11

 重苦しい雲は嵐とともに午後をすぎるとどこかへ行ってしまっていた。レイヴンは階段を一通りのぼりきると小さく伸びをした。
 黒いブーツにこびりついた泥が黄昏色に染まった水たまりの中に溶けてコーヒーにミルクを垂らしたような色合いになる。どうせそのうち洗うのだから、と彼はそのままにした。
 南無三と男を引っ張り出してきてさっさとずらかり、暇な時間を持て余していたレイヴンは、雨も上がった頃合いを見て古くからこの町に住む人間の多い区画——旧市街にやってきていた。

 馴染みの店がこの区画の入り口にあるが、数年をこの街に身を置いているとはいえここまできたことはない。初めて足を踏み入れる場所では少し慎重さが出る。彼は住民たちからよそ者だとは思われぬよう、さりげなく周囲を観察した。
 結界魔導器を囲むように街ができていった名残もあり、古い建物がひしめき合うようにして並んでいること自体、さほど珍しいことではないが、中心部とは異なりなだらかな高台の上にそこはある。
 濡れた石畳に続く細い階段を登っていくと、眼下に見慣れたユニオン本部の巨大な建物が見えた。広場を含む本部前の広く造られた街並みとは少し異なり、あたりの道幅は狭く、畑や比較的小さな店がちらほらとみられる様子は、さながら帝都ザーフィアスにある下町のような雰囲気さえ感じさせる。

 細い路地の中を縫うようにして歩いていると、隅のほうに机と椅子を並べ井戸端会議を繰り広げる老人たちの姿がちらほらとみられた。ときおり口汚くお互いを罵りあっているのがこの街の住人らしい。
 レイヴンは手はじめにこの手近な年寄たちから話を聞くことにした。ギルドに所属していたという老人たちは、その昔は屈強な男たちだったのだろうが今は見る影もない様相だ。枯れ木のような細腕をやんわりと振り上げ武勇伝を語りあう彼らは、突然現れたレイヴンを胡乱な目で見やったが、ドンの名を出すと手の平を返すようにこちらの話を聞いてくれた。さすがの効力に彼は思わず苦笑いを浮かべる。

「ドンのところの若いのだと」
「あ? なんだって?」
「ドンのところの若いのだとよ! 〈ケーブ・モックの亡霊〉の話が聞きたいんだと!」
「うるせえ! そんなにでかい声で言わなくとも聞こえとるわい!」
「うるせえのはおまえだよ! また耳クソでも詰まってんだろう、このクソ爺!」
「あいたっ! 誰がクソ爺だ? てめぇもクソ爺じゃねえか!」

 もたもたと勢いのない攻防戦がはじまり、レイヴンはひくりと頬が引き攣るのを感じた。

「——それで、どんな話が聞きたいって?」
「だからその、〈亡霊〉の話なんだけどさ」

 レイヴンがあらためてその〈ケーブ・モックの亡霊〉の噂について問うと、彼らは懐かしそうに目を細めて、「そういや、そんな話もあったな」と言って口々に噂についてを語ってくれた。
 しかし不思議なことにその内容はさまざまだった。噂の出所が森というところは共通しているが、それがなんなのか皆違うことを話す。首がないとか、血みどろの化け物だとか。

「俺ぁ長い黒髪の女だって聞いたぜ。よつん這いになって襲ってくるんだ。そいつぁな、腕も足もねえんだってよ」
「それってちょっとおかしくない? 腕も足もないならどうやってよつん這いになるのよ?」
「……たしかに。それもそうだな」

 レイヴンの指摘に嬉々として語っていた髭面の老人がすんと真顔になる。彼はくくった蓬髪の根元を掻くと、彼らの気分を害さぬように心のうちで小さくため息を吐いた。昔の話、というだけに噂自体が人々の記憶から風化しつつあるのかもしれない。これは面倒なことになりそうだ。

「誰か見たやつはいないの?」
「ああ? 耳が遠くて聞こえんわい」
「そいつを見たやつはいねえのかって聞いてんの!」
「ああ。そういや誰が最初に見たって言ったっけ?」
「どうだったかな……なにせもう数十年も前の話だからなあ。あ、そうだ。向こうにも何人か俺たちみてえな年寄りが住んでいるから、そっちを当たってみたらどうだ?」

