彼らは中心部にいた住人たちとは様子が異なり、いかにも武闘家といったいでたちをしていて、瑞季がその異様な光景を物珍しそうに眺めていると、ハリーが歩調を緩め彼女に「ギルドの連中だ」とぼそりと耳打ちをした。
五つの旗が風を受け穏やかにたなびいている。瑞季はゆっくりと立ち止まって顎を上げた。無骨で頑丈そうな建物がそびえたっていた。暗褐色のその建物は視界いっぱいに横たわる結界魔導器を支えるかのように鎮座しており、まるで塔のような見た目をしている。
(あれが、ユニオン本部——)
瑞季はざわつく心音を落ち着けようと小さく息を吐き出し、ポケットの中で重たげに主張している革袋の存在を確かめた。触れれば「ちゃり」、と鈍い音がした。
——ドン。大首領(ドン)ホワイトホース。
あらゆるギルドを束ねる、名うての重鎮。
そのひとに、私は知らぬ間に借金をしていたらしい。
『少しは素直になんな! そんなこと言って、もしこの子に何かあったら、後悔するのはあんたなんだよ! そしたらドンになんて言うつもりだい?』
『どうしてそこでじいさんの話が出てくるんだよ……!』
——まさかこんなところに繋がるとは思うまい。
ひくり、と口の端を震わせる。瑞季は、女性がどうしてあんなことを言ったのかようやくわかったような気がした。彼女がその名をわざわざ挙げて少年を叱ったのは、このことをあらかじめ知っていたからだ。
なにかの行き違いが起きたか、はたまたマルコが単に伝え忘れてしまったのかはわからないが——とにかくドンは、瑞季が運ばれたその日のうちに、彼女にかわってまとまった額をマルコへあらかじめ払ってくれていたのだという。
出がけにマルコから預かった革袋には、その治療費の残りが入っていた。道中すられやしないかとひやひやしていたが、歩き慣れていない自分の手元にもまだ無事にあるところをみると、街の治安はそこまで悪いものではないのかもしれないと彼女は思った。
——あのあと、金を出したのが他でもないドンという人物だったことを知り、その衝撃で瑞季は白ちゃけた顔をしてぶるぶると震えることになる。のんべんだらりとした日々を送ってきたが、つまるところその間、自分はドンを待たせ続けていたことになるのではないか。その事実に気づいたとき、彼女はおおいに慌てた。
けれど一方で、それを告げたマルコのほうはというと、のほほんとした調子でまったく問題とも思っていない様子であった。
彼の言い分はこうだ。
『そもそもミズキのことを本当に見限ったのだとしたら、大事な孫であるハリーをそばに寄こすはずないだろう? まだチャンスはあるよ。それに、ぼくが知るかぎり、あのひとは一度の失敗で切り捨てるような心の狭いひとじゃないからね。きちんと話しをすれば、きっと聞いてくれるさ』
説得力のある人好きする笑みは、相変わらず有無を言わせてくれそうになかった。
(——きちんと話をすれば、か……)
「はぁ……」
上空を茜色の薄雲が漂っている。瑞季は汗ばんだ手でずっしりと重たい革袋を奥のほうに押し込めると、深く息を吐いた。
マルコの助言で一度は頷いた瑞季だったが、まったく不安がないわけではなかった。
なにせ相手は顔を見ずとも自分に生きる気がないと見抜いてしまったひとである。
瑞季がいつまでも姿を見せないことに不信感を抱いていたとしたら? いい加減にしろと怒られるばかりか、下手をすれば街の外へ放り出されてしまいそうな気すら彼女はしていた。
少年から聞いたドンという男が、まさに血気盛んで厳格といった人物であるというのも、不安に拍車をかけていた。床板をぶち抜くなんて話がまさにそうだ。まさかボコボコにされるなんてことはないと思いたいが——自分とはあきらかにかけ離れた人物像に、蓋を開けてみなければどうなるか彼女には予想がつかなかったのである。
「行くって意気込んでたわりにはしけたツラしてんな」
瑞季の呼吸にしては大きすぎるため息に、半歩前で同じように立ち止まっていたハリーが呆れたように言った。
「おまえがじいさんに話しをつけに行くって言うから、わざわざ案内してやったんだぞ」
どうやら一部始終を見られていたらしい。
瑞季はきょとんとして少年の言葉を聞くと、目を半分にして力なく言った。
「きみこそ、似たような顔してますけどね」
