——夢を見ていた。寒くてたまらない夢。

 しんしんと降り積もる雪のなか、モールで飾られた紙の帽子を被りもこもこのコートを着た赤い顔の小さなちいさな「私」が、玄関の外の冷たい段差に座ってあのひとを待っている。
 あたりは暗く、向かいの家の窓から煌々とした灯りと、子どもたちが部屋を駆けまわる様子が視界に入ってきていた。膝に肘をつきながら、「カーテンでも閉めてくれればいいのに」と思う。それはあまり目に入れたくないほどに、「私」の気持ちをひどく沈めさせていた。
 すると、遠くからわずかに車のエンジン音がした気がした。「私」は期待を込めて立ち上がって、ここから出てはならないと言い聞かせられていた大きな門の前まで走り出る。今度こそあのひとが帰ってきたかもしれない、と。
 しかし、すぐにそうではないと気がついた。振り返ると、途中で振り落としたらしい紙の帽子がすっかり水を含んでしまっていた。「私」がおそるおそる触れると、それはくしゃりとひしゃげて、ただのごみになった。
 肩に積もった雪が融けコートの下にまで浸みてきて冷たい。一番分厚いのを選んだはずなのに。身体の芯から寒くて震えが止まらなくなっていた。爪先も、指先も、凍えるようなのになぜか熱くも感じる。

 どうして帰ってきてくれないの。今日は大切な日なのに。

 ごほっと一度咳が出て、気がついたら止まらなくなってうずくまる。

『熱があるのにどうして外に出たんだい?』

 すると、ガチャンという音がして家の中から慌てた彼女が飛び出してきた。抱きしめられ、頬を触られる。お皿を洗っていたのか、かさついたその手はすごくあたたかくて、ほっと息を吐いた。
「私」は、彼女に問いかけた。期待していたのだ。つとめて、いい子にしていたから。きっとこんな日くらいは帰ってきてくれるだろうと。

『どうして? わたしが、いい子にしてなかったから?』

 彼女はとても痛そうな顔をした。

『いい子だったよ。いい子すぎるくらいさ。ごめんね。ひとりにさせて。不安にさせてごめんね。大丈夫だよ。瑞季ちゃんのそばには、ずっと、ずうっとおばあちゃんがいるからね』

 彼女はそう言って「私」を抱きしめた。けれど「私」の頬には、つうと涙がこぼれていた。彼女のその言葉は、まるであのひとは今日も帰ってはこないのだと言っているみたいで。こみ上げる感情がなんなのか知らなかった。悲しくて、寂しくて、腹が立って——「私」は声をあげて泣いたのだった。

 抱き上げられあたたかなベッドに寝かされて、ぐずぐずとべそをかきながら泣き疲れて深い眠りに落ちるまで、彼女は「私」の手をとって背を撫でてくれた。夢うつつに目を覚ましても彼女が「私」の前からいなくなることはなかった。
 うっすらと瞼を開ける。常夜灯に照らされた彼女の皺だらけの手を、そっと引き寄せる。

 願いは、必ずしも叶うわけじゃない。「私」の特別は、あのひとにとっては特別じゃないのかもしれない。
 零れ落ちた涙を拭って横で眠りに落ちる彼女の胸元に頬をすり寄せた。
 ——でも、彼女がいるならば。
 彼女がいればそれだけでいいと、そのときはじめて思ったのだ。




「うん。傷の具合はだいぶいいね」

 古くなった包帯を剥がすと、マルコは大きく頷いた。
 人体とは不思議だ。あんなにひどい擦り傷だったのに。自由になった左腕を捻りながら、瑞季はまじまじとあらわになった傷を見つめた。
 森の中で走り回ったときにできたであろう葡萄色のかさぶたのある皮膚は、凹凸がありひどい見た目をしていたが化膿まではしておらず、子どもの頃よく膝小僧に作っていたものとそう変わりはないように見えた。触れるとまだわずかにぴりりと痛む。あんまり触らないようにね、とマルコに子どもを相手にするように釘を刺され、彼女は恥ずかしくなって汗ばむ手のひらを擦り合わせた。

 マルコの治癒術にはいまだお目にかかったことはなかった。その理由を聞いたことはない。けれど、彼が治癒術以外にもさまざまな医学的知識を有していたことが結果として功を奏していた。その多くは自然治癒力に頼る方法だったが、この様子であれば新しい包帯を巻く必要はないと言って彼は満足げに目尻の皺を深くしている。

