14

 すん、と瑞季の鼻孔を消毒液とラベンダーの香りが撫でるように掠めていく。手を合わせ、まるで秘めごとを話すかのように背中を丸めながら、マルコは静かに話し始めた。

「結論から言おう。今回の件——ぼくはエアル≠ェ関係しているのではないかと考えている」
「エアル——?」

 瑞季はきょとんとした。〈エアル〉。どこかのタイミングで耳にしたはずだ。
 頭の中の引き出しを探りながら彼女は無意識に彼の背後にある窓の外へと目を向けた。白く光る環が、上階で見上げたときと変わらない大きさで回っているのが見えた。

「聞いたことがあったかな?」
「はい、一度だけですけど。たしかハリーが魔導器について話しているときだったと思います。内容はなんだったか……」
「子どもでもわかることといったら、そうだな。シンプルに『魔導器はエアルで動いている』、とかそんな感じかな?」
「! 多分そんな感じだったと思います。……ただ、お恥ずかしながらそのときはよく話を聞いていなくて。お手数ですが詳しく教えていただいてもいいですか?」

 マルコは気まずげな瑞季の頼みを快諾すると、本の隙間に挟んであった適当な紙を引っ張り出してきてカリカリと文字のようなものを書いた。直線的な筆跡は、以前目にしたような走り書きとは違い丁寧で、文字の読めない瑞季にもわかりやすく配慮されているのがわかる。
 彼はペンの背でそれをなぞりながらこう書くのだと示すと、エアルと書かれた紙をそのまま彼女へ差し出して言った。

「〈エアル〉とは、この世界〈テルカ・リュミレース〉が生まれたときに発生したとされる余剰エネルギーの総称だよ。その影響はすべての物質に及ぶとまで言われているね」

 インクがじわりとにじんで文字の縁がぼんやりとしていくのを目に収めながら、彼女はぽつりと呟いた。

「すべての物質って、かなり幅広いんですね」
「そうだね。動物や植物、土壌から河川、海……つまり、まあだいたいのものがエアルを含んでいると思ってもらっていい」
「水とか空気みたいなもの、ということでしょうか?」

 マルコは、彼女の問いに興味深そうに眼鏡のブリッジを押し上げた。

「近いが、少し違うかな。環境によって濃淡があるという点ではたしかに共通するところがあるかもしれない。けどこの場合、エアルが水や空気と大きく違うところは、物質への影響の深さ≠セろうね。ミズキにもわかりやすく例えるなら——〈ケーブ・モック大森林〉。きみが倒れていたあの森≠ェ挙げられるかな」
「森、ですか?」
「実は古い文献の中に、あそこはごく普通の森だったという記述が残っているんだ」

 瑞季は目を丸くした。

「——え? でもあそこは……」
「そう。きみも見たとおり矛盾しているんだよね。もちろんこれには理由があって、過去に行われた調査で、あの森の土壌には通常よりも多くのエアルが含まれていることがわかっているんだ。このことから、森に棲む動植物たちの異常繁殖の原因は長い間多くのエアルに晒されたことによる突然変異の可能性が高い、と考えられている」
「突然変異……」

 教科書みたいに簡潔なマルコの説明を瑞季は冷静に咀嚼しようとした。ほの明るく光るキノコや、巨大な虫たち、背よりも太い根——子どもが描いた絵のように不可思議な光景の数々。
 森ひとつ分を変貌させてしまうエアルという力の影響力に彼女は空恐ろしいものを感じ、カップに残っていたものをひと息で飲み干した。底に沈んだ甘さがじんと刺すように喉奥を刺激する。

「それって……人≠ノも影響があったりしますか」

 そもそもそれほどの影響が出るなら、同じく動物である人間はどうなるのだろう。彼女は素直に聞いてみることにした。

「そうだな……」

 するとマルコは片頬だけを動かし、言葉を濁した。抑えたようなテノールが、途端に苦みを帯びたのが彼女の耳にもわかった。

「もちろんすべてが解明されているわけではないけど、実際のところ高すぎるエアルは人間の身体にも悪影響を及ぼすと言われているね。エアルが目に見えないというのもまた厄介で、はじめのうちは疲れるくらいで済むが、重症化すれば幻覚を見たり、最悪の場合だと生命の危機に瀕してしまうこともまれにある」
「対処法はないんですか?」
「できることは少ない。しいて挙げたとしても、自然に排出ができるようその場から離して安静にさせるくらいだろうね」

「本当に、手遅れになる前でよかった」、彼が心底ほっとしたようにそう言うので、瑞季は苦笑いを返すしかなかった。魔物の餌食になる以上のことはないと当時は考えていたが、かなり差し迫って危険な状況だったことを知ると、あらためてぞっとする話である。
 マルコは続ける。

