どういう理屈をしているかは知らないが、ここは日が登ってから落ちる間際まで「黄昏色」をしている奇妙な街だった。
 つねに西日の照りつける室内は蒸し暑く感じることもあり、いつもほんの少しだけ窓が開かれている。朝から木を打ちつけるような音が小さく響いていた。
 すると、湿気を含んだ風に乗ってほのかに臭気のある煙が漂ってきて瑞季は勢いよく咳き込んだ。虫よけかなにかなのだろう。どこかで嗅いだことのある匂いに反射的に飛び出した涙を拭いながら、彼女は呼吸とともに大きくため息を吐き出した。

 当たり前のように正常な呼吸を繰り返している肺がひどく気味の悪いものに思えてならなかった。胸元を開き何度覗き込んでも、赤い傷跡が消えることはない。まばらに広がった皮膚の盛り上がりは雨の日になると決まってしくしくと痛む。首のすぐ下にまであるせいで襟ぐりの深い服はもう二度と着られそうになかった。背中だってどうなっているか。
 ふいに訪れた陰鬱とした気持ちに節ばかりの天井を仰ぐ。身体がこのまま寝てしまえと言っているような気がして瑞季は素直に瞼を閉じた。泥のような眠気が訪れ、余計な思考を放棄させようとする。

 背の後ろの邪魔なクッションもどかさずにうつらうつらと舟を漕いでいたら、かたんという物音に意識を引き戻され、瑞季はわずかに顔を上げた。扉の向こうに、何者かの気配がする。

『しっかりおしよ』
『べ、べつに本当に顔を見にくるつもりじゃあ! だから押すなって!』

 薄い扉を隔てた向こう側から言い争っているような声が聞こえた。聞きなれた女性のくぐもった声と、そのほかにもソプラノとアルトの中間くらいの、少年か少女なのかを迷うような声も混じっている。どうやら誰かと外でなにやらひと悶着をしているらしい。

『じゃああんたはいったい何の用向きでこんなところまで来たんだい? 怪我でもしたって? それとも病気? とてもそうには見えないがねえ?』
『そ、それは……』
『先生は忙しいんだよ! あの患者の数を見たらわかるだろう? あたしだって仕事があるんだから、いつまでもあんたにかまっていられないんだよ。さあ入った入った!』

 威勢のいい声とともに扉が勢いよく開く。すると次の瞬間、大きな足音をたてて床板を軋ませながら、くすんだ金色が飛び込んできた。
 声の主は本当に子どもだったようだ。生成りのシャツと、黒と黄色い線の入った膝まであるベスト。腰にはベルトのようなものを巻き赤茶色のブーツを履いている。鼻の頭に一本通った赤い入れ墨、ないしは傷跡のようなものが目に入った。
 歳は十代前半といったところだろうか。髪の長さや服装から見て、おそらく男児だろう。少年というにふさわしいあどけなさの残る相貌をしている。

 少年は、目を丸くしている瑞季と目が合うと、その小さな身体を「ぴしり」と硬直させた。

「あ。いや……オレは」
「おや、起きていてよかったじゃないか。じゃ、あたしゃもう行くからね。帰るときは先生に一言声をかけるんだよ!」
「ちょっ! おい!」

 女性は腰に手を当て言い含めるようにそう言うと、少年の制止も聞かずにばたんっと勢いよく扉を閉めていった。
 やはり、嵐のようなひとだ。瑞季は呆気にとられながら少年を見やった。彼もまた部屋の隅のほうで信じられないような顔をして閉められてしまった扉と瑞季とを見比べている。そういえばマルコが以前、診療所に子どもが訪ねてきたと言っていたような気がした。彼、のことだろうか。

『今度来たら、会わせてもいいかな?』
『……お好きにどうぞ』


(私があんなことを言ってしまったせいかも)

 彼女は目を半分にした。おおかたあれを真に受けたマルコ経由で話がいき、女性に無理やり引きずってこられたに違いない。気の毒に。——瑞季はわずかばかりの忍びなさを覚えると、ベッドからのそのそと身を乗りだして丸椅子を下から引き寄せた。このまますぐに追い返すのも可哀想な気がしたし、落ち着いたらこっそり帰ってもらおう、と思ってのことだった。
 彼女が座るよう促すと、少年は目をぱちくりと瞬かせた。

「お、おう」

 騒ぎ立てていたわりに彼は思いのほか大人しくそこに座った。借りてきた猫みたいだ。
 小さな丸椅子にちょうどよく納まる様を見るに、やはりあまり大きくないように見える。声変わり前だと鑑みるに十二、三歳くらいだろうか。少年は居心地が悪そうにちらちらという視線だけ寄こして口を金魚のように開けたり閉じたりしている。

『そこの奥さん! ノードポリカ産の貝はいかがかな!』
『いらっしゃい! 今日も新鮮ないい野菜が入っているよ!』
『おーい! そこの下にある釘を持ってきてくれー!』

 外の活気のある店売りの声、リズムよく木槌を打ちつけるような音が瑞季の耳に子守歌のように届く。火照った身体に撫でるようなぬるい風が心地よくて、少年が何も話さないことをいいことに彼女はぼんやりと視線を宙に浮かべた。
 眠たくなるような気持ちの良い陽気だった。赤みがかった黄昏色は眠気を助長させ、徐々に靄のかかっていく思考に自分の頭がゆっくり、ゆっくりと重力に従って下がっていくのがわかる。
 こくりと舟を漕ぎ頭のてっぺんを背のクッションへ不安定に預けていると、ふいに少年のひどく焦ったような声が耳をさした。

