『ばかな子だよ。違うって先生やまわりの大人が言っても、聞きゃあしないのさ』

 ——急に、ひどく靄のかかっていた記憶が輪郭を得たように、はっきりと頭の中に浮かび上がった。

『あの子、ずいぶんとミズキのことを心配してたんだよ。「ちゃんと生きてるのか」、「大丈夫なのか」ってね。だからひと目会えば、きっとあの子も納得すると思ったんだけど——』

 不思議なことに、瑞季はあの日女性がため息を吐きながら語ったことを今ならすっかり思い出すことができた。

『ミズキも記憶を失って自暴自棄になる気持ちもわかるがね、あんたはあの子に感謝しなきゃならないよ。森の中で魔物に襲われて倒れていたあんたを一番はじめに見つけて、介抱までしてくれたんだから』

『なのにあの子ときたら——あの子はね、あんたがいつまでも目も覚まさないうえ様子がおかしいってんで気にしているんだよ。ミズキが死にかけたのは自分のせいなんじゃないかってね。ばかな子だよ。違うって先生やまわりの大人が言っても、聞きゃあしないのさ』

『……そんなことあるわけないのにねえ。あの子はミズキを助けたんだよ。それは間違いないんだ。ちょっとばかし、順番が違っただけなのさ。なのに、どうしたって気にしちまうんだろうねえ』

『——あの子はきっと、優しいんだね』


*



 見て見ぬふりをしていた。すべてのことから一歩も二歩も引いて、自分のことだと考えないようにしていた。思い返せば、気づけるタイミングはいくらでもあったのだ。じっと傷を見る少年の目は、痛みをこらえるように歳不相応なほの暗さを帯びていた。

 心をざわつかせる正体。あれはきっと——「罪悪感」だ。

 瑞季はその事実に頭を殴られたような衝撃を受けていた。

(もしかして、はじめから——)

 空の丸椅子があった場所を見る。
 ぎゅっと胸を掴まれるような感覚を覚え、心向くままに少年を呼ぼうとして——彼を呼ぶすべを知らないことに気づいてしまった。「きみ」、「おまえ」。もうずいぶんとお互いの名前を知らないで、それで済んでいた。愕然とした。少年のことをちゃんと見たことなんて、一度だってなかったことに。
 彼女の視線の先で、少年の腕が小さく震えている。手のひらを握り込んで、爪を立てているように見えた。

『——瑞季ちゃん。あんまり気に病まないでね。あなたのせいじゃないんだから』

「——っ!」

 瑞季は身を乗り出して少年の腕を掴んだ。

「きみのせいじゃないっ」
「っ!」

 大粒の涙がその頬を伝うのを彼女は見た。

(ダメだ)

 瑞季は首を大きく横に振り、両手でなかば縋りつくように少年の手をとった。震えが伝わってくる。どうしようもない自分に腹が立つ。

 頭を回して考える。もし少年の思っているとおり、彼の飲ませた薬が本当に自分にとってとてもよくないものだったのだとしたら? ——それでも、瑞季は少年を責められないと思った。
 だって、彼が善意でしてくれたことだ。自分やマルコにさえ正解がよくわからないこの特殊な身体のことを、あの日たまたま自分を見つけただけの彼が知るはずないじゃないか。彼女はそれが「少年のせい」だとは少しも思わなかったし、これ以上「自分のせい」だと少年に自身を責めて欲しくもなかった。
 瑞季はごくりとつばを飲む。

「私ね——」

 彼女は普段の何倍も言葉を選んだ。違う世界からきたことや記憶についてなど伏せなければならないことはあったが——はじめから熱を出していたことや魔物に遭って頭を打ったことなど、森の中で自分の身に起こったことほとんどを少年へ順を追って話すことにした。そうしなければ納得してくれないと思ったのだ。