「これは憶測だけど——ミズキは森の中で許容以上のエアルを体内に取り込みすぎてしまった可能性がある。記憶を失っている以上はっきりとした状況はわからないけど、たとえばミズキが何らかの理由でその場に留まり続けたり、気づかないうちにエアルの濃度が高いところへ足を踏み入れたりすれば、その影響で熱が出たり意識がもうろうとしたとしてもおかしくはないからね」

「それに——」。すると、マルコはそう言いながら机の引き出しの中から一本の小瓶を取り出した。口をコルクで閉じられた細身の瓶には鮮やかな薄いブルーの液体が入っていて、まるで香水瓶のような見た目をしている。瑞季は不思議そうに首を傾げた。

「これはあの日、きみが口にした薬と同じものだ」

 ふいに彼女の頬が硬直した。

「え……」
「ハリーが、『薬を飲ませた直後、ミズキの容態が悪化した』と言っていたことは知っているね?」

 少年の青ざめた顔が頭をよぎる。瑞季は少し考えて、訝しげに頷いた。

「……はい。本人からも聞いています。『おまえが死にかけたのはオレのせいだ』、って。そんなことはないと何度も言って一応納得してもらえたんですが、彼なりに確証があって発した言葉のように感じて、少し気になってはいました」
「実はぼくもそれがずっとひっかかっていてね。空の容器を調べさせてもらったけど毒物のようなものが含まれていた形跡もなかったし、念のため道具屋に問い合わせてみることにしたんだ。——結果から言うと、この霊薬にはあの森に出現する魔物の体液を精製したものが使われていたことがわかった」
「魔物、ですか」

 彼女の顔に困惑の色が浮かんだのを見て、マルコがさっと片手を上げた。

「補足しておくと、そういう製法の薬自体珍しいものではないし、本来であれば重傷を負った人間の怪我を、ある程度まで回復させてしまうほどの高い効果があるものだよ。ハリーもそれがわかっていてこの薬を頼ったはずだ」
「? 薬の製法自体に異常がなかったとすると、他になにか問題になることがあったということですか?」
「ああ。今回の一件は、ふたつの要因が不運にも噛み合ってしまった結果だとぼくは考えている。ひとつはさっき話したとおり、ミズキの身体が許容を超えたエアルを取り込んでしまっていたこと。そしてもうひとつは——この薬に大量のエアルが含まれていたことだ」

 瑞季ははっとした。

「……そっか。エアルに晒されているのはなにも動植物だけじゃない」
「そのとおり。魔物は、ぼくら人間以上に頑丈だ。つまり長い年月をかけてエアルを体内に蓄えるなんて芸当もありえないことじゃない。道具屋によれば、その魔導樹脂という合成物は魔物がもつ魔法の力をより高めたもので、元になる素材よりも高い純度のエアルを含むと言っていた。飲めば代謝が上がり、普通の人間ならば即座に高い治療の効果が出てくるわけだが、もともと悪影響が出るほどのエアルを取り込んでいたミズキの身体にとっては……言葉を選ばずに言うなら、そうだな」

 マルコはふいに出かかった言葉をぐっと飲み込み、適した言葉を探しているようだった。瑞季はそれを見て、彼が何を言いたかったかを察し、ぽつりと呟く。

「薬は毒にもなりえる、と?」

 彼は否定しなかった。
 ——なるほど、繋がってきた。瑞季は唇の下に指の甲を押し当てて熟考する。彼の言うとおりエアルが目に見えないというのは厄介だと思った。自分がどれほど体内に取り込んでいるのかまったく自覚ができていなかったからだ。許容オーバーした身体は膨らみきった風船のように破裂寸前だった。対処法はなく、それこそ空気が抜けるまでただ待つ必要があった。
 そういえば、すべての物質はエアルの影響を受けているとさっきマルコが言ってはいなかっただろうか。

「……あ。もしかして、はじめのうち水や食べ物が合わなかったのは、それらが少なからずエアルを含んでいたから?」

 エアル、と書かれた紙を見下ろしながら思わず考えを口にする瑞季へ、マルコは首を縦に振って「断言はできないが、過剰に反応してしまっていた可能性はある」と言った。

「あの、ずっと気になっていたことがあるんですけど、聞いてもいいでしょうか?」
「もちろん」
「先生が私に治癒術を使わなかったのは、もしかしてこの件があったからですか?」

 マルコはその問いが予想できていたのか驚いた様子もなく、すぐに頷いた。

「きみが森で発見されたと聞いた時点で、原因はさておきエアルの影響が否定できなかったからね。そもそもの話、治癒術を使うためにはこの〈武醒魔導器(ボーディブラスティア)〉というものが必要になってくるんだけど、これも一般的な魔導器と同じでエアルを動力にしているものだから、きみの場合どう転ぶか予想がつかなかった。さいわい頭も含めて外傷はそれほどひどくなかったから、自然治癒に任せながら原因を探っていくことにしたんだ」

