羊がいる。
ぽつんと人気のない廊下のど真ん中、その羊はじっとこちらを凝視してきていた。
いや、凝視してきているっていうのは俺の主観であって、その羊はどこからどう見ても肌触りが良さそうなふかふかのぬいぐるみなわけだけど、どうにも捨てられた仔犬のように庇護欲をそそるつぶらな瞳で俺を見ているような気がしてならなかった。
ぬいぐるみの正面に立ち、しゃがみこんで目線を合わせたらなんだか尚更こちらに向かって「抱っこしてください」という感じの熱を込められてる気がしてしまい、うずうずと腕が勝手にぬいぐるみに向かって伸びていってしまう。誰もいないし!誰も見てないし!成人男性がふわもこの羊のぬいぐるみに手を伸ばして抱き抱えようとしてるとこなんて誰も見てないし!
手に触れると、掌が上質なウールの手触りに包まれた。すごい、これは、すごい。
思わずそのままキュッと腕で抱きしめてしまうほどだった。そして広がるふわふわともこもこの暖かさ。極上の肌触り。これが、本当のウール100パーセント…。
「って、ぬいぐるみだから違うか…」
「それ、ぬいぐるみじゃないよ」
「え」
誰もいないと思っていた廊下に、いつの間にかもう1人増えていたらしい。そしてとても恥ずかしいところを見られてしまった。咄嗟に抱きしめていたぬいぐるみを引き離して首を横に振る。
「ちがっ…!お、俺はただモコモコの誘惑に負けて…!」
「分かったよ、そんな茹でタコのように真っ赤にならなくても。誰にも言わないさ」
「う、あ、…キャ、キャプテン…」
俺の痴態を諭すようにそう言い、ちょっと笑いながら肩を叩いてきたのはキャプテン・ネモだった。が、手元の羊のぬいぐるみを見るなり、何故だか目線が険しくなる。この可愛らしいもこもこ羊に、何をそんな睨みつけるところがあるのだろうか…。
「………ふぅん、本当に今はぬいぐるみだ。持ち主から離れるとそうなるのか」
「?、どういうこと…?」
「別に。それ、捨てた方がいいよ」
「え、可愛いのに…」
こんなに可愛くてふわふわなのに。そう言うとキャプテンは「ふ」となおもぬいぐるみを睨みながら腕を組んで鼻で笑った。
「へぇ、そういうの好きなんだ。いいんじゃない、似合うよ」
「え゛、ちがっ!そうじゃなくて!世間一般的に可愛いと思うから!」
「あ〜!最後のいっこ!!アポロンさまみつけたぁ〜〜!」
なんとか弁明しようと慌てふためいていると、バタバタと騒がしくこちらに駆けつけてくる足音が聞こえてきた。その時、腕の中のぬいぐるみがピクリと動いてモゾモゾと動いたような気がしたが気の所為だろう。ぬいぐるみだし。
「あ、お、おい!お前!アポロンさま泥棒だな!いくらアポロンさまがふかふかだからってダメなんだぞ!返せー!」
「え、あ、ごめん?」
どうやらぬいぐるみは彼女のだったらしい。ぬいぐるみに負けないぐらいふわふわした髪の毛を揺らしながら、俺の腕の中のぬいぐるみを引っ張ってる。が、何故だかぬいぐるみは離れない。俺は手を離しているのに。
「あれ、ごめん。毛とか絡まったかな」
「えぇ!?あ、アポロンさま!もういい加減にしてください!そういうの怒られますよ!おーこーらーれーまーすーよー!」
ぬいぐるみのおなかをがっしり掴んで女の子が懸命に引き剥がそうと踏ん張っているが、毛が絡まったとかではなく、羊の前足がどういう原理かまるで生きてるように俺の服を掴んで離さない。
「ナンパ禁止ー!」
なんだそりゃ。どんどん伸びていく服の袖を唖然と眺めていたら、キャプテンがゆっくり近づいてきて、俺らの間で立ち止まった。そして手刀を構える。
「しつこい!」
「あだっ!!」
気の所為だろうな、今羊のぬいぐるみから声が聞こえた気がしたんだけど。気の所為だろうな。羊はメェーって鳴くし。気の所為だろうな。
「うにゃーー!!」
キャプテンの手刀によって、俺とぬいぐるみの不思議な接点は切り離された。そしてそれを一緒懸命ひっぱっていた女の子が反動で見事にすっ転んでしまった。よかった下に履いてた。
「うー………」
「ごめん、大丈夫?」
多分後頭部をぶつけてしまったかもしれないので駆け寄って顔を覗き込む。よく見たら彼女の頭には、羊のぬいぐるみが下敷きになっていた。どうやらぬいぐるみのおかげで頭は無事らしい。
「起きられる?」
「あ、ありがとう、ございます…」
転んだところを見られたのが恥ずかしかったのか、顔を赤らめながら少女は俺の手を取って起き上がった。慌てて地面に倒れているぬいぐるみを意外と雑に鷲掴みにすると、改めて俺に向き直りキッ!と睨みつけてくる。
「じゃなくて!お前!アポロンさま泥棒!」
「え、あ、はい?」
もうすっかり泥棒認定されてしまったらしい。あながち間違いでもないかもしれないので、いや勝手に盗ろうとは思ってなかったけど!なんにも言い返せない。
「なんかいっぱいあるからってアポロンさま盗ったらダメだぞ!」
「えーと、うん、ごめん。手触り良さそうで…触ってみたくなっちゃったんだ」
「うんうん、アポロンさまはふかふかだし、そう思っちゃうのは仕方がないですね」
なんだか嬉しそうに頷きながらぬいぐるみを抱きしめている。さっきからやたらとぬいぐるみから視線を感じるんだが、なんなんだろうか。ちょっとだけ怖くなってきた。
「あなた、泥棒だけど見る目がありますね。しょうがないのでたまには触らせてあげます、たまーにですからね、たまーに!」
「ありがとう…?」
途端ににこにこと機嫌が良くなった少女と、頷いているようにも見える羊のぬいぐるみ。疲れてるのかな。目をこすっていると、「それでは!」と少女は踵を返しパタパタと廊下を走って行ってしまった。
「よくわかんないけどかわいい女の子だったな」
「彼、男の子だよ」
「え」
え。え?驚いてキャプテンの方を見ると、やれやれといったように肩を竦めている。そうか、そうなのか…。
「そっか………」
「………あのさ、念の為聞くけど、僕のこと女の子だと思ってないよね?」
「………………………………え?」
え?嘘、え?
キャプテンの方を見たまま固まっている俺に対して、ますます呆れたようにため息をつかれてしまった。
恐るべし、英霊召喚。アストルフォだけじゃなかったなんて………。