ユニオンの全貌があきらかになるにつれ、少年がそわそわと鼻の頭に触れる回数が多くなっていったことに瑞季も気づいている。ぼそっと言った嫌味はその耳にしっかりと届いていたようだ。ハリーはまさか言い返されるとは思っていなかったのだろう。意表を突かれたような顔をしてぐっと言葉を詰まらせ、ばつが悪げに目をそらした。
「うるせえ。……仕方ないだろ。こんなことになるとは思わなかったんだよ」
瑞季はこっそりと肩を竦めた。
——ハリーもまた、ドンが治療費を立て替えたことを知らなかった人間の一人である。
けれど少年は、瑞季がまさか退院早々にドンのところへ行きたいなんて言い出すとは思っていなかったようだ。診療所へ迎えにきた彼にユニオンまでの道案内を頼むと、それはひどく驚かれたのだった。
そして、この気まずげな表情は、あの雨の日に、少年が自身の祖父に対して意見をしたことに起因していると彼女は見当をつけていた。家には帰っているようだが、この様子ではろくに話しもできていないらしい。親に反抗したはいいがどうしていいかわからないといった具合で、その語気は心もとない。
「だいたい先生もそうならそうと早く言ってくれりゃあよかったのに」
ハリーのぼやきともとれる言葉に、瑞季は苦笑をこぼした。
「マルコ先生を責められないよ。元はといえば私がいつまでもうじうじしてたのが悪いわけだし」
「それはまあ、そうか」
「少しは否定してくれたっていいのでは」
「だって事実だろ」
小さく膨らませた頬に、なにを言っているんだという少年の冷ややかな視線が刺さる。瑞季は、打てば響くその小気味いいやりとりに小さく噴き出し、からからと笑った。
「まあ実際、ドンには助けてもらったわけだし、遅かれ早かれお礼に行かなきゃと思ってたからちょうどいい機会だったかもね」
頭の後ろで両手を組みながら、ハリーがちらりと彼女を見た。
「そんなに慌てて謝りに行かなくたって、じいさんは怒ったりしねえと思うけどな。それこそ知らなかったんだから仕方なくないか?」
「まあね」
「だろ?」
「んー」
軽風が頬を撫でる。瑞季は曖昧に笑った。
「でも、こればっかりは後回しにしていてもしょうがないと思うからさ」
さほど長く社会に身を置いていたわけではないが、元の世界ではこういった金の問題は初動が命というのが常識だ。ましてや今回は、こちらの都合で相手を待たせている状況である。瑞季はこれ以上、この件を先延ばしにすべきではないと考えていた。
たしかにマルコやハリーのいうことを信じるなら、ドンはこの件を些細なことと捉えるかもしれない。しかし、実際にドンがどう思うかと、瑞季が彼に対して行った不義理にどう始末をつけるかは、切り離して考えなければならなかった。
もう充分に待ってもらったのだ。いい加減、腹をくくろう。それが、退院までのこの数日間、頭を悩ませた末に彼女が出した結論である。
瑞季は目を細めて朗らかに微笑んだ。
「大丈夫。一人でなんとかするよ」
——ダメだったなら、そのときはそのときだ。
ごちゃごちゃ言っていたらかえって頭がすっきりした。瑞季はへその下に力を入れ、石畳を踏みしめた。まずは早いうちにアポをとって、ドンに会う約束を取りつけなくてはならない。ハリーを頼るという手もあるにはあるが、本人が望んでいない以上、無理強いはしたくなかった。少年がドンに顔を合わせづらい気持ちもよくわかるからだ。瑞季は振り返る。
「連れてきてくれてありがとう。それじゃあ——」
すると、少年が勢いよく彼女を追い越していった。
風になびく金糸が、西日を受けてきらきらと光っている。
「いい。オレも行く。——面倒みるって言ったのは、オレだからな」
*
「ちょっと待ってろ」
そう言うと、ハリーはそそくさとユニオン本部の門前に立つ、武装をした男のもとへ話しに行ってしまっていた。
おそらく見張りかなにかなのだろう。相手は年若い男だった。瑞季の位置からは二人がどんな会話をしているのかは聞こえなかったが、青年のハリーを見る目に警戒というものはなく、文字通り気安い関係なのが見てわかる。
瑞季は彼らが話しを終えるのを、人通りの邪魔にならぬよう道の端に寄って待っていた。腹を決めた様子で青年と話すハリーの横顔に、一人目を細める。まさか少年が自分からついてくるとは思わなかった。無理をさせていなければいいけれど、と彼女はそっと目を移した。