「——だから、違うよ。きみのせいなんかじゃない。きみがいなかったら多分私はあそこで死んでる。助けてくれてよかったよ。じゃなきゃ今ごろ魔物の餌になってた」

 少年は八の字に下がった眉の中心をぐっと寄せ、彼女の話を黙って聞いていたが、重ねて瑞季がそう言うと唇を噛んだのがわかった。「でも」という形になっていない言葉が彼女の耳に届く。
 瑞季は目を細めた。

 ——いい加減に、しなければ。

 すると彼女は今にも逃げ出してしまいそうな少年の腕をしっかり掴んだまま、足をベッドの外に投げ出そうとした。腹筋に力を入れて土踏まずをしっかりと軋む床板につける。
 目を閉じて大きく息を吸い込み、やがて吐き出した。

(生きる。生きるよ……ちゃんと)

 きっと、自分がこのままでい続けるかぎり、少年は苦しむのだろう。「自分のせいだ」と言って。——そんなことは許されないと思った。
 自分一人で立ち上がるために必要な筋肉がすっかり衰えていて、よろけて震える腕でベッドフレームに縋りつく。少年が驚く気配がした。立って歩いているところなど見たことがなかったのだ。無理もない、と彼女は心の中で自嘲した。

「お、おい。大丈夫か——」
「だい、じょうぶ……!」

 みるみるうちに額や背中にだらだらと汗をかく。いつもこうだ。人に見せられたものではないから少年の前ではトイレに行くのも我慢していた。一歩一歩踏みしめた足は拙く、がくがくと震えていてみっともない。やせ我慢をしていることに彼はすぐに気がついたのだろう。少年は涙を拭って慌てて彼女の肩を抱えると、そろそろと背を支えようとした。
 少年の背は瑞季よりも少し小さかったが、支えを得た彼女の視界はぐんと上がることになった。「助かった」。瑞季は彼に向かって目を細めてみせると「ありがとう」と呟いた。ふいに少年の肩が跳ねた。

 透明な、決して薄くはない窓ガラスに指で触れる。結露をおこした表面を拭うと、ゆっくりと雫が滴り落ちていった。
 ——「外」は、あの物語のように晴天が広がっているわけでも、美しい虹がかかっているわけでもなかった。鼠色をした曇り空。そのうえ窓を叩きつける雨で向こうはよく見えない。かわりに自分の情けのない顔が映っていた。瑞季は口角を歪めた。

(まったく、締まらないな)

 けれど暗いばかりではなかった。暗雲立ち込めるその下に、ほのかな光が見える。彼女達の頭上には、変わらず規則的に回るほの明るい光の環があった。あれだけ不気味だと思ったその奇妙な光を、彼女はそのときなぜだか少しだけ、ほんの少しだけだが好意的に受け止めることができるような気がした。
 肩ごしに少年を窺う。彼はいまだ後ろめたさの残った表情で視線をそらしている。少年の名を知らなかった。——腹は括れた。今ならば聞ける気がした。

「私ね、ミズキっていうの。きみは?」
「名前なんて聞いてどうすんだよ……」

 少年が困ったように眉尻を下げる。

「これからお世話になる人の名前を知らなくてどうするの」

 彼はこちらを見やるとぱちくりと瞬いた。けれどすぐに瑞季へ疑念の湧いた目を向ける。

「……生きる気もないくせに?」
「気が変わったの。っていうか、どうにかしろって言ったのきみだよね」
「いや、だって……あれだけ言われて信じられるかよ」
「まあ、そうだね。弁解しないよ」
「しろよ。少しは……」

 調子が狂うといった具合にぽりぽりと鼻の頭の傷跡を指先で掻いて、少年はわずかに俯いた。少しの沈黙とともに、不安げな声が耳に届く。

「……本当にいいのか。オレは、おまえのことを殺しかけたかもしれないんだぞ」
「マルコ先生がそうだって言ったの?」
「言ってねぇ、けど」
「誰が言ったの?」
「……オレが、勝手にそう思ってる」
「先生のこと、信じられない?」
「そうじゃねえけど。……でも本当は、違うかもしれないだろ」

