モリアーティ教授と女主
ジェームズ・モリアーティは悪である。
あらゆる犯罪者が多種多様な経緯を辿り自身の悪を自覚し、悪の力に侵食され、犯罪史の一片に名を刻む事を夢見るのなら、彼は正に犯罪界のレジェンドであり、そしてまた超えるべき1つの指標となる偉大なる悪党である。
ただし、彼の悪は強盗、恐喝、暴漢、詐欺、殺人、そういった直接的で即効性の悪性ではない。目的の為のルートとしてそういった手段を選ぶことはままあるが、大抵の悪と呼ばれる者達がそういったものを到達点としている中、彼の目的はそこでは無い。

例えば、戦争も知らない無垢な子供に核兵器の作り方を教えるように。

例えば、人間による無責任な自然破壊を憎む若者に「あれが全ての元凶だ」と囁くように。

例えば、全てを失った男の空虚な手にナイフを握らせ、「君が勇者なのだ」と諭すように。

彼の毒は蜘蛛の糸を巡らせ、知らぬ間に体にまとわりついている。最後の一瞬で目が合ったかと思えば、最早その眼球は溶けだし、腐りきった肉の下で、窪んだ骨の薄暗い穴の暗がりを、彼は愉快そうに見るだけだろう。もしくは、ただ単に穴の向こうの景色を覗き見ているだけなのかもしれない。
いつどこでどう召喚されようとも、彼の"悪性"は絶対である。少なくとも、彼はそのようにして生まれた。たとえ彼がそうなる前の、まだ蛹の孵る以前の姿の霊基が、可能性として"悪"を抱かなかった道があるのだとしても───"この"ジェームズ・モリアーティは間違いなく、一片の隙もなく、そうでないという可能性の1つとして残らず、完璧なまでに残酷に、そしてどうしようもなく、自身を「悪」だと断言できよう。

さて、彼が如何に悪党かという紹介はこれぐらいにして、彼の今現在の状況に戻ろう。

時刻は深夜の1時を過ぎた頃。彼は人通りの少ない住宅街を気取らずに歩く。手には数冊の高価そうな本、ベージュのトレンチコートを気品よく風でひるがえし、やや俯きつつ、もう片方の手でハンチング帽を目深にかぶっている。通りを見ただけで大抵の人が"それなり"の富裕層だと思う家並みの中から、"それなり"の大きさに見える"それなり"の家へ、彼も"それなり"の人間のように、ごく自然に入って行った。

現在、彼はこの世界で人々を守るという役割を与えられながら、要注意人物として政府から監視をされている。何故、どうしてと勿論思われるかもしれないが、それは先程彼が如何に悪なのかという陳述をした通りであるので、具体的な事は割愛させて頂くこととする。

どれだけ監視され目をつけられているからと言って、彼が特に何かを気にするような事は全くない。捕まる心配など万に一つとしてしていなかった。それは彼の己の知能に対する絶対の自信である、…と言いたいところだが、より説得力のあるものを読者に述べるのなら「ここに未だ彼の"宿敵"は召喚されてはいない」という、ある種、彼にとって屈辱的な、それでも絶対の理由があった。

その夜も、彼は鼻歌でも歌うかのような気楽さで知略の巣を巡らせながら、筋書き通りの脚本で映画を撮り終わると、舞台へ向かって拍手をして嘲笑うように幕間へと消えていった。
彼の手で舞台上に立つ者たちが浴びるスポットライトのその奥で、輪郭を持つ暗がりの中の闇が笑う。犯罪界の帝王が、深夜の暗い家屋の廊下というレッドカーペットを悠然と抜け、口元にニヒルな笑みを浮かべながらリビングへ続くドアを開けると、

「あ、お帰り教授」

「キャァーーッ!?」

リビングの真ん中、火を灯した蝋燭に囲まれ、薄ぼんやりした暗がりの中からのんきに挨拶をする己のマスターに普通にビックリして悲鳴を上げたのだった。






「いや、本当、何してるの、うちのマスターちゃんは」

「召喚の儀式だけど」

「え゛、私以外の英霊を呼ぶってこと?アラフィフ、遂に見捨てられたってこと!?」

「え、違うけど…」

とりあえずリビングの明かりをつけ、年齢も見た目もちぐはぐな2人は向かい合ってテーブルに座っていた。片方はアラフィフ、もう片方は女子高生。親子にしては少し離れても見える2人は、しかし、わりかし気安そうに会話をしていた。

「じゃあ何かね?残る可能性としては、私には後は何かしらの黒魔術をしようとしていたとしか思えないんだがネ?」

「近い…?」

「近いの!?」

頭に紐で蝋燭を2本縛り付けているパジャマ姿の少女が、本体重量を強化し、さらに物量を増加させるという、可愛いという概念以外の付加価値が0に等しいカバーが取り付けられたスマートフォンをモリアーティに向けて見せる。ちなみに、彼女の頭の2本の蝋燭に灯されていた火はモリアーティが瞬時に消した。