先ほど入っていった一団のほかにも、ユニオンには多くのギルド員たちがひっきりなしに出入りしているようだった。慌ただしく出ていったギルド員の男を目で追いながら、さながら役所のようだと瑞季は思う。そもそもユニオンとはなにをする場所なのだろう。彼女は、あとで少年に聞いてみることにした。
すると、瑞季の背後で、見張りの青年が彼女をちらりと一瞥し、少年になにごとかを耳打ちした。次の瞬間に「はあ!?」という甲高い声が彼女の耳にも届く。慌てて顔を向けると、少年が目を三角にしてなにやら怒っているのが見えた。
喧嘩——ではなさそうだ。青年がにやけ顔をしながら、ムキになるハリーの髪をわしゃわしゃとかき混ぜているのが見える。まるでじゃれ合うような二人のその様子に、彼女は肩の力を抜いた。そして、おおかたハリーは、青年になにかからかわれたのだろうなと、なんとなく察してしまうのだった。
「だから違うっつってんのに……」
少しして、瑞季のもとに不満げな表情をした少年が戻ってきた。
珍しく頬を膨らませるハリーに、仲間の前では存外子どもらしい姿を見せるのだな、と彼女は生あたたかい目で見やる。少年はそんな瑞季の視線に気がつくと、「えへんっ」と小さく咳払いして気まずそうに鼻の頭を掻いた。
「とっとと中に入ろうぜ。客が来てるからまともに会えるかどうかはわかんねえけど、待ってたらそれこそ日が暮れちまうからな」
すると、にやにやしかけていた瑞季は少年の言葉にぽかんと口を開けた。
「へ? これだけ? ユニオン本部ってギルドの重要拠点なんでしょ。検問とか手荷物検査とかがあるんじゃあ——」
なにせ首領がいるのだ。たしかに見張りの青年や、建物の中を出入りする面々の様子を見ても、書類審査のようなものをマメにやっているとはさすがに思わなかったが、まさか素通りというわけにはいくまいと瑞季は覚悟していたのである。
「ああ? そんなのねえよ」
しかし、彼女の予想に反して少年の反応はあっさりとしていた。
「部外者が勝手に入ってもいいの?」
「ああ。うちはそこまで厳しくねえんだ。それに——」
「それに?」
「もし誰かが急に暴れだしても、じいさんがあっと言う間にすり潰しちまうんだよ……見張りもいらねえんじゃねえかって言ってるのに今さら必要ねえだろ。そんなの」
「……さいですか」
(そんな防犯システムで本当に大丈夫なのか、ユニオン本部)
力なく遠い目をして言い放った少年に、冗談のような話だと瑞季は引き攣った笑みを押し込めるのだった。
驚くべきことに少年の言ったとおりにことは進んだ。ずさんなセキュリティに部外者の自分が心配になるほど、門番はすんなりと瑞季たちを通してしまったのである。
正面の大扉を二人で力いっぱい押して開くと、これまた広い玄関ホールが現れた。
ユニオンはなにもかもが大きい、という印象を抱いた。巨大なホールの中央に火が焚かれ、天井近くには外と同じように数種類の旗が掲げられている。甲冑、ごつごつとした石壁。無骨で荒々しい、まさにダングレストという街に似合う集会所といった雰囲気で、集まったギルド員たちの話し声がざわざわと騒がしかった。
「さっきからあちこちで見るけど、あれは?」
彼らの間を縫うように歩きながら、瑞季は頭上に垂れ下がる旗を指して少年に尋ねる。
「〈五大ギルド〉のシンボルマークだよ。あの輪っかのたくさんあるやつがユニオンでそのまわりが——」
「五大ギルドって何?」
「人の話は最後まで聞けよな!」
ぶつくれる少年をなだめてやっと教えてくれたのだが、五大ギルドとは〈幸福の市場〉〈魂の鉄槌〉、〈紅の絆傭兵団〉、〈遺構の門〉——そして、ギルド〈天を射る矢〉のことをいうらしい。
ユニオンとは、この主力となる五つのギルドが星の数ほどあるギルドを束ね、まだ力のないギルドへ足掛かりとなる仕事を斡旋したり、ギルド間のいざこざを取り持ったりする、いわゆる「調整役」というものなのだと少年は言った。
そしてその中心となり、発言に最上級の力を持つのが、これから会おうとしているドンという男のようだ。