 レイヴンは苔むして雨を吸った湿り気のある階段の上に腰をかけると、大きく息を吐き出した。

(こりゃあじいさんに嵌められたな)

 彼は頭を抱えた。こうなることをあの老人は予想していたに違いない。ドンのにやけ顔が手にとるようにわかる。まったく忌々しい。あちこち飛び回っていたせいか、それとも昨晩ろくに眠れなかったせいか、一度腰を下ろすとまるで尻から根っこが生えだしたかのように今一度腰を上げることは億劫だった。
 それに噂自体があったことは間違いないとしても、〈亡霊〉が果たして本当に存在したのかも怪しいものだ。ただの寝物語の真偽などあきらかにしてどうなるというのか。そんな身も蓋もないことを考えながら、彼はドンの手のひらの上で踊らされただけなのではないか、という疑問に見て見ぬふりをした。
 ——帰るか。黄昏色の空を見上げながら彼は呟いた。西日で照らされ火照った頬にうっすらと浮かんでいた汗が引いた頃、レイヴンはようやく腰を上げた。


 レイヴンが細く続く階段を重い足取りでふらふらと駆け下りていると、妙な視線を感じたような気がして歩を緩めた。同時に、雨どいを伝う雨水の飛沫音とともになにか低い掠れ声のようなものが耳を掠めたような——。

 ふっと見下ろすと、軒先の影になった窓の中から青白い老人の首がぬうっと出てきて、彼はぎょっと目をむいた。
 深く刻み込まれた皺、生気のない顔。しかし窓の内側にどうやら足はある。彼はほっと息を吐いた。少なくとも見てはいけない類のものではないようだ。
 まだ声をかけたことのない一人の老人がこちらを見ていた。顔や身体に傷らしきものは見られず戦士の類だったようには思えなかったが井戸端会議に興じていた老人たちとそう歳も変わらない——もっとも、彼らがいくつか見当もつかないけれど——ように見える。
 跳ねた心音を落ち着けながらレイヴンは気の良さそうな笑みを顔に貼りつけると現れた老人に尋ねた。

「じいさん。ドンの使いでちょっと調べものをしてるんだけど聞いてくれる?」
「飯か?」
「……えーっと。だからドンの使いで——」
「ドン? ドン=ホワイトホース? あの男は好かん」

 暗い目をした老人だった。受け答えはおぼつかなく、ぼんやりとした顔色やその一言で耄碌しているのだと気がついたレイヴンは思わず目を泳がせた。

「あ、ああ。悪かったな。なんでもないわ」

 しわがれた声でぶつぶつと呟く老人に彼は苦笑いを浮かべると、手を振ってさっさとその場を去ろうと足を伸ばす。すれ違うそのときも、老人は彼をじっと見ていた。粘り気がある気味の悪い視線だ。ちらりと盗み見る。落ちくぼんだほの暗い瞳にまるで光がない。
 レイヴンがいたたまれなくなって羽織を正しながら踵を返そうとすると、ちょうど西日が彼の全貌を照らそうとしていた。彼は差し込んだ陽光の眩しさに思わず目を細める。


「——おまえさん、心臓≠フ具合はどうだ?」


 背に投げかけられた声は、いやにはっきりとしていた——。

「……っ!」

 レイヴンはカツ、とブーツの踵を鳴らせて踏みとどまった。彼は一瞬、自分がなにか幻聴でも聞いたのではないかと思った。おそるおそる振り返る。老人は窓の中から一歩たりとも動かずにレイヴンを見ていた。
 しかし、妙なことだが、ほんの少し前の老人とはよくよく見ると雰囲気が異なるような気がした。しゃんと伸びた背筋、重たい瞼はしっかりと開かれ鋭い視線がレイヴンを射貫こうとしている。

「そうだ。おまえさんはずいぶん手がかかった。よっく覚えとる」
「あんたは、いったい……」

 値踏みをするような目。はっきりとした物言いは若々しささえ感じさせる。「心臓」の音が、どくりといやな音をたてた。

 ——彼は何を知っている?