「これでずいぶん軽くなっただろう?」
「そう、ですね」

 今や何もかかっていないキャスターだけが、がらんとした部屋の隅に残されていた。
 衰弱に効くという薬の入った点滴の袋は、瑞季には合わないと判断されたのか撤去され、頑丈なキャスターはすっかり彼女が用を足すための移動用としてしか使われなくなっている。
 ——気のせいかもしれないが、あの点滴がなくなってから、彼女は以前よりもまともな意識のなかで物を考えることができるようになった気がした。
 だが、深くは考えまいとしていた。魔物も魔法もある時点で想像の範疇をとうに超えている。どんなSFも作り話なら笑えるが身に降りかかるなら話は別だ。都合の悪いことは、考えないほうがいい。

マルコはカルテに目を通すと、首を動かして瑞季を左右から窺った。

「やっぱり少し痩せたね」
「そう、ですかね」

 頬に指を這わせる。頬骨が浮き出ている様子はないがたしかに手首なんかは前よりも細くなったような気がした。痩せた、なんて言われれば以前の自分ならば喜んだのに。
 瑞季は眉尻を下げた。彼女にとって熱を出すことよりも文字通り水が合わないことのほうがずっと問題だった。
 吐くことがいやになって食事を口にしないということを彼らは許してくれない。白湯のようなお粥を炊いたり、じゃがいもを蒸かして潰したり、消化のいい野菜を煮込んだりして女性は色々試行錯誤を繰り返してくれているが、結果が伴わない現実に言いようのないやるせなさを抱いていた。食べ物を無駄にしてはならないと子どもの頃から言い聞かせられてきたからだ。
 女性はもらいものの野菜で作ったものだから気にしないでと言うが、瑞季のなけなしの良心と信条がそれを許さずにいた。

「でも、はじめの頃よりずっといいよ。大丈夫。そんなに心配することないからね」

 表情を曇らせる彼女に、マルコはカルテを見せて目を覚ました日から三日ほどの記録をその場で読み上げてくれた。もし読めたとしてもあまり綺麗とはいいがたいのではないかと疑ってしまうような走り書きに近い文字だったが、そこには瑞季が何を食べ、何に反応しているかがきちんと書かれているようだった。たしかに、それを聞くと前よりはよくなっているような気がしないでもない。しかし——。

 瑞季はちらりと目の前に座る眼鏡の男の顔色を窺った。彼は手元のカルテに視線を落とし、またなにかを追記している。——これではまともに食事がとれるようになるまでにどれほどの時間が必要なのか、と彼女は気が重くなった。
 あの日身につけていたものがどこにいってしまったかはわからない。けれど少なくとも時計やスマホ、ノートパソコンといったいかにも金になりそうなものは、森の中で目を覚ましたとき周囲にはなかったと記憶している。瑞季は自分が文無しであることに気がついていた。——とてもすぐにはこれまでの治療費を払えそうにないことも。
 けれど、不思議なことにマルコからまだその指摘をされたことはなかった。記憶も、あきらかに金もないこれほどに面倒な患者を、どうして気にかけるのか瑞季には理解ができなかった。彼に何のメリットがあるというのだろう。
 保護をする名目で正体不明の自分を泳がせているのでは、という勝手な憶測さえ頭に浮かんで——すぐに自己嫌悪とともに沈んだ。平静を装っていながら頭の中は細かいことばかりを気にする。これこそマルコのいう余計なことに違いなかった。けれど、考えずにはいられなかった。

 一通りの診察を終えて窮屈そうに座っていたマルコが丸椅子から立ち上がった。消毒液の匂いのほかに、ふわりと花のような香りが鼻孔を掠める。

「じゃあ、なにかあったら呼ぶようにね」

 ——もし、すべてをばらして、マルコが自分を忌諱してここから放り出してくれたなら、もっと楽になれるのだろうか。

 瑞季は衝動的に口を開いた。

「先生。あの——」
「なんだい?」

 彼女の言葉に振り返ったマルコは、相変わらず柔和な笑みを浮かべている。口から出かかった言葉を、思わず飲み込んだ。
 ——ばかなことを。彼はきっと、そんなことはしない。