ドンやハリーの所属するギルド〈天を射る矢(アルトスク)〉は、ユニオンの中でもとくに大きな力を有しているギルドで、その名のとおり弓矢をシンボルにしていのだと隣で少年がどこか誇らしげに語っている。彼女はそれらの旗を見上げながら、聞いているととんでもないところに少年はいるのだな、とあらためて思うのだった。
「——あ」
そんなことを話していたら、ちょうど先の男たちが寄り集まって正面の部屋に入っていくところだったようだ。大扉が勢いよく閉じられ、それに気づいたハリーが隣で思わずといったように肩を落としている。
「おまえが余計なこと聞いてくるからタイミング逃したじゃねえか」
少年が恨めしげに言った。ホールにいる人間たちはみなどこかしらのギルドに所属していて、こうしてドンへの面会を待っているのだそうだ。この反応を見ると、どうやらあの部屋の中にドンがいるらしい。
「忙しそうだね」
「ああ。ユニオンの仕事は文字通り山ほどあるからな。まあいいや。前で待ってりゃあ隙を見て声くらいはかけられるだろうから、その間心≠フ準備でもしとけばいいさ」
「きみもね」
「うるせえ」
二人は、ドンの私室に近い柱の前でしばらく待つことにした。
瑞季たちの周囲では、すでにドンとの面会を終えたらしいギルドの男たちがああでもないこうでもないと話し合っていた。彼らの話しに、なにかヒントになるようなものはないかと耳を傾けながら、瑞季はドンを前にどのようなことを話すべきか考えていた。まあ、実際のところ話しをつけるといっても全力で謝るしかないのだが。
「——はあ。一時はどうなることかと思ったぜ」
「これで少しは懲りててほしいがね? まったく余計なことしやがって」
「へへ。でもまあ、なんとかなったんだからよかったじゃねえか」
「そりゃ奇跡的に今回はなんとかなったけどよ。あれだけドン相手にホラだけは吹くなって口酸っぱく言ってたのに、おまえときたら土壇場でアレはねえよ」
「でもよう、今回ばかりは仕方ねえよ。相手はドンだぞドン。あのひとを前にしたら誰だって頭んなか真っ白になっちまうって。なあ、わかるだろう?」
「そりゃ言いてえことはわからないわけじゃねえけどよ。いいか。なんべんも言ってるが、そもそもギルドってのは信用第一なんだ。話しに筋が通ってなくちゃならねえ。ドンにも同じこと言われたろう——」
(——?)
ふと、瑞季はなにかを感じてゆっくりと振り返った。
たむろするギルド員たちに混じって男が一人、ホールの左右に位置する扉を守るように立っているのが見えた。背が高く、角のようなものが二本生えた兜のようなものを被り、肉感のある太い腕で大きな剣を携えているその様は、はたから見てもなかなかに迫力がある。
その顔は兜によって隠されておりこちらからは表情もよく見えない。しかし、かすかに覗いた目がじっとこちらの様子を窺っているのが彼女にもわかった。はたと目が合う。
瑞季はぎょっとして後ずさりしようとする足を、その場に縫い留めておかなければならなかった。なんと次の瞬間、男は様子を見るばかりか、ギシギシと金属音を響かせながらこちらへ向かってきたのである。
「ハリー。ドンが先ほどまであなたを探していましたよ」
瑞季の前までやってきた見張りの男は、意外にもその粗暴そうな見た目とは裏腹に丁寧さのある口調をしていた。こもった声で突然話しを振られた少年は、一瞬ぎくりとして振り返ったが、男の話に素直に耳を傾けると不思議そうに首を捻る。
「じいさんが?」
「書簡≠ェどうの、と」
「……あー。あとで持ってくよ」
心当たりがあったのか、少年は呻くような声を出した。
仕事が入っていたのかもしれない。連れまわして悪いことをしただろうか、と彼女がわずかに申し訳なさを抱いていると、男が今度は瑞季に兜を向けた。瑞季はぴくりと跳ねる肩を抑え、「どうも」といかにも愛想がいい笑みを浮かべる。
「あなたは?」
すると、男の問いかけへ瑞季がなにか言う前に少年が一歩前に出た。どうやら代わりに話してくれようとしているらしい。
「知り合いだよ。記憶を失くして困ってたからちょっと前からオレが助けてやってる」
「記憶を?」
ハリーは、子ども心にこちらののっぴきならない事情に配慮してくれているのか、あまり多くを語ろうとはしなかった。
「あー。なんていうか、魔物に襲われたときに頭をぶつけたみたいで、今までのこととかまるっと忘れちまっててさ。事情があってじいさんに会わせたいんだ。べつに怪しいもんじゃねえよ」
