嫌な夢を見た。暗がりの部屋の中、零れ落ちた雫を人差し指で目元に擦りつける。枕元の電子時計で時刻を確認すると、深夜2時ちょうどだった。
胸に泥を詰められたみたいに気分が悪かった。顔を洗って深呼吸をしても、まとわりついた不安と漠然とした恐怖が離れてくれない。…温かいものが飲みたい。サーヴァントといえど、夜は自室にいる。職員もみんな寝ているだろう。重い体を引きずって食堂へ向かうことにした。外の吹雪は珍しく止んでいて、不気味な満月の光だけが、カルデアを薄緑に照らしている。
誰もいないと思っていたのに、厨房の明かりがついていた。深夜だが、誰かが明日の仕込みでもしているのだろうか。それにしても静かだった。
厨房の入口から様子を窺うと、見慣れた後ろ姿の少女がいた。ひとり、電子ケトルの前でお湯が沸くのを待っているようだ。放心してるのだろう、俺が近くに来ても気づく様子がなかったので、そっと肩をたたいた。
「わっ」
びっくりしたのか、肩を跳ねさせこちらを振り向いたマシュは、レイシフトの時とは違い眼鏡をかけていた。驚いた顔をしていたが、俺だと分かると表情を和らげてくれた。
「名字さんでしたか、すみません、ぼうっとしてました」
「いや、俺の方こそごめん。びっくりさせて」
いえ、と笑うマシュに安心する。ふと気づいたが、もしかするとマシュときちんと向き合って話すのは初めてかもしれない。いつもドクターかダウィンチちゃんを介しての会話しかしていなかったような気がする。
「マシュ、俺の名前覚えててくれたんだな」
ただのスタッフである俺の事を知っていてくれたことに喜んでいると、マシュが笑った。
「名字さん、有名ですからね。カルデア女性人気投票で"朝起きたらコーヒーを入れて隣で微笑んでてほしい人"ランキング1位おめでとうございます!」
「な、なにそれ」
初耳だった。やめて、顔から火が出そう。
「あー、その、マシュはこんな夜中に何してんだ?」
その話題を逸らしたくて質問を変えた。自分もだろ、という点は目をつぶって欲しい。
「目が覚めてしまって、何か温かいものでも飲もうかと」
マシュは少し苦笑いで答えた。偶然にも俺と同じ理由だ。
「じゃあ、一緒にいいかな。俺もそうなんだ」
そう言うと、マシュは少し驚いた顔をした後、またすぐに笑顔を見せた。
「はい、もちろん。"一緒にお茶したい"ランキング上位の名字さんとご一緒できるなんて光栄です」
「だから!それなんなの!」
「"頬っぺたを突っついて困らせたい"ランキングでも1位でした」
「いいから!もういいから!」
なんとなく2人でコーヒーを片手に歩いて、月が1番大きく見える場所の廊下で立ち止まった。煌々と差し込む月明かりは、暗闇に目が慣れると意外と眩しい。
「あの、どうして目が覚めてしまったのか、聞いてもいいでしょうか」
マシュがやけに神妙に聞いてくるので笑ってしまった。
「大した理由じゃないよ。ただ怖い夢を見ただけ」
よくある事だろ、と言えば、マシュは目を見開いた。そして下を向いて黙ってしまった。
何か変なことを言っただろうかと不安になっていると、マシュが顔を上げた。
「どんな夢か、お伺いしてもいいでしょうか」
うーん、と首を捻る。やっぱり夢だから、見てすぐは鮮明に覚えてるけど、こう誰かと話しているといつの間にか薄れてきてしまう。なんとか覚えている部分を掻い摘んでみる。
「なんか、とにかく暗い宇宙みたいな所で、ひたすら何かを追いかける夢だったかな。よくあるだろ、掴みたいものがあるのに夢だと絶対何かが邪魔して掴み取れないんだ。最後には足を滑らせて、凄い深い海の中に沈んでってさ…」
だんだんと思い出してきて、嫌な気分がせり上がってくる。溜息をついた俺に、マシュが慌てて声をかけた。
「すみません、思い出させてしまって、」
「いいよ、誰かに言うと、本当にただの夢だったんだなって思えて、スッキリしたからさ」
そう言うと、マシュはまた考え込むように下を向いた。俺は今度は俺が聞いてもいいのだろうかと悩んでいると、マシュの方から口を開いてくれた。
「私も、怖い夢を見るんです」
「うん」
「何度も何度も、同じ夢で」
「その度私は、同じ事を言うんです」
「正しいと信じて」
「でも、起きるといつも震えています。そのまま、眠れない時もあります」
「私は……」
そこまで言って、俯いてしまった。自分より頭一つは小さい少女が、肩を震わせていた。
