12

 明朝、瑞季が薄暗い玄関口へ下りていくと、ちょうどマルコと女性が開所の準備をしているところだった。女性が戸棚を拭き上げる手を止め、玄関脇の小さな窓の外を指して瑞季に目配せをすると、「来ているよ」と言って笑いかけた。

「よかった」

 瑞季はほっと胸を撫で下ろす。すると女性が、瑞季を頭からつま先まで見てそれから苦笑いをした。

「首の詰まったのがいいっていうから探してみたんだけど、やっぱりそれじゃあ少し大きかったね。靴は大丈夫だったかい?」
「一応、なんとか。すみません、なにからなにまで」
「ははっ。気にしないでいいよ。それだっていつか捨てなきゃと思いながらクローゼットの奥に眠らせてたものさ。むしろあたしのお古なんかを着せちまってかえって悪かったねえ」
「いえ、そんな。すごく助かりました」

 マルコが穏やかに尋ねた。

「すぐに出るかい?」
「ええ。待たせたら悪いので」

 女性がふっと眉を上げて快活に笑った。

「あんたたちがいないと、ここもなんだか寂しくなるよ。ねえ、先生」
「そうだね。でも、本来それが一番いいことだから。ああそうだった。ミズキ、忘れないうちに——」

 するとマルコは瑞季をそばに呼び、彼女になにか小さな革袋を手渡した。瑞季はきょとんとして受け取り中身を確かめると、困ったように眉尻を下げる。

「これって——」
「必要な分はちゃんと貰ってある。残った分をどうするかは任せると伝えてくれ。大丈夫。心配しなくてもなんとかなるさ」

 彼はそう言って右手を差し出した。瑞季はぐっと喉元に出かかった言葉を飲み込んでそれを大きなポケットに押し込むと、握手に応じた。薄い骨ばった手のひらで力強く握られ、反対の腕でぽんと肩を叩かれる。マルコは目尻の皺を深くしながら彼女に言った。

「いつでも頼りなさい」

 瑞季はわずかに口角を上げた。

「本当に、お世話になりました」
「元気でね。しっかりやるんだよ」

 女性に背中を押されながら、見慣れぬ扉をくぐる。
 ——ずいぶんと長いことお世話になったような気でいた。
 春の風のようにあたたかな彼らからの惜別の言葉に、彼女はくるりと振り返ると身が引き締まる思いで深く、頭を下げるのだった。



 ざわざわとした波音のような喧騒があたりに響いている。
 もうあの窓は他の建物に紛れて見えなくなってしまっただろうか。そんなことを考えながら、瑞季は振り返る余裕もなく足を動かしていた。
 舗装されていない荒い石造りの道はガタついていて、気を抜けばすぐに足をとられそうになる。そのうえ多くの人々が行き交っていた。そろそろと足元を気にしながら歩くすぐそばを、するりと子どもたちが走り抜けていったのに驚き、彼女は「なんとも逞しいものだ」と肩を竦めると苦笑を浮かべるのだった。
 すると、数歩前にあった——あの子どもたちよりもいくらか大きな——人影がふいに振り返った。

「おい。下ばっかりじゃなくて、ちゃんと前も見て歩けよ。ぶつかっても知らねえぞ」

 八の字に下がっていた眉がぐっと中心に寄って、見ていられないとでも言いたげな視線とかち合う。ハリーは瑞季をつま先まで見下ろして呆れたように言った。

「……本当にそれで大丈夫なのかよ」

 もともとこの世界で目を覚ましたときに履いていたパンプスや衣服などは、診療所へ運び込まれたごたごたの間にどこかへいってしまっている。借り物である薄手の入院着で外を歩くわけにもいかず——マルコに頼めば断られることはなかっただろうが——退院するためにはまず着るものをどこかから調達しなくてはならなかった。どうにかしなければと瑞季が頭を悩ませていると、女性からのご厚意で幸運にも古い靴や服を譲ってもらえることになったのだ。
 しかし安心していたのもつかの間、出発当日になってから彼女は一点だけ問題があることに気づいた。純日本人であり病後で痩せ細ってしまった彼女が、西洋に近い骨格をした比較的体格のいい女性と同じものを着るというのはあまり現実的ではないことに。端的にいうと——瑞季には少しだけ「大きかった」のである。
 ぶかぶかのワンピースを着る瑞季は、まるで成長期を前に余分に大きく作られた学生服を着せられた少女のようで、投げかけられた少年の言葉に彼女は困ったように笑った。