すると、それを聞いた男がぼそりと呟く。
「……ドンに面会、ですか」
「もしかするとハリーを連れてきたのは悪手だったかもしれない」。彼女は咄嗟にそう思った。少年が「じいさん」とドンの名を口にしたそのとき、男の目がわずかに細められるのをたしかに目にしたからだ。
見上げるとまるで胡乱なものを見る目とかち合う。頭からつま先までを観察するような、かたい視線が瑞季を映していた。——「訝しんでいる」。瑞季は笑みを浮かべたままごくりと生唾を飲み込んだ。敵意、とまではいかないがあきらかに警戒心を抱いている。そんな目だった。
「とにかく話してたら長くなるんだよ。じいさんに会えばすぐにわかるから」
「ドンが忙しいのはあなたもわかるでしょう。こちらから要件を伝えるというのは?」
「だから直接会って話したいんだって」
「であればその事情というのを話してみなさい。必要だと判断できればきちんとお通ししますから」
少年が不満げに目を細めた。
「……いつもはすんなり通すじゃねえか。なんでこいつはだめなんだよ」
「それは」
見張りの男は返答に窮したようだ。ふいに言葉を濁し、「あなたのために言っているのです」と、困ったように言って視線をそらした。
「オレのためって、なんだよそれ」
「とにかく今は大人の言うことを聞きなさい。なにかあってからでは遅いんですから」
後ろでその様子を見ていた瑞季は、心の中でため息を吐いた。
戸惑い、疑心、警戒——そしてそれ以上に、少年への心配の色だろうか。さまざまな感情が兜の内側から読みとれ、その話しぶりからして男はなにも意地が悪くてそう言っているわけではないということが、彼女にも理解できた。
そして、男のその反応はいたって健全だと、瑞季は思う。彼の立場から見れば、仲間の少年が見知らぬ成人女性を連れてきたのだ。それも本人は「記憶がない」なんて嘘とも本当ともとれないことを言って。見え方によっては年端もいかない子どもがいい大人にたぶらかされているように感じてもおかしくはないかもしれない。
(困ったな)
ハリーは彼らにたいそう可愛がられているのだろうな、と思った。これが同性か、少年と同じくらいの年頃であったならばもう少し聞く耳をもってくれただろうに。
彼女はぐっと唇を噤むと小さく息を吐いた。気はすすまないが、こうも怪しまれては正直に身の上を話すほかない。
「あの——」
しかし、そうして瑞季が口を挟もうとする間にも、さすがに本人を目の前に「付きあいを見直せ」とは言いにくいのか、男がやんわりとハリーに今一度出直すよう説得を試みているところだった。一方ハリーはというと、男の反応を子ども扱いされた、と悪いように捉えてしまったようで、不機嫌さを隠しもせず隣で徐々にヒートアップしようとしているのがわかる。
次第に熱を帯びていく二人の様子に、このままでは収集がつかなくなりそうだ、と瑞季は頬を引き攣らせた。他のギルド員たちの何ごとかという視線もそろそろ無視できなくなってきたし、これ以上問題が大きくなる前に男の言うことに従ってここは一度撤退をすべきかもしれない。
しかし、こうなるとどう口を挟んだものか。頭を動かしながら、彼女は引き際を考えていた。
——そんなときだった。
「外で何をごちゃごちゃ話してやがる!?」
地響きのような音が瑞季の耳朶に響いた。
次の瞬間、ぎぃと大きな音をたてて、大の大人がきちんと体重をかけて開かなければならないほどの分厚く大きな扉が、まるで薄いカーテンを捲るみたいに開かれるのが彼女の目には映った。
ホールに残っていたギルド員たちの視線が一斉に正面へ集まる。
『とにかくすげえんだよ。……すっげぇでけえ。おまけに力も強くて、本気で殴られると床板が抜けたり、壁に穴が開いたりするんだ』
瑞季は驚きに瞼を大きく開いた。超大型の類人猿に似た白髪の毛むくじゃらの老人。さすがにちょっと「大げさすぎる」なんてあのときは思ったけれど——これは。
その「男」は、老人というにはあまりに若々しかった。しゃんと伸びた背筋。岩のように鍛え上げられた分厚い胸板。荒々しい顔の入れ墨。服装こそハリーとよく似ているがまるで違う印象を受ける。なぜならその目は、これまで出会った誰よりも「生気」に満ち溢れていた。
貼り付けた笑顔も忘れて、彼女の口がぽっかりと開く。
