10

 昼下がりのユニオン本部にしては、今日はやけに静かだ。レイヴンはずぶ濡れになって駆け込んできた天を射る矢のギルド員たちを尻目に、無遠慮に欠伸をひとつした。外から流れ込むひやっとした冷気が、炎で暖まった室内へ一気に流れ込んできて眠気をさまそうとする。
 声をかけられた気がして振り返ると、脇の側近たちの私室に通じる扉から出てきた見知った男が自分に向かって片手を上げた。

「よお、レイヴン。しばらく見ないと思っていたとこだ。いつ帰ってきたんだ?」

 書き付けの束を抱えた男はレイヴンを見下ろすと気安げに話す。年若ながらも屈強な身体をもち革の鎧を纏う男は、ドンの側近の一人だった。強面で近寄りがたい雰囲気こそあるがその中身は年相応で、彼とは顔を合わせれば話をする程度の関係性である。

「昨日の午後よ。ひっどい悪路で、上から下までびっしゃびしゃのぐっしょぐしょ。泥まみれになるわ服は洗ったって乾かねえわで、おかげでパンツ一丁のまま一晩すごす羽目になっちまった」

 この悪天候のなかでの旅路がいかに大変だったかを大袈裟に語ると、傷のある重たげな頬の片側だけをひくひくとつり上げながら男は面白おかしそうに笑った。

「ははは! そりゃあ災難だったな!」

 すると、彼は眉を上げ意地悪げににやりとした。

「けど、そのくらいで済んであんた運がよかったぜ」
「どういうこと?」
「今日ここに来る予定だったギルドの連中、この嵐で船が出せないとかで港で立ち往生だそうだ。この様子じゃ着くのは明日になるか、明後日になるか」

 レイヴンは片眉を上げると驚いて見せた。

「あらま。たしかに、それなら俺様は運が良かったってことになるかね」
「だろう? 今日はずいぶん人が少ないだろ。詰まってた予定が全部明日以降になるってんで、みんな暇してんのさ」
「なるほどどうりで」

 レイヴンは周囲を見回しながら、得心がいったように頷いた。
 ドンの私室に続くこの広い正面玄関は有事の際に人を押し込んでも余裕があるだろうというほどに大きく、いつもならばドンを訪ねる人間で溢れているが今はがらんとしている。
 四六時中感じているようなざわめきはなく、力の象徴のように置かれた炉のパチパチという火種のはじける音が寂しげに響いていた。窓が多いわけでもないのに今日はその音色に雨の叩きつける飛沫音がうっすらと混じっている。
 男の話を聞くに、嵐の予感にさっさとトリム港行きの定期船に滑り込んだ自分の判断はどうやら間違っていなかったらしい。彼は心の中でほっと息を吐いた。

「……で、だ。そんな悪運の強いあんたに頼みたいことがあるんだが、ひとつ聞いちゃくれねぇか」

 レイヴンがどこか締まりのない声に振り返ると、男が言いにくそうに視線をそらしていた。

「なによ。藪から棒に」
「その、ドンにこの書き付けを渡してきてくれないか」
「は? なに、そのくらいおまえさん一人で行きゃあいいでしょ」
「いや、今はちょっとな……」

 ドンの私室に続く扉をちらりと窺うように見やって男が渋い顔をしている。レイヴンは眉を寄せどういうことかと続きを促した。男は隠す気はなかったのか、肩を落とすとあっさりと口を割った。

「それがなぁ……少し前にドンの部屋が騒がしくって見てたらよ、ハリーがドンに啖呵切って勢いよく外に出ていっちまったんだよ。この嵐のなかだぞ? そりゃあよっぽどなんかあったって思うだろ。——それに、ドンがもしぶちぎれてたらと思うと、俺おっかなくて一人じゃ行けなくてよ……」
「はあ。俺様を体よく使おうってわけ?」
「頼むよレイヴン! どうせまだ遠出の報告にも行ってねえんだろう? ひとつもふたつも変わんねえよな?」

 ガタイの良さに見合わず男はどうやら気が小さいらしい。情けのない話だ。レイヴンは大袈裟にため息を吐いた。
 たしかにあのドンという老人は怒らせると怖い。彼の命を狙うネズミはたとえ巨漢であろうとも自分の手で文字通り捻り潰してしまうし、普段から言動に荒々しさがあり「猛々しい」を絵に描いたような男だ。
 虫の居所の悪いドンの前で余計な口を叩くとどうなるかをレイヴンは身をもってよく知っている。だからそんな話を聞いてしまえばわざわざ顔を出すという選択肢はなかった。