「そんなにひどい?」
「……まあ、な。けど服は仕方ないにしたってよ、せめて新しい靴くらいはなんとかしたほうがいいんじゃねえか。相当歩きづらいだろ、それ」

 会ったばかりは笑いを堪えていたハリーも、急ごしらえの合わない靴でときおりもたつく瑞季をさすがに見かねたのだろう。眉をひそめてそう言うと市場の一角を指した。
 天幕がかかった小さな露店には、ハリーの言ったとおりよさそうな女性ものの服飾品も多く並んでいた。なかには飾り気のないシンプルな革靴なども置いてあるのが彼女の目にも見てとれる。
 けれど、瑞季は首を横に振ると苦く笑うのだった。

「——そのうちね」

 少年は首の裏を掻いてぼそりと言った。

「ちょっとくらい使ってもバレねえのに。難儀なやつ」



 木組みに漆喰の壁、三角のレンガ屋根。出たばかりは朝もやに包まれていた街も気がつけばすっかり見慣れた黄昏色を纏っている。
 診療所が建っていた場所は、街の人からは〈商店通り〉と呼ばれているらしい。
 早朝にもかかわらずさまざまな人間が寄り集まっていた。恰幅のいい男性たち、魔法でも使えそうないでたちの女性の姿。白髪の腰が曲がった老人や小さな子どもたちまで老若男女を問わない。
 決して体格のいいほうでない二人は、そのなかを縫って歩かなければならなかった。あまりの人出に瑞季はスリにでも遭ったらことだと反射的にポケットを押さえつける。正面から向かってきた大柄な男性をひょいと避けると、前を歩いていた少年の肩を思わず叩いた。

「ここ、いつもこんなに人がいるの?」
「今日はまだいいほうだよ。ちょっと前なんて長雨の後だったから人でごった返してて歩くのも大変だったんだぜ」

 瑞季は小首を傾けた。

「長雨だとなにかあるの?」

 すると彼は露店へ、くいと顎を向けた。斜めに張られた天幕は日よけや雨よけの役割をはたしているようで、朝露が軒下のすみにごく小さな水たまりを作っている。

「ほら。一応雨よけはあるけど、ひどい雨の間はさすがに店も閉めなきゃならねぇだろ。貯め込んでた食料品とかがいつもより安くなるんだよ」
「なるほど」

 それは耳寄りな情報だ。瑞季は頭の中に書き加えると、少年に視線を戻した。

「ずいぶん大きな街なんだね」
「そ。だからはぐれるなよ? 迷子になっても知らねえからな」

 ハリーは瑞季に聞こえるようやや声を張りながらそう言って、押し流されてしまいそうな人の波にも負けずずんずんと進んでいった。右も左もわからない瑞季とは対照的にその足には迷いというものがなく、ひと目で歩き慣れていることが彼女の目にもわかる。ほんの少し大きく感じるその背中を頼もしく思いながら、瑞季は急いでその後を追うのだった。


 でこぼこ道もしばらく歩けばだんだん慣れてきて視線を移す余裕ができてきた。ずらりと並んだ露店前はとくに多くの人で賑わいを見せており、食品や生活雑貨、服飾品、武器や防具、果ては骨董のようなものまで幅広く立ち並んでいていい意味で雑然としている。〈商店通り〉という名がつくだけあって道全体が小さな市場のようになっているようだ。

「いらっしゃい、いらっしゃい! お客さん、今日は葉物が安いよ!」
「物見遊山も大歓迎! かの幸福の市場でもここまで良いものは取り扱ってないですよ!」
「ううむ、もう一声!」
「勘弁してくれよ。なら五百ガルドだ! 悪いがこれ以上はまけられねえ——」