はっとしてマシュが顔を上げた。
「すみません、その、…自分でも、どう言ったらいいか分からず…すみません…」
何度も謝るマシュに、なんとかして安心してもらいたい。それが気休めでも、たった今この時だけでも、辛そうにマグカップを握りしめる手を緩めてあげたかった。
「…ね、せっかく夜中に起きたんだから、なんか悪いことしようぜ」
「えっ?」
マシュが困惑して顔を上げた。いいからいいからと手を引いて廊下を歩く。後ろでしどろもどろな声が聞こえるけど、ちょっと強引に連れていくことにした。
目的地に到着したので手を離した。マシュの方を見ると、暗くてよく分からないがまだ困惑しているようで、顔に手を当てて「あ、あのあのあのあの!」と慌てていた。しー、と人差し指を口に手を当ててサインすると、「は、はいぃ…」と言って大人しくなった。
確かこの辺にあったはずだ。医療用冷蔵庫をガサガサ漁っていると、マシュが小声で話しかけてきた。
「あ、あの、そこはドクターの冷蔵庫では…」
「?そうだけど」
あ、あったあった。目当てのものを2個取り出して上着のポケットにつっこみ、行こ、と声をかけて診察室を出た。戸惑いつつもマシュが後についてきてくれる。
「はい、一緒に食べよ」
「…プリン、ですか?」
廊下に戻って、マシュにプリンとプラスチックのスプーンを渡した。俺はもうさっそく蓋をめくって1口食べる。美味い。さすがドクターロマニ秘蔵のプリン。
「い、いいのでしょうか…」
「ドクター、独り占めしようとして誰にも言わずに何個も食べてるからいーの」
パクパク口に運びながらそう言うと、マシュが笑った。
「それはいけませんね。では、いただきますっ」
パク、と1口食べると、ぱぁっと顔を明るくして「ほぁあ」と頬を緩めた。
「お、おいしいです!カスタードプリンですね、とろとろしてます…」
「うんうん、こんな美味しいものを独り占めしてるとかダメだよな」
「ええ、犯罪です!もぐ、しかしどこで手に入れたのでしょうか…もぐ…先輩にも、差し上げたいです、もぐ」
すごい勢いで食べてる。その顔に、さっきの辛そうな表情は見られなかった。
「じゃ、明日ドクターに聞こうか。夜中に起きちゃって、暗いから厨房のと間違えて食べちゃいましたって言って」
「無理があるのでは…いえ、そうですね、そうしましょう!必ず聞き出して、先輩にも食べて頂きたいです!」
ニコッと笑ったマシュに、そうだなと言って月を見上げた。
今日は綺麗な満月だ。
「ダウィンチちゃん、本当にやるのそれ…ドン引きされるでしょ…」
「だぁーいじょうぶだって!君は天才の言うことが信じられないって言うのかい?」
「いやそれは…そうだけどさ…」
「ほらほら、ロマンのやつ不貞腐れてるぜ?早く行ってやれって」
「マシュの方がよくないか?」
「いーから!君だからいいんだよ、ほら!」
「うー…」
「あー、ドクター」
「…………」
「ごめんって、プリン食べちゃって…」
「…………」
「うぅ…」
「…………」
「…ロマニ、」
「…………」
「…ごめん」
「……、……」
ダメだ、これは本格的にダウィンチちゃんの言う通りにするべき?いやでも、男にされたってさぁ…。
「あー、えっと」
「……………」
仕方がない、こうも無視を決め込まれては、打つ手がないし、ダウィンチちゃんの言うことだから何かあると信じて、俺は両手をドクターの肩に置いた。
「ロ、ロマニ」
ドクターの肩がピクリと動いたけど、やっぱり無視。うぐ、やるのか、やってしまうか。なんか無視されすぎて腹立ってきたし。
「ごめんね?」
そう言って、ダウィンチちゃんに言われたとおり、頬に触れるだけのキスをした。もうどうにでもなれ。ドクターもいつまで拗ねてるんだって感じだし。
「ひぁ、へ、わ、!?、??☆☆#@&*??」
宇宙語出てますよ。ガバッとやっとこっちを見たドクターは茹でダコみたいな顔だった。
「な、な、にしてるの名前く、」
「あははははは、ロマン、君顔!ひーっ!!!」
突然ダウィンチちゃんの笑い声が聞こえた。振り返ると、ドアに寄りかかってお腹を抑え爆笑していた。
「〜〜〜ッ!!!!レオナルドォ〜〜〜!!!」
「なんだよ!感謝しろよな!天才の采配に!」
そのまま2人は追いかけっこで消えてしまった。部屋にはぽつんと残された俺一人。
…………うん、帰ろ。