「やめだやめ。じいさんのことだ、他人に頼らねえでてめぇで持ってきやがれって後から怒鳴られるのが関の山よ。急ぎの用ならともかく——」

 小言のひとつでも言いかけたレイヴンに男が縋るような目を向けた。

「い、急ぎだからどうにもならねえんだよ! 今持っていかなかったらあとでもっと叱られちまう! た、頼む。ちゃちゃっと置いてきてくれるだけでいいから!」

 男は目を潤ませ半泣きといった具合で積まれた書き付けの山をレイヴンにぐいぐいと押しつけてくる。だがレイヴンとて気の毒にこそ思うが手伝ってやろうと思えるほどお人よしではない。好き好んで泣き顔を見たいと思うのは男よりもむしろ女の——。そこでなにかに気がつくと、レイヴンはそらしていた目を大きく動かしてドンの私室に続く扉を目に入れ、それから男にから返事をした。

「自分で行ったら? 俺の話なんかべつに明日でもいいし」
「飯も奢る」
「んー」
「酒も上等なのを用意する!」
「それだけじゃあな」
「じゃ、じゃあわかった! 綺麗なねぇちゃんを紹介するってのはどうだ!? はとこのダチがそりゃあ別嬪でよ、一杯くらいなら付き合ってくれるかもしれねえ!」

 ややあって、彼は男のほうを見た。

「……ほほう?」

 ——そのとき、レイヴンの覇気のない碧い目が鋭く光ったように男には見えた。



 レイヴンは大きな扉を前にして積まれた紙の山を見下ろした。

『このレイヴン様が一肌脱いでやろうじゃあないの!』

 普段から軽薄な女好きを演じている男にとって、魅惑的な条件に目が眩んだように見せること自体、それほど難しいことではない——そこにどれほどの本音が含まれているかはさておくとして——。もちろん面倒ごとはごめんだが、気が変わったのだ。向こうが体よく使おうというのだから、こちらも体よく使ったって罰は当たらないはず。彼は伸びかけた人中を引き締めると、渇いた唇を舐めた。

(さて、どうしたもんかね)

 彼らは知る由もない。自分にドンを訪ねる真っ当な理由がないことを。
 レイヴンが十日ほどこのダングレストから姿を消していたのは、なにもドンに何かを言いつけられたからというわけではない。
 ——主人に呼び出されたのだ。先の暗号を交えた報告書が帝都に届くと、〈鷲〉は彼が思っていた以上に興味を示し委細説明を求めてきた。魔物の様子、女の状態、果てはその日の天候まで思い出せるかぎりを口にした頃、その様子を黙って聞いていた男は一言「よく見ておけ」とだけ彼に告げた。
 そうして、そのほかにいくつかの細々とした任を受けると、彼は多くを考える前に雲行きの怪しい帝都を急いで出立し、トリム行きの定期便に飛び乗った。荒れた海を渡り、やっとのことでダングレストに辿り着くと早々に借宿に帰る。雨よけを着ていたとはいえ衣服は上から下まですっかり泥まみれになっていた。
 間抜けな格好で毛布に包まり冷え込む一夜を明かしながら、彼はこれからの算段を建てることにした。するとはたと気がついた。——自分が女の行方を何も知らないことに。

『そういえばあの子、どうなったか知ってる?』

 肩の荷を下ろしレイヴンに感謝を告げながら扉の向こうに消えていこうとした男の背に尋ねると、男はきょとんとして首を横に振った。その答えにレイヴンが肩を落とすことはなかった。朝からさりげなく聞きまわってみたものの、誰も女のその後について知る者はいなかったからだ。
 しかし、一部の人間しか知らないこととはいえ噂ひとつないものだろうか。
 ——そこに作為的なものを感じずにはいられない。彼は重苦しく閉めきられた扉を見上げた。
 生乾きの菫色の羽織はわずかに重い。書き付けを抱え直すと、彼はおそるおそる扉の取っ手を掴んで押し開き、隙間から顔を出して中を覗き込んだ。悪事を働こうとしているわけでもないのにぴんと糸を張ったような緊張が走る。きょろきょろと他に誰もいないことを確認すると、そろりと身を滑り込ませた。
 そして無意識のうちに、なにかが「飛んできても」いいようにつま先に重きをおいて歩こうとする習慣めいた動きをしていたことに気づくと、彼はくくった髪の根元をがりがりと掻いて踵をべたりと地面に着けた。身体から力を抜き、頭を重力に従わせて鎌首をもたげる。