 レイヴンは頭を回した。彼の心中は決して穏やかでなかった。そっと羽織越しに懐刀へと指を滑らせる、が抜けるとは思えなかった。白昼堂々と誰が見ているかもわからぬ地である。けれどもし老人が余計なことを吹聴する気であるならば、考えねばならなかった。自分の「心臓」について知る者はあまりに少ない。
 老人は変わらずじっとレイヴンを見ていた。しばらく両者は睨み合った。
 けれど次の瞬間、ふっとその目からふたたび色が失われるのがレイヴンにはわかった。

「……なんだ。飯か?」
「……は」

 そればかりでなく老人はまたぶつぶつと呟きだしたかと思うと、すでにレイヴンから興味が失せたのか、ゆっくりと身体を丸めながら部屋の奥に向かって身を引きずるように姿を消してしまった。彼はがらんどうになった窓の中をじっと見ると、しばしの間考えを止め、悪い夢でも見ていたのだろうかと石作りの階段を見下ろした。
 なだらかな坂の先で、見たことのある丸眼鏡の茶色の髪を揺らした長身の男が、大きなカバンを持って階段を登ってくるのが見える。

「レイヴン? こんなところでどうしたんだい?」

 長身の男は驚いたように青い顔をしたレイヴンを見ると首を傾けた。長い坂を登ってきたせいか息は荒く、衣服の内側の首元には汗がにじんでいる。
 レイヴンははっとすると男を見返した。

「……あ。ああ」
「迷ったなら、ここを真っ直ぐ下ればユニオンだけど」
「いや。ちょっと用があって、さ」

 たしかマルコといったはずだ。今はトレードマークの白衣を着ていないが、ユニオンお抱えのいくつかあるうちの町医者の一人で何度か世話になったことがある。彼もまたそれを覚えていたのだろう。人好きのする微笑を浮かべると、ひどい嵐だったねと世間話のひとつをレイヴンに寄こした。

「おたくはどうしてこんなところに?」
「往診でね。足が悪くて家から出られないご老人がこのあたりは多いから、定期的に診にきているんだよ。それにここはぼくの師匠(せんせい)の家だから、たまに顔を見にね。もしかして彼に用が?」
「いや。——師匠?」

 マルコは老人の消えた窓に目を向けると、「引っ込んじゃったかな?」と言ってそっと中を覗き込んだ。部屋の奥のほうからは鉄鍋でもひっくり返したかのような金属音が響いている。日常的なものなのか彼は驚く様子もなくレイヴンに向き直った。

「この家に住む元℃。癒術師だよ。もしきみがぼくよりもダングレストが長いなら会ったことがあるかもしれないね。商店通りにあるぼくの診療所は、元は彼のものだから。後継ぎというやつさ」
「治癒術師……」
「二年前に仕事を辞めてからは、少し気が抜けてしまったみたいでね。誰かが見ていないといけないんだ」

 押し黙ったレイヴンに、マルコは自分に知られたくないことがあると考えたのか安心させるように眉尻を下げた。くしゃりと笑った拍子に目尻の皺が深くなる。

「ああ、でも昔の患者に都合の悪いことは話したりするような人じゃないから安心してくれ。本人も墓場までもっていくって言い張っていたくらいだし、ぼくも聞きだしたりはしないからね。——ああ、ぼくばっかり話してすまないね。なにか調べごとかな?」
「まあ、そんなところよ。年寄り連中に昔の噂について聞いてまわっててさ」
「噂?」
「〈ケーブ・モックの亡霊〉、ってさすがに知らないわよね」

 このまま聞き込みを続けたとて他にまともな話を聞ける保証はない。それならば一刻も早くここを後にしてしまいたかった。レイヴンは駄目も承知でマルコに尋ねてみることにした。彼は答えを期待していなかったが、意外なことにマルコは少しだけ視線を巡らせると階段上のほうを指さした。