このひとがドンだ。瑞季は直感的にそう思った。
「じいさん」
「ばか野郎。ドンと言え。ああ? なんださっきからピーピーと。おめえの声はよく通るんだ。客が来てるときは静かにしろっていつも言ってるだろう」
老人がハリーに向かって小さな雷でも落ちたかのようにぴしゃりと叱りつけた。
話しを終えたギルド員たちが、ドンの後ろから出るタイミングを失ったのか奥の部屋でこちらを窺っている。老人が彼らに目配せをすると、ほっとしたように胸を撫で下ろしてぞろぞろと出てきた。
見張りの男がこもった声できまりが悪そうに口を挟んだ。
「ドン。その、先ほどハリーが女性を連れてきたんですが、記憶喪失だとかなんだとか少し妙なことを言っていまして、念のため話しを——」
「だからこいつは怪しいやつじゃねえんだって何回言ったらわかるんだよ!」
「あなたは黙っていなさい」
「なんでだよ! オレが連れて来たんだぞ!?」
「ああん?」
ドンは見張りの男に言われ、やっと瑞季の存在に気づいたようだ。
ハリーの後ろで小さくなっていた瑞季を上から下まで見すがめると、すぐに得心がいったように頷いた。
「おめえさんが例の≠ゥ」
「はっ、はい!」
鶴の一声で矢面に立たされた瑞季はぴんっと背筋を伸ばし、呼ばれるままに前へ出た。
「あ、えっと——」
けれど、彼女はそれ以上言葉を発することができなかった。
頭が真っ白になる。まるで心臓を掴まれているかのような圧迫感。恐怖——いや、これは毛色が異なるものだ。こちらを見下ろす老人には、大首領という肩書きがふさわしいほどに貫禄というものがあった。視線は目に入れるものを委縮させる「凄み」を感じさせ、余計なことをひとたび言おうとすれば舌を引っこ抜かれるのではないかと思わせるようなその剣幕に——小心者の瑞季の頬は、作り笑いも浮かべられずピクピクと痙攣を繰り返していたのである。
そのとき、瑞季の視界をくすんだ金色が埋め尽くした。
「ドン。こいつがミズキだ。挨拶してえって言うから連れてきた」
まだあどけなさの残る、凛とした声。
少年が庇うように彼女をその小さな背に隠していた。
ハリーは老人に対して一瞬ためらうような姿を見せたが、すぐに物怖じせずにそう言うと、そっと瑞季を振り返る。
「な? ミズキ、そうだろ?」
その目が、「しっかりしろ」と言っているように見えた。
「え、っと」
『——じいさんはすげえ人だよ』
なぜだか唐突に、黄昏色を背景に祖父を語る寂しげな眼差しを思い出した。
瑞季ははっとした。
「は、はい。ミズキと申します! ハリーくん≠ノは、平素よりほ、本当にお世話になっております! こ、このたびは助けてくださってなんとお礼を申し上げたらいいか」
「ハリーくん≠チて……」
少年の呆れ声がすぐそばで聞こえる。そのいつも通りの彼の声色が、なぜか彼女の気持ちをわずかばかり落ち着かせてくれた。
思考を停止しようとしていた頭を、ドン——その老人を「ギルドの長」としてではなく、「ハリーのおじいさん」として見るように切り替える。世話になっている人の肉親に対してとるべき態度とはどのようなものであるべきか、そのくらいならば動きの悪い頭でもわかった。
震えて上ずった声は情けない。しかし、次第に肩の力が抜け、彼女はいくらかまともな目でその山のような老人を見上げることができた。
「ひと月以上前のことです。私の治療費を立て替えてくださったと、先日マルコ先生からお聞きしました。知らなかったとはいえこれまで挨拶にうかがいもせず、たいへん不誠実であったと猛省しています。本当に申し訳ありませんでした。ほ、本日は、今後の返済についてお話しをさせていただきたくうかがいました。なにとぞお時間を頂戴できませんでしょうか」
失礼のないよう丁寧な口調でひと息にそう言ってから、瑞季は途端に動きを活発にする心臓の音を落ち着かせるように深く息を吐いた。そして口を一文字に結ぶと気を引き締め、老人の目を祈るように見つめる。
ドンはそんな瑞季をじっと見下ろすと、やがて扉の奥を指さした。
「せがれから聞いてるぜ。入りな」
(2025.02.28)
最終加筆修正(2025.05.29)
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