「……ふう」
瑞季は手すりから手を離すとほっと息を吐いた。階段を下りただけなのに、まるで全力疾走をしたみたいに大きく跳ねる心臓を押さえて、うっすらとにじんだ汗を拭う。徐々に足腰の調子を取り戻そうとしている最中とはいえ、これでは先が思いやられるようである。
呼吸を整え、診察室の扉を軽くノックした。
「先生、ミズキです」
向こうからかすかに返事が聞こえた。
慌てたようなその声はちょうど手が離せないらしく、少しだけ待つよう彼女に言った。ぼうっと突っ立っているのもあれなので、瑞季は近くの長椅子に座って待たせてもらうことにした。
待合室は薄暗く、ひっそりと静まり返っている。すでに看板が下げられているのか階下に人の気配はなく、女性も一仕事終え家族の待つ自宅に帰ってしまっているようだった。外の喧騒も分厚いドア一枚を隔てればすっかり聞こえず、あれだけ賑やかだったのが嘘のようである。
ふいにひやりとした冷気が足元を伝ってやってきて、瑞季はぶるりと肩を震わせると肘から下を抱えるようにひと撫でする。生暖かい陽気に満ちていた昼間とは打って変わって、急に気温が低くなる様子はまるで初夏の夜を思い起こさせた。彼女は「なにか羽織るものも必要になるかもしれないな」と、頭の中のメモ帳に書き加えようとした。
そのとき、カタンという音に瑞季は視線を上げる。
見ると、魔導器の薄ぼんやりとした灯りとともに正面にあった扉が開き、そこからひょっこりと顔を出して、マルコが「お待たせ」と言った。
足を踏み入れた途端、つんとした消毒液の香りに包まれた。招かれた部屋の中は狭くこぢんまりとしていて、二人も入れば窮屈さを感じるようだ。
年代物の大きなキャビネット、分厚い古書の並んだ本棚。ベッドや机など家具は最小限に抑えられているが、全体的にどこか圧迫感のある印象を受ける。視界の端では入ってきたものとは別のドアが半開きのままにされていて、ひとつしかない格子窓の向こうに紺色の空と人々の行き交う影がぼんやりと見えた。
「好きにかけて。といっても、椅子は一脚ずつしかないんだけどね」
マルコは後ろ手に扉を閉めながらそう言って肩を竦めた。
「すまないね。長引いてしまって」
軽い調子だが、声にわずかに疲れが感じられる。普段、忙しそうにしていても顔色ひとつ変えないマルコだが、終業後ともなればさすがにくたびれた様子だった。
「いえ、わざわざお時間をとっていただきありがとうございま、す……」
瑞季は促されるまま丸椅子に腰を下ろそうとして——正面の光景に一瞬気をとられかけると、誤魔化し笑いを浮かべながらすぐに視線をそらした。見てはいけないものを見てしまったような気がする。気まずさから居住まいを正そうとしたそのとき、「ギィ」と重みに耐えかねたような甲高い音がすぐ下からして、彼女はぎょっとすると椅子の下をおそるおそる覗き込んだ。
びっくりした。腰を落ち着けた革張りの椅子は見るからに年季が入っており、すごい音こそしたがとくに壊してしまったわけではないようだった。座った主に「任せておけ」とばかりに返事をするその椅子に、マルコはすっかり慣れてしまっている様子で、「おんぼろですまないね」と瑞季へ苦笑気味に笑いかけた。
「せっかくだし、なにか飲むかい?」
「あー。いえ、おかまいなく」
「いいのいいの。さすがにちょっと休憩したくてね。……たしかこのあたりに来客用のが——」
マルコはそう言って二本の指で丸い眼鏡を押し上げると、部屋の隅にある大きなキャビネットの前まで来て扉を開き、おもむろに手を突っ込んだ。
物理的にも視覚的にもこの部屋を狭くしている原因であろうそのキャビネットは、背丈が天井近くまであり、上段と下段で分かれていて瑞季一人くらいならば余裕で入れそうな大きさをしている。