 商人が活気よく売り込んでいる声やそれを買い叩くものの声が飛び交っていて彼らの周りはとくに騒がしい。
 瑞季は彼らの様子を横目にしながら「ほう」、と感嘆のため息を吐いた。生き生きとした人々の声が波のように押し寄せ、思考を休める暇がない。——なるほど。これに比べたらあの病室は静かなものだ。少年が以前言っていたことにも得心がいくような気がする。
 それに、これだけの人がいるならば、自分のようなよそから来た人間の一人や二人紛れ込んでも誰も気がつかないかもしれないと思った。いかにも旅装束といった服を纏った男たちとすれ違いながら、瑞季は強張らせていた頬をわずかに緩めた。

「——おっと!」

 するとふいに、目の前にあった天幕が大きく膨らんで、真横から一陣の風が吹き抜けていった。誰かが驚きに声を発するのを聞きながら、瑞季は派手な色をしたワンピースの広がった裾を押さえる。頬を撫ぜる冷たさをまったく感じさせないぬるい風は、日暮れどきに窓の中に吹き込んできたものよりもずっとからりと乾いている。
 視界の端でロープに括りつけられていた洗濯物が大きく巻き上げられるのが見えた。商人たちは突然の突風にも慣れたように商品を押さえつけていたが、商魂たくましくその間も商談をする口だけは閉じてはいなかったようで、彼女の耳には風が収まるより早く喧騒が戻ってきていた。

(なんだろう。いま……)

 風に乗って、かすかに「海」の匂いがしたような。
 瑞季は疑問符を浮かべる。街が海に面しているなんて話を誰かしていただろうか。風がやってきた方角に目を向ければ細い路地が続いているが、その先は薄暗く、海どころか光すらよく見えない。乱れた髪を整えながら、瑞季は小首を傾ける。
 するとそのとき、彼女の腕が誰かによって強い力で掴まれた。瑞季は肩を震わせ、驚きにひゅっと肺を鳴らす。

「……っ!」
「——おいこら」

 猫が唸るような低い声に、瑞季ははっとして顔を動かした。彼女の目に映ったのは、視線の高さよりもわずかに低い位置にある金色の小さな「つむじ」と、そしてすっかり不機嫌になってこちらを睨む少年の顔で。

「——あ」

 瑞季はぽかんと口を開けると、瞬時に自分の置かれた状況を理解したのだった。



「言ったそばからはぐれるやつがあるか! 振り返ったらいねえとかガキじゃねえんだからよ、まったく!」
「いやあ、その。おっしゃるとおりで……」

 通行人の不思議なものを見るような視線を身に受けながら、ぷりぷりと怒る少年の背後で瑞季は何度目かの平謝りをした。
 彼女の腕には、今や小さな手が縄とばかりに巻きついていた。細腕のわりに鍛えているのか少年の力は強い。しかし、背を丸め小さくなって歩く彼女に抵抗の意思というものはまるでなく、親が子の手を引いて歩くように、大の大人が一回りも小さい少年に腕を引かれながら歩く様はさぞ滑稽だろうなと瑞季は思った。これではどちらが「子ども」か、わかったものではない。
 この様子では、街並みに気をとられて少年のことを一瞬でも「忘れていた」なんてことは口が裂けても言えそうになかった。
 なにせ彼がわざわざ引き返してくれなければ、今頃自分には「二十五歳。住所不定、無職」にプラスして「迷子」という至極不名誉な肩書きが増えていたところである。これにはさすがの瑞季も少しばかり堪えた。

「はぁ……一人でも歩けるよ」
「自分からふらふら迷子になっておいて信用できるか。それに、もたもた歩くから流されるんだよ。ったく、こっちだって恥ずかしいんだぞ! もうすぐ広場に着くから、それまで我慢しろ!」

 恨めしげな少年にぶつくさと文句を言われながら大人しく連れられていくと、彼の言ったとおり景色は通りを抜けて広い場所に移り変わっていった。人の密度が下がり、ここまで来ればはぐれることもないと考えたのか、宣言通り瑞季はまもなく自由放免となった。

「——どこから案内したもんかな」

 人混みで力の入った肩を緩め、広場を見回すハリーにつられてそろりと周囲を眺める。
 通りと同じ石造りで円形の広々とした広場は、商店通りにいた人々を丸ごと集めても余裕がありそうに大きく、周辺にも多くの飲食店らしき店が立ち並んでいてここが街の中心部だろうということが窺えた。街並みは重厚でどこか古めかしく、また黄昏色を背景に建物がぎゅうぎゅうと密集して建つ様は、まさに空想を絵に描いたような趣を見せている。