「それ、なんの香りですか?」
「ああ、うん。これね。ラベンダーだよ。聞いたことは?」

 彼は白衣の胸ポケットから薄紫色の布袋をちらりと見せた。

「……花の、名前ですか?」
「うん。ポプリといってね、乾燥させた花を使うんだ。これはぼくの大事なものだから残念ながらあげられないけど、もし気に入ったのなら外の露店でも手に入ると思う。眠れない夜にもおすすめだよ。じゃあ、お大事に」

 ぱたん、と閉じられた扉の余韻だけが、室内に残された。
 瑞季は頭を枕に勢いよく下ろし両手で瞼に蓋をした。何も目に入れたくなかった。
 マルコも女性も、彼らは得体のしれない自分に対して真摯的だ。彼らにとって自分は、記憶喪失で茫然自失の虚弱な病人なのだ。その彼らの優しさが善意以外に何があるというのだろう。
 彼らのときおり見せる、あたたかな眼差しが、ひどく瑞季の心をざわつかせていた。

 ——うそつき。彼女の中で、誰かが吐き捨てた。





「きみも、どうしてわざわざここに来るの」

 瑞季はため息を飲み込んでくすんだ金髪の少年に尋ねた。ここにも悩みの種があった。
 少年は瑞季が何を食べているのか気になったのか、今日は珍しく病室の中まで入ってきて不躾にお膳を覗き込んでいた。溶き玉子とすりおろされた人参がふわふわと浮いたスープを見て、こんなものばかり毎日よく食えたものだなと言って顔をしかめている。すぐ後ろに立っていた女性がごほんと咳ばらいをしたのですぐに大人しくなったけれど。

 驚くことに、少年はあの日を境に、次の日も、そしてその次の日もこの病室を訪れていた。
 しかし彼は瑞季の顔をじっと見やって一言二言なにか言うやいなやあっと言う間に去っていってしまうので、彼女は少年の真意を図りかねていた。こうしてしびれを切らしていったいどういうつもりなのか聞くまでに、すでに一週間も経ってしまっていたのである。

「そんなの、おまえがいつも死にそうな顔をしているから——いてっ! 何すんだよ!」

 少年が不機嫌そうな顔でそう言い終える前に、傍らに立っていた女性が白いエプロンの大きなポケットから小さな紙束のようなものを出して丸め、彼の頭をスパンッと引っ叩いた。

「めったなことを言うんじゃないよ。もっと言いかたってのがあるだろう」

 ——初めて会ったあの日に見せた殊勝な彼は、本当にもしかすると夢だったのかもしれない。そう思うくらいには、この少年、おそらく自分よりも十以上は年下のように見えるが瑞季に対して少しも遠慮がなかった。まあ、自分が初対面で少年に見せた情けない様をおぼろげに思い出すに、格下と捉えられても仕方がないような気もするが——。
「おまえ」呼ばわりした少年を見ながら、瑞季は「はあ」とから返事をした。スプーンをそっと置き少年が帰ってから食べようと器の乗ったお盆をテーブルの隅に押しやる。これ以上の醜態をさらす趣味は彼女にもない。

 生意気な盛りの少年も女性を前には形無しの様子だった。何度か顔を合わせているのか瑞季の目には彼らが隣人のように親しげに映る。

「一言心配だから顔を見にきているんだ、って言やあいいじゃないか」
「べ、べつに心配なんかしてねえよ! せっかく助かったってのにこいつがいつのたれ死んでもおかしくねえ顔してるからオレは見張りに来てるだけで——」
「だから、めったなことを言うもんじゃないって言ってるだろう!」
「いたっ!」
「少しは素直になんな! そんなこと言って、もしこの子に何かあったら、後悔するのはあんたなんだよ! そしたらドンになんて言うつもりだい?」
「どうしてそこでじいさんの話が出てくるんだよ……!」
「——〈ドン〉?」

 また新しい言葉が出てきたな、と頭の中で繰り返すとどうやら声に出ていたらしい。二人は顔を見合わせた。とくに女性に叩かれて涙目になっていた少年が驚きに満ち溢れたような顔をしている。怪しまれただろうか。彼らの様子に慌てて目線をそらした。
 しかし、ドンとはなんだろう。物語の中でしか聞いたことがないような現実味のないその単語に瑞季は心の中で首を傾げた。話の流れ的に人名、だろうか。一般的に組織のトップを指す言葉だったように思うが、まさかマフィアがこの世界を牛耳っているわけではないだろうに。
 少年は女性から距離をとるように窓辺に逃げ込むと、得心がいったように瑞季の顔をまじまじと見て、少しだけ気の毒そうな顔をした。

