疲弊しているんだと思う。たぶん、自分で思っているよりも、もっと深刻に。
石のように重たくなった頭を手のひらで支えるようにしてテーブルに肘をつく。濁流みたく押し寄せる思考の波が雑音になって耳鳴りになる。頭が痛い、手のひらを湿らせているのはおそらく自分の額から滲む脂汗だろう。
浅く呼吸を繰り返すと、ほんの少し気分が軽くなる気がして肩を上下させた。でもそれはいっときの気休めで、細かく息を肺に送ろうとも、逆に深く息を吸い込もうとも、それ以上に効果を発揮することにはならない。気分が悪い。吐きそうだった。
「失礼」
視界が一瞬クラッと傾いた。自分の今ある状態が掴みきれないまま、眼前に涼やかな男の完璧な造形をした顔がある。薄い唇はやや不機嫌そうに結ばれているが、これが彼の大体のデフォルトの表情なのは理解していた。しかし、なんでホームズの顔がこんなに近いのだろうか。
「経営顧問!所長命令だ、そのままそのあんぽんたんを医務室に運びたまえよ!」
「もちろんだとも。名前、君は目を閉じていなさい」
「あんぽんたん、て、なんですか…」
「気絶するならするで早くしなさいよ君ィ!」
なんというか、意識を手放す最後の声が所長の声で、場所も立場も弁えず「わぁ、お母さんみたいだ」と思った。
「いやそこ、お父さんじゃないのかね…?」
なんか声に出ていたみたいだ。そこでとうとう、意識は途絶えた。
無意識下では、人の心理が色濃く出るとはよく言ったもので、夢というのはなんとも都合のいい、それこそ、『夢』を見せてくれる世界なんだとつくづく思う。
白衣の袖の擦れる布の音まで鮮明に、揺れる髪の毛の一本一本までに魂があるようにすら見えた。横顔から見える表情は真剣で、いやいや美化し過ぎではと自分の夢とはいえ笑ってしまう。もっとふにゃっとした表情のほうが、この人らしいはずなのに。
手に持っていたペンをコトンと鳴らして机に置くと、▄▄▄は俺の方を向いて何かを喋っていた。それは音にならず周りの空気を揺らすことの出来ない何かで、それでも彼は気にせず、あるいは気づいていないかのように俺に向けて何かを話している。
呆れたような顔、仕方ないなと首を振る仕草、そして柔らかくはにかんで、俺の頭にポンと手を乗せる。
笑ってしまった。どこまで都合がいいんだか。例えセリフがなくても分かってしまう、また君は無茶をして、しょうがないな、次は気をつけるように、そう言っているのだろう。俺が、そう言って欲しかったから当たり前なのだが。
温度など無いはずの頭上から、確かに温もりを感じた。意外と大きな手のひらが包む箇所から、陽だまりのようにじわじわと暖かくなる魔法が彼の手にはあったのだ。
「寂しい」
口から出た言葉は性懲りも無く情けなかった。でもいいや、夢だから。これは目が覚めた時に泡のように消えるただの影法師に過ぎないんだから。
不意に、頭上の温度が消えた。いや、夢なのだから、はなから温度など感じないと言えば感じないのだけど。
手のひらが離れていく。顔を上げると、▄▄▄が微笑んでいた。ぼやけてよく見えない。その口が、何かを言おうと少し開くのだけは分かった。
ぱくぱくと音のない言葉が、不思議と真っ直ぐに耳に届いた。
「君、何も変わってないね」
「あ」
夢でした。当然のように。
当たり前の事実をひたすら噛み締めて、馬鹿みたいに伝う涙を拭うのもかったるい気分だった。
天井をただただ見つめ、時間が停止したように動けない体とは裏腹に思考は冷えていく。彼はそんな事言わないし、きっとあれは俺が俺に向けた言葉なんだと理解していても、情けないくらいに突き刺さってしまった。そう言えば、こうして医務室に運ばれるのも何回目なのだろう。ナイチンゲールにキャスター付きの椅子ごと運ばれたのが懐かしい。あの頃面白がった同僚に後で嫌ほどからかわれたのが、嘘のように遠い昔の話に感じてしまった。彼らはもういなくて、その事実がまたどうしようもなく悲しいことだということを思い出した。
「お前の涙は一体何リットル出続けるのだろうな…限界まで搾って、実験してみるか?」
「ぎゃあ!」
みっともない悲鳴をあげた俺に、アスクレピオスは眉間に皺を寄せていた。その隣には点滴パックが吊るされていて、言うまでもなく俺の体に繋がれている物だろう。わざとらしいため息をついて、アスクレピオスは俺の頬をその長い服の袖でなぞった。
「全く、外傷のない傷ほど厄介なものは無いな。貴様の場合ギリギリまで取り繕うのが無駄に上手いせいでこのザマになるわけだ。愚か者め」