 ——そのとき、瑞季の足がゆっくりと止まった。
 オレンジと紫の入り混じった色が、彼女の瞳に映る。

「正面にあるあのばかでっかいのがオレのいるユニオンで、それから馴染みの酒場がそっち——」

 ハリーが律儀に案内してくれる声を耳に入れながら、瑞季は呆然と西の空を見上げていた。

「なに、あれ=c…」

 空が、なにか大きなものによって遮られている。
 幻でも見ているのかと指の関節部で目頭をいくらかこすった。なぜ今の今まで目に入ってこなかったのだろう。——もしかすると「それ」はあまりにも大きすぎて意識の外にあったのかもしれないと彼女は後に気づいた。
 瑞季が見上げたその先には、円柱状の巨大な柱のようなものが少年の指す塔に似た建物へ跨るように横たわっていた。上空高くに浮かぶ光の環を、まるで冠のように戴いている。その大きさは、まるで「高層ビル」を下から見上げたときのように見るものに圧迫感を感じさせ、それなりに大きいはずの建物の群れもその巨大さの前では霞んでしまいそうだった。
 しかし彼女を驚かせたのは、それだけではない。

「——光ってる」

 そう。特筆すべきはその巨大な「なにか」が「光を放っている」ということだった。
 緑がかった淡い光を纏った不透明な柱状のものは、一見すると巨大な鉱石のようにも見えるが、その表面にはときおり流れ星のように細い「光の線」が無数に走っている。
 ——瑞季はその光景を目にして、心臓をぞわりと撫でつけられたかのような心地になった。

「そりゃあ、〈結界魔導器(シルトブラスティア)〉だからな」
「〈結界魔導器〉? あれ≠ェ?」

 少年の言葉にはっとして勢いよく後ろを振り返ると、彼はその剣幕に一瞬怯んで、「なんだ。おまえちゃんと見たことなかったのか?」と少しだけ驚いたように言った。

「結界って、あの光≠フことを言っていたんじゃないの?」

 瑞季は混乱しながら、上空にぽっかりと浮かぶ「光る環」を指した。しかしハリーはきょとんと瞬きをひとつすると、すぐにばつが悪そうに首の裏を掻く。

「……あ、そっか。角度的に部屋からあれが見えるはずねえのか」
「なんのこと?」
「わりい。説明が足りてなかったみてえだ。いやあれも言ったら結界≠ナ間違っちゃいねえんだけどよ」
「?」
「前に結界魔導器は街を守るシールドだって言ったよな。あれも普通の魔導器と一緒だよ。ようはあのでけえのが本体で、光はただの術式ってわけ。俺たちはまとめて結界って呼んでるけどな。あ、術式ってのは魔術とかを使ったときに出てくるんだけど——」

 少年の言ったことを自分なりに要約してみると、どうやら真の意味での〈結界魔導器〉とはあの巨大な建造物のことで、あの光の環は正味魔導器によって生みだされた「副産物」のようなもの、らしい。

「なるほど……」

 瑞季はぱちくりと何度か瞬きをしながら少年が「本体」と言った魔導器を見上げた。にわかには信じがたいことだが、規則的に動くあの光が「魔法陣」の類だと考えると、なぜだかすとんと腑に落ちるような気がした。
 下から見るとまるでなにかの「柄」のようにも見える。表面には斜めに飾り模様のようなものが入っていて、ひと目で人工物であることがわかるが、瑞季はその大きさからか、あれが人の手で造られたと言われてもあまりぴんとこないような気もした。
 しげしげと目を凝らす瑞季の背中に少年が問いかけた。

「すげえだろ? あんなにでかくても魔導器なんだぜ?」

 彼女は素直に頷いた。その規模の大きさには口を大きく開くばかりである。
 生活に必要な、こと光などを生みだす魔導器は徐々に馴染みつつあったが、これだけ大きな街ひとつ分を覆い守る結界ともなると全長は予測ができない。見えている一部だけでも相当な大きさなのだ。精巧に造られた魔導器を見上げていると、彼女の内にあれほどのものをどうやって作り上げたのだろうか、という疑問が湧くのも自然なことだった。