「おい。具合が悪いのか? 先生を呼ぶか?」

 瑞季は「眠いだけ」と言ったつもりだったのに、実際にはずいぶんと間の抜けた声が出ただけだった。落ちかけた意識のなか薄目を開けてわずかに顔を上げると慌てる少年と目が合う。彼は瑞季の返答に少しの間だけ固まっていたが、しばらくすると気が抜けたように「おまえなぁ」と小さく漏らし、ため息を吐いて肩を竦めた。子どものわりに大人のような仕草をするなあと、彼女はのんきに思った。

「……はい」
「はぁ……いいよ、無理に返事しなくても」
「……」
「ああもう! そのまま寝るなよな!」

 少年の呆れたような声とともに背から勢いよくクッションが引き抜かれた。重力に従って崩れていく頭が、首の裏に差し込まれた手のひらによって支えられ、ゆっくりと枕の上に下ろされる。

「あっつ……。もしかして、まだ熱があるのか?」

 戸惑った少年の声が投げかけられた。

「……さぁ」
「さぁって……」

 おろおろとする彼の手によって薄い掛布団をずり上げられ、点滴の繋がった左腕を布団の上に引き出される。粗雑だが決して乱暴ではない。熱い自分の肌が少年の冷たい手によって冷やされひどく心地のよい感覚を覚える。瞼がいっそう重くなった。彼には悪いが、もうしばらくは開けられそうになかった。

 ——ふわふわとした意識が少年の輪郭を縁どる。稲穂のような金色を思わせるあたたかな光をしている。
 小気味いいリズム。気持ちのよい風。沈み込んでいく感覚。もはや抗う術はなかった。
 そうして瑞季の意識は、深い闇へと落ちていった。



 女の呼吸が変わった気がして、少年はおそるおそる彼女の顔を覗き込んだ。
 そろりと手を伸ばして色の悪い唇に触れぬように手をかざすと、わずかな呼吸を感じとる。目をやると、一番上までびっしりとボタンが閉められた薄手の入院着を着た彼女のなだらかなふくらみが、静かに上下しているのが見えた。

「——寝てる、んだよな?」

 すると、少年は確認するようにそう口にした。聞き耳をたてなければ聞こえぬほどに小さな、掠れ声だった。
 返事はなかった。しかし、意識のないその睫毛がぴくりとかすかに動いたのを目に入れると、少年は大きく息を吐きながらよろよろとその場にしゃがみこんだ。
 西日が、少年の影を濃くしている。
 膝をつき、首はうなだれるように俯く。その影は、まるで祈るような形をしている。

「ほんとうに、生きてた……っ」

 少年が、震える声でほっとしたように呟いた。




 日が傾き、ガラスの向こう側はすっかり夜の色に染まっていた。あたたかいスープが胃に沁みるようだ。瑞季が寝ぼけ眼でほうれん草のようなものが浮いたスープを素朴な木製のスプーンを使ってすすっていると、そばで女性がにこにこと機嫌よく彼女に尋ねた。

「結局、あの子なんて言ってたんだい?」
「さぁ……」

 瑞季の気の抜けた返事に女性が驚く。

「なんだい。まさかなんにも話さなかったのかい?」
「気がついたら、いなくなっていたので」

 女性が食事を持って瑞季を揺り起こしたときには、すでにこの部屋に少年の姿はなかった。
 ベッドのそばに残された丸椅子がなければ、彼がここに来たことすら夢だったのではないかと思うほどだ。頭のどこを探しても、少年とまともに話した記憶はない。
 味の薄いスープを飲み下すたびに胃が痙攣をおこすのか、ぎゅっと掴まれる感覚があって、瑞季はげんなりとした。吐き出さぬよう口を引き結んで、ごくりと酸味のある唾液を飲み込む。
 あらまあ。そう言って女性は、扉の向こうへ視線をやった。

「あの子、ずいぶんとミズキのことを心配してたんだよ。『ちゃんと生きてるのか』、『大丈夫なのか』ってね。だからひと目会えば、きっとあの子も納得すると思ったんだけど……そうかい。うちの息子の小さい頃にそっくりで、ついお節介を焼いちまったよ。思ったより恥ずかしがり屋さんだったんだねえ。悪いことをしたかしら」

 徐々に蒼い顔をしはじめた瑞季の背を慣れたように支え、女性はばつが悪そうに肩を竦めた。寒気のする身体を震わせながら彼女の言葉に思わず口元を歪める。よくよく思い出すとずいぶん失礼なことをしたような気がする。空の椅子を見下ろし、少年の慌てる様子を思い浮かべた。それにしても——。

「わざわざ心配なんて、しなくていいのに」

 瑞季は吐き捨てるように言った。こんなどこのものかもわからない人間を気にかけるだけ損だと思ったのだ。
 瑞季の背を撫でてやりながら、女性がそれを見てなにか言いたげな顔をした。彼女は小さく息を吐き、それから赤茶色の瞳を細めながら物憂げに笑う。

「————」

 ——しかし瑞季は、彼女が何を話したか、もうあまりよく覚えていなかった。急に朦朧としてくる頭とひどい冷や汗とせり上がるような感覚をやり過ごそうと考えていたら、そのうち話どころではなくなってしまったのだ。

(2023.03.01)
最終加筆修正(2025.05.29)

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