間桐慎二な誰か3
間桐桜は幼い頃、とても暗い女の子だった。
常に俯いていて、口を開くのは必要最低限。はい、いいえ、わかりました。それの繰り返しだ。
俺はそんな桜に、積極的に話しかける事なんてしなかったし、むしろ廊下ですれ違うのさえ避けていたくらいだ。顔も合わせることなく一日が過ぎることが大半だった。
その日はいつものように自室で篭って勉強をしていた。一人でいることが好きだったし、この家の誰とも出来れば関わりたくなかった俺は、大体を自室で過ごしていた。ペラペラとページをめくりながら鉛筆を走らせていると、ふいにコンコン、と控えめなノックが響いた。
「…あの、にい、さん。いま、だいじょうぶ、でしょうか」
か細くて、吹けば飛んでってしまいそうな声量だった。珍しい事もあるものだと思ったが、無視する訳にもいかず、恐る恐るドアを開けた。
扉の前で間桐桜は胸に算数のドリルを抱え、いつも通り俯きがちに暗い顔で幽霊のごとく立っていた。ちょとビビりつつも顔には出さないよう部屋へ入るよう促すと、驚いた顔でこちらを見てくるので「いいから入れ」と言ってしまった。案の定、「ごめんなさい」とか細い声が聞こえた。
部屋のドアを閉めると、桜は居心地が悪そうに、所在なさげに立ち尽くした。いや用があって来たんだろと言いたいところだったが、こんな萎縮した相手に怒る事も無いだろと自分に言い聞かせ、なるべく普通に、と心の中で唱えた。
「何か用?」
「あ、の」
それでも桜は言いよどむ。というかそもそもこちらを見ない。足元に視線を落としながら、手に持ったドリルを開いた。
「どうしても、分からないところがあって、いま、お手伝いさんは、いそがしそうで、そしたら、おにいさんに、聞けばって」
ぽつぽつ話し始めた桜に少し苛立つ。そんなに嫌なら来るなよと思うが、言ったところでごめんなさい、と言って出ていくだけだろう。仕方がないので、桜にさっきまで自分が座っていた椅子を引いて座るよう促した。戸惑いながらも桜が座ったのを見て椅子をもうひとつ取りに部屋を出た。確か隣の部屋にあったはずだ。
小さい体でえっほえっほと椅子を運び込むと、桜は椅子に座ったままオロオロとこちらを窺った。その隣に椅子を置いて自分も座る。
「で、どこ」
「ここ、です」
小さな指で、桜の歳では確かにまだ難しい段階であろう問題を指さしていた。俺はなんというか、ズルになるのだが正直小学校低学年の問題なんておちゃのこさいさいと言った所なので、問題文を読みふんふんと頷く。
「どう分かんないんだ?とりあえず、やってみたのを見せろよ」
「あ…、これ、です」
隅っこに、相当悩んで書いては消してを繰り返したような跡がある。それを指さしながら、桜は相変わらず小さな声で話した。
「なんど計算しても、まちがってて、どうしてか、わからないんです」
ふむ。計算式を見てみると、どうやら勘違いをしている箇所がある事に気づけた。ドリルを桜の方に寄せ、ここ、と指をさす。
「ここ、違う。なんでか分かるか?」
「え?………えっと……ごめんなさい」
分からないと言えばいいだけなのに、何故か謝られる。思わずため息をつくと、また謝られた。
「ごめんなさい…」
「いや、もう謝んなくていいから」
「はい、ごめんなさ…あ、」
言ったそばから謝った桜に、流石に笑ってしまった。すると桜は驚いた顔で、珍しく顔を上げこちらを見てくる。
「…にいさん、笑ってる…?」
「なに?いいから手動かせよ。ここの部分もう一度考えて」
「は、はい」
言われた通り直ぐにドリルへ向き直る桜の横顔を眺めながら、そう言えばこの世界で、久しぶりに笑ったなと思った。



「兄さん、兄さん、ここ、ここも分からないです」
「はぁ?お前なんも分かってないじゃん。どうすんのそんなんでテスト」
「だから兄さん教えてくださいって言ってるじゃないですか」
「いやなんで教わる側がそんな偉そうなのさ」
グイグイ椅子を近づけて、桜が教科書の問題を指さしながら「ここと、あとここと」と分からないという割には楽しそうに話す。机を逆さにくっつけて向かい側に座る衛宮が、それを見て微笑ましそうに見てくるのが物凄く目障りだ。
「つーかなんで衛宮までいんの」
「俺も分かんないとこあるんだって言ったろ?」
「教えるとは一言も言ってない」
「慎二、教えるの上手いよな」
話を聞けよ。桜はというと全く気にしてないらしく、今度は違う科目の教科書を取り出して丸をつけ始めた。どんだけ教わる気だよ。
「お…僕、帰りたいんだけど」
危うく俺という所だったがすんでのところで取り繕う。別に今更たかが一人称なのだが、もうぜんぜん擬態が出来ていないのでせめてもの抵抗である。自分でも本当に意味ないと思う。
「いいじゃないですか。私、放課後の教室で勉強するの、ちょっと憧れだったんです」
「あっそ」
ニコニコ笑う桜に短く返事をする。随分変わったもんだな、と心の中で呟いた。
「なぁ、終わったら2人とも、俺の家で飯食ってかないか」
「えっ、いいんですか、先輩!」
「もちろん。慎二」
いいよな、と言いたげに笑いかけてくる衛宮に「ん」と返事をすると、なぜか意外そうな顔をされた。
「来てくれるのか?」
「なに、お世辞だった?」
「いや、違うぞ。歓迎するよ、美味いもん作るからな」
正直に言うと、衛宮の作った料理は美味い。ご馳走になれば、並の店より断然いい物が食べられるのだ。俺は衛宮に勉強を教えるわけで、その見返りにコイツが料理をするのは当然だ。そう、当然、当然なのでご飯くらい食べてやってもいい。お腹空いた。
「何が食べたいんだ?リクエストしてくれ」
「ふーん…じゃあ、考えとく」
何にしようか、と考えると自然と口角が上がる。ハンバーグもいいな、エビフライも捨て難い。
「あ、兄さん、笑ってる…?」
考え込んでいると、桜がなにか言ったのが聞こえたが、ハッキリとは聞き取れなかった。何?と顔を向けると、やたらと嬉しそうな顔で2人がこちらを見ている。
「…え、何?その顔…なんか嫌なんだけど」
「ふふ、ほら、兄さん、早く教えてくださいよ、ここですってば」
「あー、はいはい」
「慎二、次俺な」
「うっさいな、わかったよ」
夕日のさすオレンジの教室に、3人の声だけがこだましていた。