彼は踵を上げ、踏み台も使わずに長い腕を伸ばしながらなにかを探している様子だったが——ときおりガチャガチャと不穏な音が聞こえる——しばらくして、ようやく目的のものを見つけたようだ。
「ちょっと待ってて」と瑞季にひと声かけると、茶色い瓶のようなものを抱えもうひとつの扉の先へ姿を消し——なぜか十秒とたたないうちに戻ってきた。
「こんな時間だしコーヒーはまずいな。やっぱりココアにしよう」
「え? あ、コーヒーでもぜんぜん——」
「夜眠れなくなったら困るだろう? ココアでいいね」
「あ、はい。どうも」
マルコは瑞季を言いくるめると、ふたたび扉の奥へ引っ込んでいった。
——医者らしいというかなんというか。彼女はぽかんとして見送る。ややあって、向こうから鍋底を擦るかのような音がかすかに聞こえてきた。本当にわざわざあたためてくれているらしい。
この様子ではしばらく帰ってはこなさそうだ。瑞季は小さく息を吐くと、こっそりと辺りを観察してみることにした。
この街で生きることを受け入れたあの日から、体力をつける名目で何度か階下には下りたことがあるものの、瑞季が診察室に入るのは初めてのことである。マルコの手前驚かないようにしていたが——彼女はまじまじと机の上に視線を向けると、目を半分にした。
「——山だ……」
丸椅子が相槌を打つかのように、「ギィ」と返事をした。
目の前には異様な光景が広がっていた。分厚い本やら綴られた紙束の山——。それも一つや二つではなく、いくつもの山がまるで山脈を描くかのように絶妙なバランスで積まれている。なんだか積み上げる系のテーブルゲームみたいだ。
これまでの入院生活を通して、瑞季にとって院内はどこも清潔で整頓されている印象があったので、これにはシンプルに驚いた。それに見間違いでなければ、すでに閉じられたあの大きなキャビネットの中もひどく雑然としていたような……。
多忙を極めすぎていて片付ける暇もないのだろうか。律儀で真面目、一見すると十全十尾に見えるマルコにもこんな一面があるとは。やはり次々と患者がやってくる状況で整理整頓にまで気にかけるというのもなかなか難しいことなのかもしれない。「完璧そうに見えても人なのだな」。瑞季はマルコに親近感と、少しの同情を抱くのだった。
机の上には蓋が開いたままのインク瓶が残されていて、ペン先が魔導器の灯りを受けてらてらと光っているのが見える。無造作に放置された様子から、まるで直前までなにかを書いていたみたいだ、と彼女は思った。
カルテかなにかだろうか。興味に駆られて瑞季は膝を浮かしかける。
けれど、ふいにその目に見覚えのあるつづりが飛び込んできて、彼女は気まずげに視線をそらした。徐々に知っている単語が増えてきたとはいえ、自分の名が書かれた紙束をわざわざ盗み見しようとする趣味は瑞季にはない。
するとそんなとき、ふたつのマグカップを手にしたマルコが姿を現した。彼は、驚く瑞季に不思議そうな顔をしながらもカップを差し出すと、自身も古びた椅子に腰かける。
「冷めないうちにどうぞ」
「あ。す、すみません。わざわざありがとうございます」
「? いえいえ」
動揺しながらも受け取った分厚い陶器のマグカップは、じんわりとあたたかかった。鼻を近づけるとカカオの香りが鼻腔に広がり、促されて一口飲めば甘くとろけるようで心が躍る。それは瑞季の好みよりもずいぶん甘かったが、久方ぶりに口にした味に頬の内側が痛むようだった。
「おいしい……」
「それはよかった」
マルコも何度か息を吹きかけてから自分のマグカップに口をつけると、穏やかに尋ねた。
「彼女から聞いているよ。話があるんだって?」
「はい」
傾聴の姿勢を見せるマルコに、瑞季は湯気の立つカップを膝の上に落ち着け小さく頷く。
「そのお話をする前に、ひとつお詫びしたいことがあります——」