「そういやおまえ、記憶がないんだったな」
「ドンはね、この子のじいさんだよ。この街に住んでいる人間は、みんなあの人に足を向けて眠れないのさ。荒くれものばっかりだったギルドをひとまとめにしちまったひとだからね」

 今度は〈ギルド〉——。たいして興味もなく聞き流していたので瑞季はいまだそれがなんなのかよくわかっていなかった。けれど女性がまるで自分のことのように少年の祖父について語る様子からその人物はかなりの有名人なのだろうなということは察せられる。どうやら少年の祖父はずいぶんと立派なひとらしい。
 ——ところが、自分の身内の話をしているというのに当の少年はというと、瑞季の位置からは得意げな女性の様子と反比例するかのように、むっと眉をひそめ機嫌を悪くしていく様子がよく見えた。

「おい。余計なこと言うなよ」
「余計なことってなんだい。あんなに偉大なおひとなのに」
「ほかに色々教えなきゃいけないことがあるんだろ? べつにじいさんの話なんか今しなくても」
「大事じゃないか。ダングレストにいるんだからこの子にだって必要なことだ——」
「っだから、なんにも知らねぇやつにギルドの話なんかしたってしょうがねぇだろって言ってんだよ!」

 少年は苛立ったように声を荒げた。瑞季と女性は目を丸くして少年を見やる。瑞季は窓の外の音が一瞬だけ静まり返ったような錯覚を覚えた。

「なんだい。急に」

 見かねた女性がそっと声をかけた。母親が癇癪をおこした子どもをなだめるような、そんな優しさを孕んでいることに瑞季は気づく。少年ははっとしたように語気を緩めると、髪をくしゃりと掴んだ。

「べつに、なんでもいいだろ……っ」

 思うようにいかないことに苛立ちを感じているのか、少年の顔には子どもらしい幼さが垣間見える。しかしどうにも引っ込みがつかなくなったようだ。少年は急に唸り声をあげたかと思うと、「こいつはオレが見てる。あんたは仕事に戻っていいから」と言って無理やり話を終わらせ、女性を部屋の外へ追い出そうとした。汗ばみながらひと回りも大きい女性の背を力いっぱい押し出そうとするので、女性は慌ただしさに訝しげに振り返る。
 その一部始終を見ながら、瑞季はぼんやりと首を傾けた。

(……なんでもないようには見えないけど)

「いったいどうしたんだい? まったく……」

 瑞季と同じようなことを考えたのか、女性も眉尻を下げる。が、年頃の少年の扱いを心得ているのか、彼女はすぐに肩を竦めると大人しく部屋から出ていってしまった。両手で扉を閉じた少年は、ふたたび開く気配がないことを確認すると一安心といった具合に大きく息を吐いた。

 どこか重苦しい沈黙の訪れた病室の中で、瑞季は戻ってきた少年をちらりと窺った。彼は祖父の話になった途端、顔色を変えたように思う。
 少年は不機嫌そうに腕を組んで貧乏ゆすりをしながら窓枠に腰を預けている。そして、少しだけ開いた窓の外を見下ろしていた。——その先にどんな光景が広がっているのか、瑞季には見当もつかない。

「おじいさんのこと、嫌いなの?」

 瑞季は素直に思ったことを口にした。その言葉で少年はこちらに視線を寄こした。彼は気まずくなったのか腕を降ろすと、小さく「いや」と言葉を濁す。

「じいさんはすげえ人だよ」

 その目に、祖父への不満めいたものは映っていなかった。
 しかし素直な賞賛とも言い難いような気がした。変声期前の少年にしては少し低い声色。そして先ほどの様子。どうやら複雑な事情を抱えているらしい。——瑞季は眉尻を下げると、色の悪いささくれだった指先をいじりながら「そっか」と呟くように言った。考え込むように視線を落とし、偉大なひとを親類にもつのはきっと苦労するのだろうな、と他人事のように思い巡らせる。口の端を歪ませて、自嘲気味に彼女は少年を見やった。