 マルコはそう言いながら白衣の袖を捲ると、ちょうど腕時計を着ける位置に金属製の腕輪があった。腕輪には派手な色をした宝石のような装飾がついており、鈍く光りながら静かに瑞季とマルコを映している。

「魔物の攻撃による衰弱を疑ってかぎりなく希釈した点滴を投与したり、特定の食べ物が体質的に合わない可能性を考慮して変えてみたりね。まあ色々調べてみてこの結論に落ち着いたといったところだ。ミズキも混乱していたし、ぼくもだいたいの考えがまとまるまでは伏せておいたほうがいいと思ったんだけど、かえって不安を抱かせてしまったならすまなかったね」
「あっ、いえ。不安というほどでは。私もなにか理由があるんだろうなということは、わかっていましたから」

 瑞季はすとんと腑に落ちた気がした。魔導器もまたエアルの影響を受けている。彼は頑なに治癒術を使わなかったのではなく、「使えなかった」のだろう。合わない点滴、朦朧とする意識。猛烈な吐き気。すべての事柄が、エアルという存在によって収束していく。長らく疑問に思っていたことの真相がわかって、瑞季は胸につかえていたものが少しだけすっきりとしたような気がした。
 もちろん、そもそもどうしてあんな場所で眠っていたのかなど自分にはまだたくさんの謎は残っている。が、今は置いておくことにした。正直に話せば、人のいいマルコはきっと付き合ってくれるだろう。けれど、世話になった彼をこれ以上面倒ごとに巻き込んでしまうのはできれば避けたかった。

(そんなことよりも気になったのは——)

「あの。この話って、ハリーには……」

 瑞季はマルコの反応を窺うように問いかけた。すると、マルコはゆっくりと首を横に振った。

「安心していい。今回の件について詳細を知っているのは今のところぼくだけだ。……ハリーが自分のしたことに責任を感じていることはわかっていたからね。けれど医術に携わるものの立場として言えることがあるとするなら、どのような結果になろうとも善行は褒められるべきこそすれ否定されるものではないと、ぼくは考えている。——きみと同じようにね」

 驚いた表情を浮かべる瑞季に、マルコは目尻の皺を深くした。


 それからマルコは、退院後もなにかあればなるべく自身の診療所を訪ねるよう瑞季に指示した。マルコの見立てでは、体内に残ったエアルは代謝によって減少し、すでに治癒術を受けても問題はないだろうということだったが、きちんとした検査をしていない以上は万が一ということもある。瑞季がエアルに耐性がない可能性も考慮するとして、今後も観察を続けたいとのことだった。
 それについては瑞季も異論はなかった。自身の事情をもっともよく知るマルコにこれからもお世話になれるというのであれば、瑞季にとっても願ってもないことである。希望があればアスピオという街で頭の検査を、という提案には謹んで辞退させてもらうことにしたが。

「もうこんな時間か。ずいぶん長く話し込んでしまったなあ」

 見たところ診察室には時計がない。しかし、不思議と彼はだいたいの時刻に見当がついているようだった。
 マルコは窓の外を見てそう零しながら、のんびりと机の上に広げていたものを片付けはじめている。——といっても、山の上にさらに物を追加しただけでお世辞にも片付いているとは言えなかったが。「どうしてこの部屋だけこんなに汚いんですか?」、ふいに出かかった疑問はなんとか頭の奥に押し込めた。

「じゃあ、今日はこんなところかな」
「あの、先生。最後にもうひとつだけ——」

 すると、瑞季はさっと手を上げた。

「うん?」

 彼女は持て余した空のカップを見下ろすと小さく息を整えた。一見すると問題は解決したかのように思われる。しかし、話さなければならないことが「もうひとつだけ」残っていることに瑞季は気がついていた。——ここまで話題が出ないとなれば、マルコはやはり忘れてしまっているのだろう。
 瑞季は意を決して口を開く。

「その、私の治療費のことについてなんですが——」

 気後れしながらも彼女が告げた内容は、未払いの治療費の件だ。文無しの瑞季にとって、これだけよくしてくれた白衣の神様のようなひとにこんなことを話すのは心苦しいものがあったが、背に腹は代えられない。

(なんとか待ってくれればいいけど……)

 額に噴き出したいやな汗を拭い、せめてお願いをするときくらいは人の顔を見て話さねばと思って視線を上げると
 ——意外なことに、マルコは目を丸くしていた。

「あれ。言っていなかったっけ?」
「え?」
「治療費なら、初日にドン≠ェ立て替えてくれたよ?」
「——へ?」

(2024.11.26)
最終加筆修正(2025.05.29)

スキット // 14−1「博識の理由」

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