すると、彼女はそう言うやいなやガバリと頭を下げた。こんな自分でも受け入れてくれたことへの感謝と、自身が自暴自棄になっていた間、彼らにとった不遜な態度についてあらためて謝罪したかったからだ。
精神的に弱っていたとはいえ、どう考えてもまともではなかった。——彼女が平身低頭してそう言うと、マルコは驚いたようにぱちくりと瞬きをした。
すると、彼は思わずと言ったように声を漏らした。目尻をくしゃりとさせながら肩を震わせるマルコに、笑うほどのことだっただろうか、と瑞季は下から窺い見ながら当惑に小首を傾けた。
「あの……」
「あーいや、すまない。まさかそんなことを真面目に謝られるとは思っていなかったから、ついね。顔を上げなさい。ぼくらはまったく気にしていないよ。ほら、知ってのとおり元気のいい♀ウ者の扱いにはそれなりに心得もあるし、ぼくらも慣れてる。ああいうのに比べたら、少し素っ気ない≠ュらい、どうってことはないさ」
マルコは肩を竦めた。瑞季の脳裏に女性や患者たちの喧嘩じみた声がよみがえる。たしかに病院にしては少々騒がしすぎる、と思わないでもないが。
「いや、でも……」
なおも言葉を濁す瑞季に、彼は諭すように笑いかけた。
「頭に栄養がいっていない状態で考えるものなんて、いつだって悲観的なものさ。あんな状況ならなおのことね。——それに今は違うんだろう?」
そう問うマルコの眼差しはまるでフクロウのようだった。丸眼鏡の奥でひた、とこちらを見据える視線は穏やかで、それでいて抜け目がない。観察者の目——完敗である。瑞季は息を吐き出し、小さく何度も頷いて苦笑を漏らした。否定する理由がどこにもなかった。マルコは彼女がその問いを肯定したと受け取ると、「じゃあ、この話は終わり」と言って大袈裟に手を上げ、話題の中心をこれからのことに移した。
「退院してからどうするのかは、もう決まっているのかい?」
「いえ。まだぜんぜん。ただ、できることならすぐにでも働きたいと思っています。それで、今後のことも含めて先生のご意見もおうかがいしたくて」
「いいと思うよ。食事もしっかりとれているみたいだし、歩行のほうも問題なさそうだ。さいわい仕事は選ばなければいくらでもあるからね。体力さえつければ、きみのような境遇でも十分にやっていけると思う」
「本当ですか?」
マルコはにっこりと笑った。そして両指を組み、彼女に言い聞かせるように言う。
「あとは、くれぐれも焦らないことだ。無理をしてベッドに逆戻りでは本末転倒だからね」
瑞季は素直に頷くことにした。
「気をつけます」
彼は瑞季の返答に満足したようだ。——しかしふと、なにかを思い出したようにマルコはおもむろに丸い眼鏡のブリッジを押し上げると、さりげない声色で瑞季に問いかける。
「もしぼくが、きみの身に起きたことについて話がしたいと言ったら、どうする? もちろん、聞きたくなければそれでもいいよ」
瑞季はぴくりと片眉を上げた。
声色は優しい。しかし、マルコの目は真剣そのもので、表情は医者然としている。おそらく話とは、先ほど目にした「あの紙束」に記されている内容そのものだろうと彼女は悟った。ネタ晴らしの機会がこうも早くやってくるとは考えておらず、瑞季はわずかに目を泳がせる。
さいわい、マルコの気遣いによって逃げ道は用意されている。覚悟がなければ「聞かない」という選択肢もあるということに彼女は気づいていた。瑞季は手元のマグカップに視線を落とした。マルコの髪の色と同じココアブラウンが、被膜を作りゆっくりと渦を巻いているのが見える。
あまり時間がかからないうちに、彼女の視線は吸い寄せられるようにマルコへと向けられた。
「お願いします」
マルコは驚いたように瞬かせると、ゆっくりと目を細めた。
(2024.11.26)
最終加筆修正(2025.05.29)
[♥拍手]