モリアーティが画面を覗き込むと、そこには2次元的な美少女が画面いっぱいに目まぐるしく映されていた。期間限定ピックアップという文字が商魂逞しく輝いている。

「洋子ちゃんがね」

「誰ェ…?」

「推しを引くなら深夜2時暗がりの中蝋燭に囲まれた闇の中で手を合わせながらスマホに額をつけて引いた方がいいんだって」

「名前ちゃん、アラフィフね、お友達はもっと選んで欲しいなって思うヨ」

数学教師に偽装するために抱えていた教材をテーブルに置きながらコートを脱ぎ、モリアーティはやれやれと首を振った。

「その目の下のクマもメイクかね?」

「いや、これは単に昨日から寝ずにオールでカラオケ行ってたからだけど」

「寝なさいよォ!」

よく見ると本当に眠そうだ。時刻は1時15分。
自分が帰ってこなければあの状態で2時まで待っていたつもりだったのだろうかと、割と本気でモリアーティは自身のマスターの将来が心配になった。

「若さにかまけてると、お肌ボロボロになるヨ…?」

「数学の教科書…教授、勉強してたの?」

「ハハハ、まさかぁ」

名前はペラペラとページを捲り、頬杖をついてを読んでいる。その目の焦点はあまり合っていない。怖ァ…とモリアーティは思いつつコートをハンガーに掛けた。

「数学…数学っていいよね…私数学大好き…」

「うんうん、早く寝なさいね」

己のマスターの奇行をとりあえずは注意して、モリアーティは自室に戻った。


名前は自身が召喚したジェームズ・モリアーティという英霊にさほど関心がないのだと、モリアーティは思っている。彼女はモリアーティがどれだけ彼女の元を留守にしてもあまり理由を聞きはしないし、何をしてきたかと問い詰められた事も一切ない。彼女の祖父の部屋を自室にしても、あれこれ機材を運んできても文句を言われたことは無い。裕福な為、頼めばそれなりに色々と揃えてもらえる。彼にとってはかなり好都合なマスターだ。
それでもって、名前は大衆の人助けにもほとんど関心がない。聖杯の反応が見つかったと知らされても自分の都合が悪ければ平気で無視するので、この地区で名前が適合者だということを知っている人はほぼ皆無に等しいだろう。
モリアーティが思うに、別に名前は人の心が無いわけではない。話せば友達の話や学校の話、ただ楽しく人生を生きている高校生の少女が出てくるだけだ。
ただ、かなり頭は非凡であると言える。学業の成績は良い。要領も良く、モリアーティでさえ、話していて年齢差の知識量はあるもののその理解力と判断力の良さに心地良さを覚える。

だが如何せん彼女はとことん、「自身が楽しいこと」に貪欲なのだ、というのが、現時点でのモリアーティの所感だ。あとたまに行動が読めずにビックリさせられる。さっきのがいい例だ。

何にせよ、都合がいい。関心を持たれすぎて邪魔になっても困るし、要領が悪すぎて足を引っ張られても困る。これからも程よく利用させてもらうに限る。

時刻は程なくして深夜2時になりそうだ。そういえばそろそろ謎の儀式の時間だなとモリアーティがリビングの方へ降りていくと、テーブルに突っ伏した名前が鉛筆を握りしめて寝落ちていた。やれやれと溜息をつき、ベッドまで運んでやるかと彼女に手を伸ばす。

「………。」

ふと計算式の書かれた紙が目に止まった。名前が書いたのだろう。自分のでは無い。つい目で追いながら彼の天才の頭脳は無意識に数式を解きだした。文字を読むように解ける。簡単なグラフの式だ、いくつかの曲線が導き出せる。

気になるのはそれが規則的で、ある順序を導いているように続いていることだ。モリアーティは名前の手から鉛筆をそっと抜き取ると、空白になっている部分に曲線を書き出す。これは平仮名の書き順だ。
計算式が横に余白があるのに下の段へ移っている。これはおそらく段落だろうと踏んだ。後半につれ数式はやや複雑に難易度を上げていたが、モリアーティには造作もなかった。

「………。」

そして、5分程で暗号は解けた。出てきた文章を、モリアーティは数式でいっぱいの紙を掲げて読み返す。


『ねてたら
おしといて ⤴︎(笑)』

「………。」

「ふがっ」

モリアーティは無言で、涎をたらして寝ている名前の額を叩いた。その時、時刻はちょうど深夜2時を迎えた。







朝。名前は硬いテーブルの上ではなく、ふかふかの布団の中で目を覚ました。朝の日差しを浴びながら、ぼんやりとした頭でスマホを手繰り寄せる。時刻を確認し、遅刻であることを知るも全く慌てた素振りもなく画面のロックを解除した。もはやチャイムに間に合わせるつもりは微塵も無いらしい。寝ぼけた顔で大好きなゲームのアプリを起動させる。

「……………!!」

そのホーム画面には、彼女の愛してやまない推しキャラの限定衣装バージョンが燦然と輝き、彼女の方を見てにこやかに微笑んでいた。





「きょうじゅありがと大好きいぃーーーー!!!!!」

名前の部屋から歓声が聞こえる。モリアーティは清々しい朝日に照らされながらコーヒーを飲む。

「はいはい」

宿敵のいない、スリルもない思うがままの日々。

ただ彼は今、退屈はしていなかった。