 強情な少年は、誰かによく似ている。

「いいよ。それでも」
「っ……」

 瑞季は眉をひらくと口元を緩めた。

「私が殺されかけたなんて思っていないんだから、いいんだよ」
「でも、よ……」
「いいの」

 少年は黙り込んだ。瑞季は少しだけ大袈裟に眉を上げた。

「——じゃあ、面倒見るって話、なかったことにする?」
「……それは」
「あーあ。結構嬉しかったんだけどなあ。これからどうしよっかなあ、ああやっぱり不安かもなあ」

 すると、彼女は少しだけ大きな声を張り上げてあっけらかんとそう言った。少年は面食らったようにぼうっとしていたが、すぐに形容しがたいものを見るような視線を瑞季に向けると、ぼそりと漏らした。

「……ずりぃよ、おまえ」
「そ。大人ってずるいんだよね。——それで? いつまで私はきみのことを、『きみ』って呼び続ければいいのかな」

(うん。調子が出てきた)

 瑞季は勢いのままに少年の顔を覗き込んだ。
 少年には遠慮がない。だから少しくらい自分もずうずうしくしたって怒られはしないはずだ。それに多少の荒療治でもしなければ、少年はいつまでもくよくよしてしまう気がした。もし彼が本当に似ているのだとしたら、だけれど。
 瑞季は折れるつもりはない、と視線でそう訴えかけた。少年は呆けた顔で彼女の顔を見上げていた。その相貌にはいっそう幼さが滲み出ている。やっぱり子どもは子どもらしい顔をしているほうが落ち着くな、と彼女は思った。

「……はぁ。わかったよ! オレはハリーってんだ!」

 少年——〈ハリー〉は問答の末に大きくため息を吐くと観念したように声を荒げた。瑞季は少し嬉しくなって思わず目尻を下げる。自然と口角が上がっていた。

「へえ。きみ、ハリーっていうんだ」
「……いまさらだけどな」

 つられて思わず苦笑したハリーの捨て台詞みたいな言葉に、瑞季はおおいに同意した。本当に、いまさらに違いなかったのだ。


「雨、止まないね」
「そうだな」
「窓、開けてもいいかな?」
「濡れるからやめとけよ」
「拭けばよくない?」
「そうじゃなくて。そんなに貧弱なのに」
「っはは、間違いない」

 それからぽつりぽつりと言葉を交わしながら二人は窓辺で佇んでいた。興味深そうに薄く笑みを浮かべ窓の外を覗き込む瑞季の顔を、ハリーがふいにじっと見やる。
 ——すると、一拍間を置いてから勢いよく噴き出した。

「なに?」
「ひっでえ顔。おまえ、それで本当に笑ってるつもりなのか?」
「笑ってる、けど。え、なに?」

 瑞季は少しだけ濡れた頬に触れた。ガラス窓を鏡にして見たら、どう見ても歪んでいる顔がある。あまりに久しぶりに口角を上げたためにぴくぴくと頬が痙攣しているのが彼女の目にもわかった。
 そうして浮かべた笑みがひどく引き攣っていることに瑞季が気づいた頃には、ハリーは腹を抱えて笑いはじめていた。

「っはは……はははっ! なんだよ、それ……っ!」

 気が抜けたのか、少年の目尻から次々と光るなにかが零れ落ちたのが見えた。
 彼女は目を細める。もしまた少年が悩んでしまう日がきても、きっと——。

 すると、瑞季は少しだけむっとしたように大袈裟に眉を寄せて見せると、肘でハリーの脇腹を小突いた。少年がはっとしたように瑞季を見やって——それでも彼女を支える手を放そうとはしなかった。——「いってえ!」と言って瑞季を睨みつける。

「なにすんだよ」
「べつに?」

 瑞季はにやりと笑った。そして自分もまた同じように、少年のびしょびしょになった服が浸みて触れた場所が徐々に冷たくなっていってもまったくかまわずにいた。少年がぐず、と鼻をすすっても、しきりに目を擦っても、彼女はそ知らぬふりをした。