「いだっ!」
優しく涙を拭いてくれているのかと思ったら、おでこをパチンとはたかれた。わりと痛い。たぶん赤くなっていることだろう。
「睡眠障害、貧血、軽度のうつ症状。問答無用でしばらくの間療養だ。さもなくば…」
「さ、さもなくば…?」
「ここに何らかの成分が含まれた注射器がある」
「します!します!」
照明の光で反射し光る針の先端に冷や汗を流して首を振ると、舌打ちをして残念そうに袖にしまい込む。残念がらないで。
アスクレピオスは俺を見下ろしていたベッドサイドからゆっくりと移動すると、近くの低い椅子に腰を下ろした。脚を組み、その上に肘を乗せ頬杖をつく。それから、何も言わない。ただじっとこちらを見つめている。
「…………」
「…………」
その眼差しは穏やかだった。言葉に詰まった幼子をあやす様な、柔らかな空気を感じる。珍しい表情に驚いて固まっていると、すぐに眉根を寄せてその手が袖の中をまさぐりだす。
「そんなに打たれたいらしいな」
「寝ます!寝ます寝ます!あー!もう眠いな!グーッ!グーッ!」
慌てて目をつぶって布団を頭まで被った。またもや大きなため息が聞こえたが、しばらくしてもアスクレピオスが部屋から出ていく気配はない。
狸寝入りでもしようかと思ったが、恐る恐る布団を剥いで盗み見ると、さっきと同じ状態で、変わらず俺の方を見ている。余りにも真っ直ぐ見つめてくるので、だんだんと顔に熱が集まりだす。なるほど、俺は確かに何も変われていないらしい。
「もっと役に立ちたいのに」
零れたって感じで、口からそんな言葉が出ていた。僅かにアスクレピオスの表情が歪む。くだらない事を聞かせてしまった。どうしようもなく自分が不愉快に感じて、姿を晒したくなくなり布団をまた頭まで被って逃げた。
「ごめん、忘れて」
彼になら、ロマンになら多分、俺は話をしていたんだろうな。いつだって欲しい言葉が貰えたから。当たり前だ、それが彼で、彼の仕事で、俺はそれに甘えていたのだから。
こんな自分寝て起きたらすぐに忘れられる。甘ったれで根性無しで優柔不断。他人に期待して勝手に落ち込む自分勝手な人間は、さっさと寝て消えてしまおう。消えろ、消えてしまえばいい。
頭の中で、消えろ、消えろとひたすら反芻していく。誰かに自分の存在意義を託す自分、認めて欲しいとひたすらに懇願し媚びを売る自分、もうぐちゃぐちゃにかき混ぜて全部が気持ち悪く感じる。きっとこの思考は正常じゃない。正常じゃないから必要は無い。捨てなくちゃいけない、消えなくちゃいけない。ロマニに胸を張っていられる自分になれるように、はやく、こんな自分捨てなくちゃ、はやく、こんな自分消えなくちゃ。
あれ、でも、それってやっぱり
「気持ちわる、」
「愚患者」
急に視界が眩しくなった。目の前にはアスクレピオスの見下ろす目。剥がされた布団の端を持つ彼の手と、もう片方の手が俺の頬をがっちり掴んだ。
「…………」
「あの、いたいれふ…」
無表情で頬を思いっきり抓られている。普通に痛い。涙出てきた。
「僕の前任者が残したお前の記録は嫌になるほど正確だな。こうもデータ通りだと僕がつまらん、何か面白い奇病にかかれ、今すぐにかかれ」
「いや無理です、全然無理です……前任、者?」
動かない脳みそが油切れでギチギチ音を立て、それでも今聞き逃さなかった単語の意味を必死で考え始めた。
「それって、」
「いいから寝ろ。頭を空にして目を閉じろ。何も考えるな。余計な思考を働かせるな。深く息を吸え。呼吸を深くしろ。言うことを聞かなければ薬を打つ」
「いや、あの、でも!」
「よし打つ」
「ウ゛ッ」
深い沼にゆっくり沈んでいくように、意識が奥底に落ちていく。途切れる最後の一瞬に、優しく温かい温度を頭上に感じたのは、もしかしたら、夢だったのかもしれない。
「名前くん」
肩をつんつんと突くという、可愛らしい女の子の仕草とは裏腹に、イタズラを企む悪ガキという感じの笑顔でシオンが立っていた。その手にはスマホのような液晶パネルが握られており、何やらそれを俺に見せたいようで、シオンは俺の視線がそちらに移った瞬間にすかさず再生ボタンを押した。
「あ゛っ」
「こちら、かの名探偵が名前くんをお姫様抱っこする貴重映像でございます。現在カルチューブ再生数ランキング1位。おめでとうございまーす!」
「やだーーーーー!!!」
もう本当に体調には気をつけたいと思います。本当に。