書記官と怪しい学者が恋仲であることは知恵の神でさえも知らない。ただ、単なる知的好奇心だったものが恋心に変化するのはよくあることである。観察対象から想い人へ、恋人へと変化していくのだ。アルハイゼンは凪紗の手を握る度に学生時代を思い出していた。彼の気を引くために奇抜な論文を書いたり、積極的に話しかけたり。やっとこの努力が実ったのだから少しは好きにしていいだろう、とアルハイゼンは凪紗の手の甲に口付けを落とした。







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