「その三軒先に昔〈天地の窖〉で調査員をしていたご老人がいるから、もしかすると森のことなら詳しく話を聞けるかもしれないよ」



 レイヴンは気が遠くなるような思いで街の中心に戻ってきていた。気がつけば日も暮れ、闇色が顔を出している。黄昏色の支配するこの街での時間の感覚は独特で、彼はいまだに慣れずにいた。ずいぶんと軽くなってしまった財布を懐で転がしながら彼は思わず悪態をつく。

「まったく。どいつもこいつも……」


『——〈亡霊〉? ああ。知ってるぜ。何を隠そう、そいつを見たのは俺だからな』

 測量ギルド、〈天地の窖(あなぐら)〉。各地をまわりその日、そのときの情報を世界中から集めることを生業とするギルド——その元ギルド員だったという痩せぎすの老人は、訪ねてきたレイヴンに噂について問われ、あっさりとそう答えた。
 しかし、次の瞬間垂れ下がったその目の奥にぎらりとしたものを感じ、レイヴンは思わず身構える。老人は後ろ手に組んでいた腕を解き、皺だらけの右手をレイヴンに向かって差し出した。

『教えてやってもいいが、タダでとはね。こっちも過去の遺産を食いつぶしている身なもんでな』

 腐っても情報屋、ということだろう。レイヴンは苦虫を噛み潰したような顔で渋々と近くにあったカウンターの上にいくらかの金貨を積んだ。老人は一瞬、下衆染みた笑みを浮かべて受け取ると、部屋の隅にあった椅子を一脚引きずってきて腰かける。どうやら交渉は成立のようだ。レイヴンも腕を組み手近な壁際に腰を預けた。

『なにが聞きたい?』

  老人が手のひらの中で重ねた金貨を積み直すちゃり、という音が耳を掠める。

『〈亡霊〉の正体。あとはその頃なにか変わったことはなかったか聞きたい』
『それは難しいことを聞くな。なんせ数十年も前の話だ』

 老人はそう言いながらも「まあ、忘れたことはないがね」と自嘲しながら記憶を手繰り寄せるように遠い目をした。たっぷりとした真っ白な顎髭を撫でつけ、一度大きく息を吐き出すと彼は口を開いた。
〈亡霊〉とは、「人の姿をした血まみれのなにか」だ。老人は言った。レイヴンは憮然と目を細めると首を傾けた。

『どういうこと? あんた見たんじゃないの?』
『ああ。見たさ。見たんだけどもな——それ以上言いようがねえんだよ。消えちまった≠ゥらな』
『消えた=H』

 レイヴンは思わず眉をひそめる。
 老人は言葉にしたことでその様を鮮明に思い出したのか、わずかに青い顔をしていた。恐怖を浮かべるその様子は、先の老人のように耄碌しているようにはとても見えなかったし、どうやら冗談を言っているわけでも、嘘を吐いているわけでもないようだった。

 老人が語ることの真相はこうだ。——森がざわめいている。まだ若人であった彼が何度も足を踏み入れていたからこそわかったその森の異変に、測量士としての彼は恐怖よりも興味が勝ったのだという。森深く、魔物避けを張り巡らせながらも一人辿り着いた先で、彼は血まみれの人のようなもの≠見た。

『人?』
『そうだ。遠目にもなにかを叫んでいたような気がするが、なんと言っているかまではな。俺は助けようとしたんだ。だが、その前にそいつは尋常じゃなく苦しみだしてそのうちに——跡形もなく消えちまったんだよ』

 老人の金貨を弄んでいた手が止まり、室内には静寂が訪れる。

『そいつがいた場所に近づいてみたが、不思議なことに死体も残っちゃいなかった。人が消えることなんてあるか? ねえだろう。それが恐ろしくてな』
『化け物だって話は?』
『いや。化け物なんかじゃねえよ。あいつの見た目はたしかに人間だった。俺にはそう見えたんだ』

 若き日の彼は半狂乱になって他のギルド員に相談したが、あのあたりはエアルが濃く、きっと幻覚を見たに違いないと誰も取り合ってはくれなかったそうだ。それもそうだろう。一般的に人間は消えたりしない。
 一連の事件は、そのまま忘れ去られるはずだった。だが——そうして彼が触れ回っているうちに、いつの間にか世に〈ケーブ・モックの亡霊〉としての噂が徐々に広まっていった。
 やがてそれが伝聞するうちに化け物だのなんだのと尾ひれがついて、そのうち噂だけが独り歩きしたのだろう、と老人は結論づけるのだった。

