空ににじむような雲がゆっくりと風に流れていく様子を、瑞季はひたすらにぼうっと眺めていた。光の環は相変わらず規則的に回っていて止まることがない。
 あの光は〈結界魔導器(シルトブラスティア)〉というらしい。ベッドの上から日がな一日空を仰ぐばかりの彼女に少年が教えてくれたのだ。あれは魔物から街を守るシールドで、ドーム型のヴェールが頭上から街の境まで覆っているのだ、と。

 あんなことがあったのに、少年は懲りることなくここへやってきている。

『きみ、友だちとかいないの?』
『あ? なんで』
『……せっかくの休憩中にわざわざこんなところに来なくても』
『……べつに、どこで休憩したっていいだろ。静かなんだから、ここ』
(静か、かなぁ)

 彼は誰もいないこの病室が気に入ったのか、女性のいない昼過ぎになるとどこからともなくやってきて、丸椅子に座って何も語らずにぼうっと窓の外を眺めてみたり、瑞季に対して軽口を叩くだけ叩いて気が済んだら帰るというようなことをしていた。よくて暇つぶし、悪くて鬱憤晴らし。そんなところだろう。
 飽き飽きするほどの時間を持て余していた瑞季にとって少年は——少し口が悪いことを除けば——いい話し相手だった。

 それまで瑞季は、枕元に備え付けられた照明がどうやって動いているかなんて考えたこともなかった。〈電気〉が存在しないかわりに、彼らは〈エアル〉という物質を充填して〈魔導器(ブラスティア)〉というものを機械のように使うのだという。彼女が気づかなかっただけで日常には多くの〈魔導器〉が関わっていたことを知った。

『——だからあの光も、その水も、あったけえ飯が食えるのだって、全部〈魔導器(ブラスティア)〉のおかげなんだよ。わかったか?』
『なるほど……』
『おまえ、ほんとになんにも覚えてねえんだな』

 ——しみじみと言う少年の声が、頭の中で響いていた。

 彼に尋ねれば呆れ顔でなんでも答えてくれるので瑞季は徐々にこの世界の知識を増やしていた。彼女は少年が本当に呆れているわけではないことをそう多くはない時間のなかで知った。彼は先輩風を吹かせることに気をよくしているのか、瑞季が何かを尋ねるといつもほんの少しだけ嬉しそうにするのだ。
 マルコや女性に聞けばもっと詳しい話を聞けるのだろうが——二人は瑞季が知らないというと一瞬、ほんの一瞬だけ、本当に気の毒そうな顔をする。瑞季はあの顔を見ることを忌避していた。変な気をつかわれるのは、少し苦手だ。騙しているような気になるから。その点で言えば少年の呆れ顔くらいなんということはない。

 ——少年の前では、瑞季は幾分か気楽だった。


『いってえ! もっと優しくしてくれよ!』
『文句を言うんじゃないよ! 手当てをしてもらえるだけありがたいと思いな!』

 扉の向こうから知らない男性の喚く声が小さく聞こえ、女性の怒鳴りつける声が続いて耳に届いた。
 ここは少年のいう「静か」とは無縁の場所のように思えた。外からはたくさんの音がぬるい風に乗ってやってきて瑞季にさまざまな情報をくれる。
 昼は行商の人々が物を売る声が届き、夜になるとそれに加えて人々の酒に酔った笑い声や歌が聞こえてくる。ときおり喧嘩のような狂騒が混じるにそこまで治安がいいとはいえないようだけれど、少年の大人に対して物怖じしない性格はここで育ったからなのだろうと得心がいったような気がした。

 朝起きると石鹸の匂いのする新しいシーツに取り替えられ、熱いお湯を貰って身を清める。シャワーはまだ浴びられないけれど、それで少し気分が良くなった。
 よく煮込まれた野菜のスープを口に運び、昼過ぎになるとマルコが病室を訪れ、入れ替わるように少年が顔を出す。他愛ないことを話しているとふいに少年が瑞季の知らないことを教えてくれる。呆れたように笑う少年に、つられて口角を上げかけた。
 夕刻になると決まった時間に女性が掃除をして、日が落ちると外に立つ魔導器の灯りが窓に反射してまるで昼のように淡く黄昏色の光が差し込む。

 そして人のいない時間になると、あの空に浮かんだ環の静かな光だけになった。
 永遠に日曜日みたいな、毎日。

『せっかく助けたのに、死んじまったら寝覚めが悪いからな』

 あの日の少年の様子が、なぜだか頭の片隅にそっと居座っていた。
 苦しげな歳不相応の相貌。諦めたように俯く彼の伏せられた目。力なく映った小さな背中が、瑞季を捉えて放さない。それを思い出すと、何かを忘れているような気になって胸の奥がつきんと痛んだ。