 ——そうだ、これでいい。

 レイヴンが自身の存在を主張するようにえへんと咳ばらいをすると、常人には大きすぎる椅子の上で相変わらず窮屈そうにしている老人がふっと顔を上げた。

「なんだ? おめえいつの間に帰ったんだ」
「昨日だけど」
「ご苦労なこって」

 はっと笑いとばした老人の言外に言わんとすることを察したが、今は無視することにする。それよりも——。レイヴンは老人の様子を訝しみ首を傾げた。

「孫と喧嘩したんじゃなかったのかい」
「ああ? ああ、まあな」
「みんなびびってたわよ。おっかねぇから近づきたくねえって」
「はっ。言ってろ」

 ——冗談じゃあない。上機嫌に鼻歌でも歌いだしそうなドンに、小さく鼻を鳴らすとレイヴンは抱えていた書き付けを手渡した。綴り紐でくくられた紙束をめくりながら老人が目を通している隙に、彼は横目で老人の様子を窺い見る。

「なんで喧嘩なんてしたの」

 呆れたような声色で問うと一瞥もくれないでドンは答えた。

「森にいたあの娘っこ、覚えてるか? おめえも一緒にいたろう」

 レイヴンはどきりとした。このひと月ほど老人の口から女について聞いたことはない。——もっとも、レイヴンが興味もなく話にもしなかったせいもあっただろうが。——彼は平静を装ったまま、ひとまずはそ知らぬふりをした。

「ああ。そういえば、そんな子いたわね」
「それをな、面倒みてえんだと」
「誰が?」
「今の話で他に誰がいるってんだ」
「ハリーが?」
「ああ。どうやら目の前で死にかけてたのがよほど堪えたらしい。殊勝に通いつめてるみてえだ」

 老人は苦笑を交えながらレイヴンに語った。
 彼は女をはじめに見つけたのが、あの少年であったことを思い出していた。まさかそんなところから女の話が出てくるとは。必死に手当てをしようとする少年の様子はまだ記憶の浅いところにあったが、とはいえ見ず知らずの女のもとへ足しげく通う様はあまり想像ができなかった。

「おおかた責任を感じてやがるんだろう。あの性格だからな。俺が放っておけって言ったら、珍しく歯向かってきやがった。動物じゃねえんだって言ったんだ。てめぇのこともまだろくにできねえくせに生意気なこと言うんじゃねえってな。だが、頑として折れねえから、頭きて俺もやってみろっつったんだ。痛い目みても知らねえぞって言ったら、啖呵切って出ていきやがった」

 酒も口にしていないのにその口調は流れるように饒舌だ。

「まったく、生意気な口をききやがって」

 威勢良い言葉とは裏腹に、老人の肩は平らかで目元が優しげに細められている。
 その表情は、孫の成長を喜ぶ祖父の顔以外になかった。レイヴンはむずがゆい心地になり、たまらず耳の裏をぼりぼりと掻いた。

「じいさん、あんた締まりのない顔してる自覚ある?」
「うるせえ」

 照れくさいのか、ドンは片目をすがめるとレイヴンを見やった。

「それで? ひとの仕事を引き受けてくるほど、おめえはお人よしじゃねえだろう。なんの用だ」
「なによ。せっかく暇そうなじいさんの話し相手になりにきたっていうのに」
「暇してんのはてめぇのほうだろうが」

 まあね、とレイヴンはへらりと笑った。一人きりのドンに話を聞ける絶好の機会となれば逃す理由はない。それが老人の機嫌がいいとあればなおのことだ。彼は考えた。レイヴンは視線を一巡りさせると、いかにも軽薄に、あくまでも一人の女好きとしての振舞いを見せることにする。

「それにしてもあの子、ちゃんと生きてたみたいでちょっと安心したわ」
「娘っこか?」
「そ。結構な別嬪さんだったでしょ? もっと言うと俺様にも紹介してくれな——」
「ああ?」