『この話を、誰かにしたかい』
『さて、どうだったか。当時は誰も信じちゃくれなかったからな。まあ、まともに取り合ってくれたのはドンくらいじゃねえか。飲みの席でな、一度話したような記憶がある。金を積んでまで聞きにきた物好きはおめえが初めてだよ』



 ——レイヴンは行き交う人の流れを縫うように歩きながら顎の先を撫ぜた。
 結局、噂の真相といっても寝物語の域を出なかった話に、彼はこの一件を主人へ報告すべきか迷っていた。人が消える、だなんて荒唐無稽のような話を果たして彼が信じるだろうか。あの老人の言っていたことは、状況的にはたしかに似ている。だが、件の女は決して消えてはいない。ドンもそう思ったからこそ、ああして煮え切らない態度だったのではないか、と彼は考えはじめていた。
 まあ、さんざん寄り道はしたが収穫がなかったわけではない。結果として女の居所は掴めた。彼はこのあたりで落としどころをつけることにした。そもそも自分は、主人がどうしてあの女に興味をもったかもまるでよくわかっていないのだ。なにがあの男にとって有用であるか、研究者でもない自分にはよくわからない。ならば、ただ自分は知りえたことを粛々と報告するのみ、そう結論に至ると、彼は大きく息を吐き出した。

 ひどい疲労感だった。さまざまなことが一緒くたになって襲い掛かってきたような、そんな気がしていた。からからに渇いた喉を何でもいいから潤したかったし、それが上等な麦酒であればどれほど美味いことだろう。
 しかし一方で一刻も早く眠ってしまいたいとも思った。

『——おまえさん、心臓≠フ具合はどうだ?』

 落ち着くと急にあの老人のことが思い出される。
 きっとあの男こそが「あのとき」ドンが手配した医者だったのだろう。——よくよく考えればわかることだが、この「心臓」を知る人物がもう一人いたことをすっかり忘れていた。つい冷静さを欠いてしまったことは失敗だったように思う。
 不気味な老人だった。まだら呆け、というものだったか、耄碌していてもたまに正気に戻る瞬間があるのだと聞いたことがある。あの老人が自分のことを言いふらさない保証はない。が、あの場所ではそれを信じるものもまた少ないはずだ。

 レイヴンはぼんやりと宙を見上げた。たしか先ほど偶然会ったマルコの診療所がこのあたりにあったはずだ。看板は下げられているが何度か入ったことのある建物が目に入る。
 上階の窓が開かれており、二階があったのかと少し意外に思っていると、なにか動くものが視界に入った。彼は小さく目を見開いた。


 ——女だった。

 魔導器の灯りにうっすらと照らされ、少し癖のある髪を風に揺らし興味深そうな目で街を見下ろす彼女は、この広い街で一度も会ったことがない。けれど、たしかにどこかで見たことのある顔をしていた。
 生きている——。彼女の生気を失った土気色の頬、閉じられていた瞼が脳裏によぎる。そして今、目の前で何色ともわからぬ瞳が顔をのぞかせている。
 血まみれのなにか。森に現れた、苦しみに喘ぐ人のようななにか。

 彼女はいったい——。

『レイヴン。おめえは幽霊ってやつを信じるか?』

『そいつは尋常じゃなく苦しみだしてそのうちに——跡形もなく消えちまったんだよ』


〈亡霊〉——。

「——まさか、な」

 そのとき、ふいに彼女の視線が人々からそらされようとした。
 気づかれたかもしれない。そう考えた次の瞬間、レイヴンは低く身をかがめ足元の小石を拾うと、気をよくしながら話す男たちに向かってぴしゃりと投げつけた。そうしてすぐに彼は雑踏の中へと身を滑り込ませる。

 ざわざわと喧騒がさざ波のように大きくなっていく。軒下から彼女の視線がそちらに向いたことを確かめると、レイヴンは闇のなかに溶けていった。

(2023.06.01)
最終加筆修正(2025.05.29)

[♥拍手]

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