「大変なんだね、きみも」

 彼は少しだけ驚いたように瑞季を見た。

「そんなことはねえ、けど」

 なんだか気の抜けた風船みたいに小さな肩がわずかに下がる。

「……オレ、じいさんを知らねえやつに初めて会った」
「そんなにすごいひとなの?」
「まあな」
「どんな風に?」

 純粋な疑問に彼女がそう問うと、少年は少しだけ言いよどんだ。みなが周知の事実をこれまで少年はわざわざ語ったことがなかったのだろう。具体的にどう、という説明が難しいようだ。

「とにかくすげえんだよ。……すっげぇでけえ。おまけに力も強くて、本気で殴られると床板が抜けたり、壁に穴が開いたりするんだ」

 瑞季はぽかんと口を開けた。今さらりと、とんでもないことを言ったような気がする。
 頭の中に、超大型の類人猿に似た白髪の毛むくじゃらの老人が、少年の頭を殴りつけて床をぶち抜いている心象が思い浮かんだ。だが、さすがにそれはちょっと大げさすぎやしないだろうか。瑞季は少年をわずかに胡乱な目で見やった。なるほど。剣と魔法、ファンタジーの世界なら、彼の祖父は巨人かなにかでもおかしくはないのかもしれない、と。

「確認なんだけど、おじいさんは、その……人間なんだよね?」
「おまえ、すっっごく失礼なこと言ってる自覚あるか?」

 ——どうやら違うらしい。彼女は素直に謝った。

「それは、うん。ごめん。床板が抜けるとか、初めて聞いたから」

 すると少年は瑞季の言葉に、わずかに遠い目をした。

「まあ……そうだよな。そう思うんだよな、普通≠ヘ」

 少年は傷跡をぽりぽりと掻いて瑞季を見やる。毒気が抜けたのかその眼差しに苛立ちの類はもう見られなかった。

「なんていうか、説明が難しいんだけどよ。力でも口でも誰もじいさんには敵わねえんだ。困ったことはみんなじいさんがなんとかしてくれるって、みんなが思ってる。実際、本当になんとかしちまうしな。だから、じいさんはすげえ人なんだよ」
「そう、なんだ」

 ——瑞季はそう言いながら、少年が見ていた窓の向こうに目をやった。
 彼女の視線の先には、黄昏色の空と灰色がかった雲とレンガ屋根の先っぽ。そしてあの光の環がある。しかし言い換えればそれしかなかった。彼女にとって、その目に見えるものだけがすべてだった。ところが、閉ざされていた世界に突然、少年が現れた。この病室の「外」にもちゃんと人がいるのだ、とあらためて思い知らされたような気がした。

「どうして、か」

 まるで自問自答をするような、ごく小さな呟きが耳に届いた気がして、彼女は顔を上げる。いつの間にか、床板ばかり見ていたようだ。
 視線の先では少年がじっとこちらを見ていた。瑞季は驚き片眉を上げる。——いや、正しくは、自分の「腕」を見ているようだった。包帯を取り払ったばかりの、完治していない擦り傷が露出した、見てくれの悪い腕を。彼はなにか考えに耽るように眉を寄せている。その視線は、痛々しいものを見るものとは少し違うような気がした。子どもらしくない剣呑な目に縫い留められたように動けなくなる。

 ——どうして、彼がそんな顔を?

「……っ」

 少年の目線がふいに上がり、彼は瑞季が自分を見ていることに気がついたのか小さく息を呑んだのがわかった。わずかに俯き、うろうろと視線を泳がせている。
 すると少年は一点を見つめ、次の瞬間にはなにかに気がついたかのようにゆっくりと瞼を大きく開いた。

「……そうか、オレは」

 ぐっと何かを飲み込むようになだらかな喉が上下した。瞳に反射する黄昏色がわずかに細められ、少年は開きかけた口の端を震わせる。音のない言葉が彼の口から零れ落ちたが、瑞季には聞きとることができなかった。
 そして少年はしばらくすると諦めたようにため息のような息を吐いて肩を落とし、ついには瑞季に背を向けてしまった。撫でるような風が細い絹糸のような髪を揺らしている。

 ——少年の背中がなぜだかとても、とても小さく見えた。

「——いや。せっかく助けたのに、死んじまったら寝覚めが悪いからな」


 少年は笑ったようにそう言った。俯いたその表情は、窺い知ることができない。

(2023.03.07)
最終加筆修正(2025.05.29)

[♥拍手]

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