鱗粉がとれない。どれだけ擦っても擦っても、肌にこびり付いた鱗粉がとれない。伸ばした皮膚はただ赤く、爪をたてても、皮膚を噛みちぎろうとも、ただその赤い肉にこびり付いた鱗粉がとれない。
俺は、腹はたってはいなかった。苛ついてもいない。ただ、なんでこの鱗粉がとれないんだろう、と不思議で仕方なく、ひたすらその行為を繰り返している。爪が、薄い肌色の皮膚を捲ろうとも、歯が、その血肉を抉ろうとも、痛みはなかった。ぼんやりとこれは夢なんだって、不可思議な夢なんだって思っている。
そしてついに、穴があいた。手の甲の中心、赤い血が滴る空洞。俺はなんでこんなことをしていたんだっけ、と思いながら、暗闇が広がる星のない空にその手を翳す。
その穴の奥に、少年がいた。真っ直ぐな目をしていて、素朴なその顔が、困ったように眉を下げる。
何してるんですか、痛いですよね。大丈夫ですか。
なんか、そんなことを言われた。すると不思議なことに、今まで何の痛みもなかった手の穴が熱を帯びはじめる。でもやっぱりこれは夢だし、痛みはなかった。それでも穴は熱い。どんどん熱くなって、まるでそこからマグマが溢れ出てくるみたいに熱い。俺は怖くなって、目から涙を零していた。
そっと、誰かの手が穴を塞いだ。何も無い暗がりを写していた穴は、少年の、立香くんの手の温もりで包まれる。
血が滴った俺たちの手は、真っ赤に染められている。ゆっくり、優しい立香くんの手が、俺の手をあやす様に撫でた。
「ほら、これでもう大丈夫」
俺はお礼を言おうとしたんだ。この心優しい少年に、ありがとうって、目を見て、笑って。
そして顔を上げた時、俺の呼吸は止まっていたと思う。
「ね、大丈夫」
そこに立って笑っていた立香くんの全身が、血まみれだったから。
「は、は、は、はぁっ」
起きた。起きられた。現実か?ここは夢から醒めた夢ではないだろうな?手の甲を確認すると、ちゃんと穴なんてなくて、寝室の壁が抜けて見えたりなんかしなかった。よかった。
冷や汗がすごい。シーツは跡が付くほど濡れているし、額から雫が顎をつたっている。穴のあいていない手の甲で拭って、シーツに蹲るように自身を抱きしめた。
焼きついて離れないのは、血まみれの少年。こちらを大丈夫かと気遣いながら、その本人が、誰よりも痛々しかった。
「……」
震える手足を無理にベッドから引き離すと、よろめいて前のめりに膝をついて転んだ。それでも両手は地面に手をついていて、あぁ、身を守るって自然に出来るんだな、とぼんやりと考える。痛みはだんだん熱になって、夢の中の不安感を引き起こした。重たいけど、ちゃんと動く体を引きずって部屋を出る。体は鉛みたいで、自分がなにか黒い泥の塊になったような、這った跡が地面に黒く焦げ付くような気さえした。
部屋の外へ出ると、幾分気分はマシになった。夜を感じさせるため、夜間は廊下の電灯も暗い。窓のない廊下を、足は不自然に軽快に進んだ。俺は何処へ行くんだろうか。
廊下の突き当たり、何も無い壁にもたれ掛かりぼうっと道の先を見つめる。記憶の中、何となく足を運んだのは、いつかのカルデアでは大きな窓のあった月明かりの廊下だ。このカルデアベースではなんて事の無い壁が広がるばかりのそこに、ただ何も無いそこに辿り着いてしまった。
どれくらいだろう。10分、20分、もしくはほんの1分かもしれないけど、暗闇を見つめていると、人影が奥の方で揺らめいたのが見えた。誰かがこっちへ近づいて来ている。その人影の姿が薄暗い廊下の僅かな光に照らされた時、俺は思わず体を強ばらせた。
「名前さん、こんばんは」
「…こんばんは、立香くん」
現れたのは、血で赤く染った立香くん…ではなく、黒い礼装に身を包んだ、なんてことの無い、1人の普通の少年だった。まだ着替えてもいない、これから寝るのだろうか。
「これから寝るの?」
「はい」
俺の勝手な悪夢で動揺した心を見透かされないように、できるだけ普通に声をかけた。立香くんは気にしていないようで、俺の隣までやって来て、ふぅ、と息を吐き同じように壁にもたれ掛かりこちらを見て笑う。
「名前さんは、寝られないんですか?」
「……うん」
そっか、と短く返事をして、俺から視線を外し隣で俺と同じように壁にもたれて佇む姿は普段となんら変わりもなく、俺が見た夢はただの偶発的な悪夢だったのだと、彼の横顔を見て安堵した。
「窓もないし、つまんないだろ」
そういうと、立香くんはゆっくりこっちを振り返った。
「名前さんがじっと見てたから、何かあるのかと思いました」
なんだか、ひどく懐かしいやり取りな気がした。それなのにどこか空虚で、胸が穏やかにならない。
「ああ、うん、いや、何も無いんだ。ただ、なんか、悪い夢をみて、部屋に居たくなくなったんだ」
「なら、俺の部屋に来ます?」
壁に背を預けたまま、立香くんは首だけを捻り俺を見ている。背が少し伸びたか、目線が同じか、少し高い気がする。
「い、いや、悪いし」
「いいですよ、別に。ベッドの下に清姫が居るかもしれないし、ベッドの中にゴッホちゃんが居るかもしれないし、天井にリンボがいたりしますけど」
「いい!いい!」
「冗談ですよ、今日は居ないと思います。いても、名前さんが居るからって、お願いしますから」
ね、と言って、立香くんは俺の右手を取って歩き出した。手に触れられた瞬間、ビクリと肩を跳ねさせてしまったのがバレなければいい。触れている人肌の温かさが、何故か今は安心材料にはなり得なかった。
「立香くん、」
呼びかけると、彼はピタリと足を止めた。俺の方を振り返って、目を合わせる。
「大丈夫ですよ、名前さん。きっとよく眠れますから」
再び俺の手を引いて歩き出したその背中には、何も答えることが出来なかった。
彼の手は少し、いつもより、冷たかった。