 ——この世界で目を覚ましてから、三週間以上が経っていた。



 酒場、〈天を射る重星〉は今日も騒がしい。

 ハリーは彼らのどよめきに近い声を右から左へ聞き流しながら、運ばれてきた食事をかきこむように口に運んでいた。
 同じテーブルでは先ほどから顔見知りのギルド員たちが、並んでいる料理へろくに手をつけずにああでもないこうでもないと話しこんでいる。この殺人的に忙しい時間帯にちんたらしていないでさっさと食え、というマスターの無言の圧力に近い視線を背中に受けながらまだ話し足りない様子でいる彼らに、まったくどいつもこいつもいい度胸をしているな、と少年は心中で呟いた。

「そういえばおまえさん足の具合はどうだったんだ? 医者に行ったんだろう?」
「ああ、あれな。このとおりすっかりだ。治癒術をかけるまでもないってもんですぐに帰されたよ。金もたいしてかからなかった」
「このあたりにしちゃあずいぶんと良心的な医者だな。どこの治癒術師だ?」
「なんていったっけなぁ。ああ、マルコってやつだよ」

 聞こえてきた名に、少年はぴたりと箸を口に運ぶ手を止めた。
 すると、背後で食器の割れる音と女の悲鳴に近い声が続き、男たちは何ごとかと振り返った。少年が席に着いた頃すでに小競り合いをしていたよそのギルド員たちが本格的に取っ組み合いの喧嘩をはじめてしまい、マスターにつまみ出されているところだった。隣では男たちが笑いながらそれを見やっている。ハリーはちらりと一瞥すると、ほっと息を吐いた。
 男たちは振り向きついでに店の人間からの鋭い視線にようやく気がついたのか、テーブルの上にある料理へやっと手をつけはじめた。それでも口を動かすのをやめる様子はないのだから本当にどうしようもない。少年は肩を竦める。

「で、なんだったっけ? マルコ? ああ、あそこだろう。商店通りの」
「そうそう。なあ、あそこ昔はじいさんがやってなかったか? 若いのが出てきて驚いちまった」
「ありゃあ後任だよ。じいさんは二年だか前に引退した。あれも気難しいじいさんだったよなあ。腕はたしかなんだが、愛想はねえし物言いもきついし金にもがめついしでいい思い出がねえよ」
「はっ、たしかに。でも今の医者は感じがよかったぜ。おまけにそこそこ顔もいいから女どもが色めき立ってやがった。ばあさんなんか腰の具合が悪いってのに、化粧までして」
「っはは! そりゃあ笑えるな。なあ、ハリー」
「あ? ああ。そうだな」

 男たちの視線を受け、ハリーは適当な返事をした。彼らは同意さえ得られれば答えなんてなんでもいいことを少年は長年の経験でよく知っている。
 すると、行儀悪く箸を銜えながら、男が年長のギルド員に向かって不思議そうに尋ねた。

「そういやあそこ、二階になんかあるのか?」
「いや? 人魔戦争のときは溢れた負傷者を休ませるのに使ったはずだが、今はどうだか。なんでそんなことを?」
「いやあな、窓が開いてたんだよ。ずっと閉めきっていたのに珍しいからじっと見ちまった」
「片付けでもしてたんじゃないか?」
「どうかな。ありゃあ誰かいたみたいな——」
「ご馳走さま」

 男の話を遮るようにして空になった器をテーブルに放り、ハリーはそう言って席を立った。そしてポケットに忍ばせていた革袋から銀貨を取り出してカウンターにいる店主に払うと、彼らの話を最後まで聞かずに足早に酒場を出ていってしまった。

 ——残された二人の男たちは顔を見合わせた。

「最近、ずいぶんあいつ早いな。どっかに行ってんのか?」
「さあ——案外女でもできてたりしてな」
「まさかあ! あいつにかぎってそれはないだろ。まだガキだぜ?」
「わかんねえよ? ガキってのはあっという間にでかくなるもんだからな。考えてもみろよ? ちょっと前までドンの後ろをじいちゃんじいちゃんって便所までついてまわってたハリーが、今じゃ反抗期の真っ最中だぜ? ありえなくもないだろ」
「まあ、たしかに。……月日が経つのは早いねえ。あれだけ孫には甘かったドンも、最近じゃあ二言目には『じいちゃんって呼ぶな』だもんな」
「仕方ねえよ。いつまでも『じいちゃん』では他のもんに示しがつかねえんだもの。ドンもそろそろ跡目を考えてるんだろうよ。順当にいきゃあ次は孫以外にねえからな。——まあ、ドンがすぐにどうにかなるようなことは万に一つもねえんだろうけど」
「ははっ。違いねえ」

 すると、年若の男が思い出したように眉を上げた。

「——あ。女で思い出した。こないだまーたレイヴンが違う女を引っかけているのを見たぜ。ありゃあ重症だな」
「はあ? またかよ。まったくあいつの女癖はどうしようもねえな」

 話し好きの男たちは口々にそう言ってげらげらと下世話に笑った。
 数年前に突然と現れた女好きの新入りの噂には良くも悪くも事欠かない。やがて彼らの話題は少年から菫色の衣を纏った男へ移りかわり、騒がしい酒場のなかでその笑いはすぐにかき消されていくのだった。

(2023.03.07)
最終加筆修正(2025.05.29)

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