 ぎらりとばかなことを言うなという目を向けられ、レイヴンはひらりと身を躱すように老人の視線を受け流した。

「冗談でしょ。でも、あんな麗しいお嬢さんが森深くでぶっ倒れてたらほかに噂のひとつも聞きそうなもんだがねえ。怪我だってしてたのにその後どうなったのかを誰も知りやしねえのよ」
「回りくどいな。なにが言いてえ」
「じいさん、あんた意図的に情報流さないようにしてたでしょ」

 ドンは否定も肯定もしなかった。

「……出所が普通じゃねえだろう。妙な噂がたっても仕方ねえからな」

 レイヴンは薄い唇をやっぱり、と声を乗せずに動かした。
 だが、ドンの言い分はわからなくもなかった。忽然と現れたのが森の中、それも魔物騒動の直後という奇怪さはもし漏れ伝わればどうなるかは想像に難くない。彼が女を不気味だと感じたように、住民たちが女を忌避して混乱を招く事態はできれば避けたいと思うはずだ。それともこの街の人間であれば、彼女のそんな境遇も得体の知れなさもそのおおらかな気風で笑い飛ばしてしまうだろうか。レイヴンはそれも否定できないと思った。
 老人はなおも書き付けに目を通している。レイヴンは今なら聞けるかもしれない、と一歩踏み込むことにした。

「いったいなんなんだろうね。あの子。じいさんは知ってる?」
「……はっ。ずいぶんと気にするじゃねえか。——なんだ。向こう≠ナ娘っこについて聞いてこいとでも言われたか」

 すると、視線を手元へ落としていた老人が、得心を得たようにうっすらと笑みさえ浮かべながらこちらを見た。ドンのその鋭い眼光にわずかに瞳孔が開く。彼はせり上がってきた熱い息をごくりと飲み込むと肩の力をゆるりと抜いて頬を緩めて見せた。

「まさか。ただの興味本位にきまってるでしょ。だってじいさん、あのとき何か訳知り顔してたじゃないの。気にするなってほうが無理よ」

 ドンはじっと、弁明するレイヴンの碧い目を見ていたが、すぐに興味を失ったように鼻で笑いとばした。

「見られてちゃ仕方ねえな。たいしたことじゃねえよ。ちょいと昔のことを思い出してただけだ」
「昔のこと?」

 ドンは手にしていた紙束の山を膝の上に投げ、懐かしむように宙に目を放った。ドンの武勇伝はさまざまなところから伝え聞くが、老人本人の口からは昔話の類をほとんど聞いたことがない。レイヴンは訝しげに眉を寄せて傾聴の姿勢を見せた。

「レイヴン。おめえは幽霊ってやつを信じるか?」

 ドンは問うた。喉をやわらかく震わせ、まるで少年の枕元で語りかけるような穏やかさで。

「は……?」

 レイヴンは突拍子もないその問いに当惑し、目をわずかに見開く。
 ——ゆうれい。幽霊。
 その言葉をよく咀嚼する。すると急に、壁の向こうのくぐもった雨音が耳の奥を撫ぜていった。彼の目は神経症的な視線の揺れを見せると、ややあって一点に納まろうとする。
 そんなものがもしいるならば、すでに誰かが化けて出てきてもおかしくないだろうに——浮かんだ言葉はいったい誰のものだったのだろうか。彼ははっとした。

「……さあねえ。これだけ世界が広けりゃあ、一人や二人——」

 レイヴンは「レイヴンとして」返事をすると、「それがどうしたっていうんだい」となんということはないように聞き返した。老人は何を期待していたのか、そんな自分の反応を見て面白くもなさそうな顔をした。

「ふんっ。いやあな、あの森にはその昔〈亡霊〉が出るって噂があったんだよ」

 一拍ほど間をおいて、レイヴンは今度こそため息を吐いた。まともな話を期待するのではなかった。そう考えながら恨めしそうに老人を睨む。

「……ちょっとじいさん。寝物語じゃねえんだからさ」
「信じてねえな?」
「あの子がその〈亡霊〉だっての?」
「さあな。そこまでは言ってねえよ。思い出したってだけだ」

 彼にしては煮え切らない態度のように思った。レイヴンは、いつものように老人におちょくられているのだと考えると鼻を鳴らして腕を組んだ。そして苛立たしげに肘に指先を打ち付けていると、老人が眉を一瞬ひそめようとしたのを目に入れる。

「けどな、おめえも近くで見てたんならわかるだろうが、ありゃあ血だ。それも簡単に塞がるようなもんじゃねえほどのな。だがあれだけ血塗れで倒れてたのに傷跡しかねえってのも妙な話じゃねえか」

(傷跡しかない?)