「よろしくね。ハリー」
「……おう」

 雲の下の淡い光が、静かに二人を照らしていた。



 瑞季は丸椅子に腰かけ、窓の外を見つめていた。
 あんなに重たい雲があったのに、驚くことにあれからすぐに雨は止んだ。黄昏色の空、ぬるい風。湿気っぽい匂い。道沿いには露店が開かれ、組み立てられた足場へ徐々に人が集まってきて大工仕事をしはじめている。やっと雨が上がった、と口々に言う彼らの表情は晴れやかだった。
 耳に届いていた情報が形作られていく様子は、瑞季を完成図のないジグソーパズルが組み上がったときみたいに、なんだかすっきりとした気持ちにさせる。

 一番星がてっぺんで輝き、少年が帰路につき空が暗くなっても、彼女は飽きることなくそうしていた。
 ぽたぽたと雨どいから雨水が伝い落ちていく音を聞きながら、うっすらと濡れた路面が街灯の光を反射しててらてらと光っているのを眺める。目線の先では風に乗って洗濯物のようなものが揺れ、煌々とあたたかく灯る窓の中からは大勢の人の気配が感じられた。夜らしい涼しい風が火照った頬を冷やす。

(ここが、〈ダングレスト〉——)

 たまにあちこちでどっと笑いが起き、炭火のような食べ物の焼けるいい匂いが鼻孔をくすぐる。石畳にはちらほらと見慣れぬ和装とも洋装ともとれぬ服を着た人々の影が見えた。
 まるで絵本のなかのような光景が目の前にはある。けれど、彼らはたしかに生きている。心動かされる反面、少しだけ尻込みしてしまいそうな心地になった。本当に知らない土地に来てしまったのだ、と。
 けれど少し前の自分からは考えられないほどに、不思議と心は落ち着いていた。

 そうして立ち上がって窓枠に体重をかけながらしばらく外の様子を覗いていると、ふっと瑞季は下を向いた。じっと見られているような気がした。彼女は不思議に思い、あたりを見渡そうと身を乗りだそうとする。

「誰だ! おれにこんなものを投げつけたのは!? おめえか!?」

 ——すると、通りに大きな声が響き渡った。酔っ払い同士が殴り合いの喧嘩をはじめてしまったらしく、諍いの気配に瑞季は気をとられる。野太い声と打撃音、そしてやいのやいのと囃立てる声がざわざわと喧騒を深くしていった。
 結局、視線の正体を見つけることはできなかった。瑞季は小さく首を傾げる。

「ミズキ。……おや。はは。外が騒がしいね。夕食を持ってきたよ」

 そんなとき女性が扉の向こうからお膳を持ってやってきて、瑞季の様子を見て嬉しそうに顔を綻ばせた。瑞季は彼女に振り返って返事をする。
 窓を閉める前にもう一度ちらりと石畳を一瞥した。視界の端で宵やみ色がこちらを窺っているような気がしたが、気のせいだったのだろうか。

(——まあ、いいか)

 情緒のない外の様子に、鼻白んで窓を閉めた。

「朝の煮物ってまだ残ってたりします? 味の染みた里芋、実は好きなんですよね」
「なんだ、もちろんだよ。ちょっと待っていておくれ——」

『だったらオレが面倒みてやる!!』

 瑞季は、ぱたぱたと扉も閉めずに階段を下りていく足音を聞きながら、静かに口角を上げた。くぅとお腹が鳴る。正直者め、と彼女は小さく噴き出した。


 ——生きる。ここで、生きていく。


 やわらかな枕に頬をこすりつけると、凪いだ気持ちで眠りに落ちた。——珍しく、夢は見なかった。

(2023.03.16)
最終加筆修正(2025.05.29)

スキット // 9−1「字の練習?」

[♥拍手]

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