「ああいうのって、簡単に作れるものなの?」
「まさか。だったらこんなに苦労しねぇよ。ギルドから買ったり交渉したり、そのへんにある魔導器も調達してくるのだって実はすっげぇ大変なんだぜ?」
「え? 魔導器ってそのへんで作ってるんじゃないの?」
「ちげえよ。ああいうのは遺跡から掘りおこしてきてんだ。〈遺構の門〉とか、そういう発掘専門のギルドから直接卸してもらうんだよ」
「発掘品——?」

 瑞季は思わず聞き返した。

「もしかして、街にある魔導器も全部?」
「だから、そう言ってるだろ。まあ、驚くのも無理はねえか。普通の街じゃあ魔導器自体こんなにねえらしいし」

 遺跡。過去の遺物。ロストテクノロジー。そろそろ頭の容量もキャパを超えそうである。彼女は街を振り返りながら驚きに「はあ」とから返事をした。
 しかしこれだけ多くの魔導器がすべて発掘品とは。瑞季はぶしつけに質問したい衝動に駆られるが、それは少年によって早々に遮られた。「詳しくはオレたちも知らねえんだから聞くなよ」、と。魔導器の使いかたは広く浸透していても、その原理ともなるとそれはもう魔導士の領域で、一般的にそのほとんどが謎に包まれているらしい。

「あの結界魔導器は昔っからここにあったらしいけどな。それこそじいさんたちが生まれるよりずっと前からあるみたいだぜ」
「そんなに古いものなんだ」
「でも人間ってのは不思議なもんでさ、あれだけでかくてもだんだん見慣れてくるんだよ。珍しそうに見てるのは、ガキかよそから来た人間だけだ。おまえも悪い連中にカモにされないように気をつけるんだな」
「結界があるのはこの街だけなの?」
「なわけねえだろ。こんだけでけえのは他にないって話」

 上のほうはほとんど霞みがかっていて、あの大きさではさぞメンテナンスも大変なのだろうな、と彼女は思った。ハリーは頭の上で腕を組みながらたいして興味もなさそうに相槌を打っていたが、ふと思い出したように「たしか、高台からなら全部見えたな」とぽつりと言った。瑞季は眉を上げた。

「へえ。少し見てみたいかも」
「——そのうちな」

 彼女は少しばかり耳を疑った。少年のことだ、自分が行きたいと言ったところで面倒臭いと断られるだろうとばかり思っていたのだ。

「いいの?」

 意外な返答に思わず彼を振り返ると、ハリーは瑞季の視線に一瞬押し黙って、それから鼻の頭をぽりぽりと掻いた。

「おまえ、はたから見ると危なっかしいんだよ。勝手にほっつき歩いて今度こそ本当に迷子にでもなったら誰が探すと思ってんだ? その前に案内しちまったほうがいいって学んだんだよオレは」

 瑞季はきょとんとして、それから小さく鼻を鳴らした。そして少年が「ひとがせっかく親切に言ってやってるのになんで笑うんだよ」と言って不服そうにしているので、小さく肩を竦めた。

「ううん。——今言ったこと、忘れないでよね」

 目を細めて笑う。
 彼は急に気恥ずかしくなったらしい。さっと手を陰にすると話をそらすように「光の環には文字のようなものが出ているらしい」と言って空を見やるので、瑞季はますます笑いを堪えなければならなかった。

 二重に広がる大きな環の四隅でまた別の環が円を描いている。ちらりと一瞥した結界魔導器は、その巨大な見た目とは裏腹に静謐さを保っていた。
 浮かべた笑みを緩めて、彼女はすっと消えていく淡い光の線に目を細めた。
 左腕にそっと視線を落とす。日焼けとは縁遠い白い肌の下にうっすらと青みがかった血管が見える。

 ——青白く「光る線」。

 ぞわりと背中を這うような気持ちの悪さは、得体のしれない既視感にも似ている。
 どこかで目にしたことがあるような気がしたが——。

「そろそろ行こっか」

 瑞季は口角を上げる。——どうせただの考えすぎだろうと思った。

(2024.05.08)
最終加筆修正(2025.05.29)

[♥拍手]

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