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「あ、この間運搬されてた人」
深夜に廊下で吹雪を眺めていたら、藤丸くんに声をかけられた。ぼんやり眺めていたぶ厚いガラスの向こう側は墨を塗りたくったように真っ黒だったので、実はさっきから近づいて来ているシルエットには気づいていたのだが、まさかそれがこのカルデアという空間における最重要人物だったとは思いもしなかった。
「名字とも言います」
「名字さん、こんばんは」
こんばんは、と何ともないように返した。こんな時間なのに、藤丸くんはいつもの見慣れた制服のままだ。挨拶をしたら通り過ぎて行くだろうと思っていたのだが、彼も俺の隣で、一緒にぶ厚い窓ガラスの暗がりを見つめはじめた。
「あー、寝ないの?」
動揺を悟られないように、軽い感じで聞いてみた。が、どうにもぎこちなくなってしまった。だが藤丸くんは気にしていない様子で、「はい」とだけ答えた。
「寝れない?」
人のことを言えたもんではないが、棚に上げて聞いてみた。というか何も聞かないと何も言ってくれなさそうで気まずいので言ってしまった。いつもモニターで見る顔ではあるが、なんというかプチ芸能人みたいな感じなのだ。なんだプチ芸能人て。
藤丸くんはこちらに顔を向け、少し間を置いて口を開いた。
「昼に、ネロ様のコンサートを聴いてからの記憶がなくて。さっき医務室で目がさめたんですけど、そのせいで、寝れなくて」
「へ、へー…」
なんとなく察した。そっか…と遠い目をして窓の外に視線を戻す。黒と、ほんの少しの白しか見えない。さっきから眺めていた俺が言えることではないけど、眺めていてどうということもない景色だ。
「外なんか見ても別に面白いもんもないだろ」
またしても自分のことは棚に上げた発言だ。藤丸くんは「ははっ」と少年らしいあどけない声で笑った。
「名字さんがじっと見てたから、何かあるのかと思いました」
そう言われてしまえば仕方なかった。なんせ俺はこの"別に面白いもんもない"ものを、小一時間は眺めていたのだ。特に理由はなかったのだが、水族館のクラゲコーナーを無心で眺める時のような、あの謎の放心状態だった。
「なんか分かるかも。俺もクラゲ眺めるの好きです。心の中が空っぽになっていいですよね」
「あ、分かる…」
藤丸くんの喋り方は人を安心させる。素朴というか、ありのままというか。というよりも、このカルデアという機関において、彼のような人間は本来いるべきではない、のだろう。
緊張していた体が少しずつ緩み始めた。藤丸くんの落ち着いた声が、人気のない夜の廊下に響く。「深海コーナーも好きです。ダイオウグソクムシとか」と話している彼の方を向いてみたら、どうやらこっちを見て話していたらしい。バッチリ目が合った。
勝手に藤丸くんも窓の方を見ていると思っていたので驚いて固まってしまった。藤丸くんもいきなり自分の方を向いてきた俺に驚いたようで、大きい浅瀬色の瞳をぱちくりさせていた。大変可愛らしい反応なのだが、気まずい。正直あまり話したことの無い人間との会話は苦手だ。
「名字さんて美人ですよね」
突拍子もなく口説かれた。思わず「は、」と声が漏れて顔を背ける。
「運搬されてきた時は、顔色も悪くてビックリしましたけど。よく見たら、凄い綺麗な人だなーって思いました」
「あ、そう…」
なんというか、藤丸くんの喋り方だろうか。本心から言ってるんだろうなというのが分かるので、普通に照れてしまう。顔が熱を持ちはじめてきて最悪だ。彼よりも歳が上なのだから、飄々とした態度で躱したいのはやまやまだが、先程も言ったように俺は人見知りなのだ。同僚の時のようには言葉を返せなかった。
「夜中にナンパしてないで早く寝ろよ」
「名字さんは?」
「寝るよ」
今がチャンスと背を向けて歩いた。なんか普通に照れてしまってホントに恥ずかしい。藤丸くんもてきとうに言っただけだろうに、こんな照れられても困るだろう。「じゃ、」とだけ言って歩き出すと、背後から「おやすみなさい。いつも、ありがとうございます」と、先程よりもか細い声が聞こえた。思わず足を止めて振り返ると、月明かりに照らされ、どこか不安な表情の、ただの10代の少年がいた。
俺は「こちらこそ、おやすみ」と答えて、逃げるように部屋に向かう。彼がどんな気持ちでカルデアのスタッフである俺に話しかけようとしたのかを、俺はこの日1日考えていた。