 彼の指先が止まり、ドンの言葉に吸い寄せられるように無精髭の生える顎に触れる。
 女の身に黒々としたものがべったりと付いていた様子を思い出す。泥と血。それも古いもの。あの血がもしすべて女のものだったとしたら、それこそ致命傷になりかねないほどの大きな傷があるはず。
 しかし、それが蓋を開けてみれば傷跡しかなかったというのはどういうことだろう。彼女の傷を治したほかの人間がいる? あの場にいたのは自分たちと——浮かんだ人物に、彼は眉をひそめた。レイヴンはあの男が仏心で女の傷をどうにかするようには思えなかった。

「たしかにそれは、妙な話だこと」

 老人はレイヴンの返答など耳に入らぬまま難しい顔をして何かを考え込んでしまっている。彼もまた腑に落ちていないのだ。女について詳しく聞いてみたいところだが、一度怪しまれた以上、無理に詮索するのは得策ではないとレイヴンは判断する。
 そして訪れた沈黙のうちにレイヴンは女の顔を思い出そうとした。ドンにはああ言ったが、もし街中で彼女とすれ違ったとしてもわかるかどうかは自信がなかった。土のような色をしたひどい顔色だったことは記憶しているが、実際のところそれ以外はあまりよく覚えていない。顔を拝むどころではなかったからだ。レイヴンが受けた印象の多くは「不気味だ」ということばかりだ。
 ——けれど、もしかするとその双眼を開けば絶世の美女だったかもわからない。
 彼はやっと調子を取り戻すと顎をざらりと撫でた。

「ハリーが入れ込むなんて、相当な美人なのかね。やっぱりちょっとお近づきになってみたいものだわ」
「おめえのそれは医者に診せても不治にちげえねえよ」

 さしものドンも心底呆れた顔を見せる。

「あの娘っこがそんなに気になるなら、てめぇで調べてみたらどうだ? 噂自体ここらの年寄衆ならみーんな知ってるだろうさ。——まあ、調べられるもんならな」

 ドンはにやりと歯を見せてレイヴンに向かって笑った。その顔がまるでやれるもんならやってみろと言わんばかりに挑戦的に見えて、つい腹の奥がわずかにかっと熱くなりかける。
 けれど彼はすぐにそ知らぬ顔をした。用は終わった。彼は踵を返そうと積み上げられた書き付けにふたたびとりかかりはじめた老人へ背を向けた。

 身軽になった腕を放り、肩をひと回ししながら彼はゆったりと大扉の前まで来る。
 すると、ずいぶんと離れているのに老人の唸り声に似た深いため息が聞こえたような気がした。おい、と声をかけられてレイヴンは小さく振り返る。

「今度はなによ」
「こいつをおめえに渡してきたやつは誰だ?」
「ああ?」

 眉間に深い皺。——隠し立てすると後々面倒なことになりそうだ。一瞬のうちに思考は一巡して、彼は自分に半泣きで懇願してきた男の名を挙げた。
 次の瞬間、空気の撓む音が聞こえた。
 なにかが髪の毛を掠って目の前の大扉に叩きつけられた。ひゅっと息を呑む。
 彼がおそるおそる見ると、無残にもひしゃげた紙束がずるりと床に落ちた。それはたしかに自分が老人に渡したもののように見えた。紙とはいえそれなりの厚みがあるものだ。もし咄嗟に頭を横にずらしていなければと思うと彼はぞっとする。
 老人は呆れ顔だが米神にしっかりと青筋を立てている。そこに穏やかさはかけらも見られず、すっかりレイヴンのよく知る元の調子に戻っていた。

「ったく。なんもかんも間違ってやがる。戻るついでにさっさと呼び戻してこい!」

(2023.05.31)
最終加筆修正(2025.05.29)

[♥拍手]

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