軽いノックの音が聞こえて、返事も待たずに扉が開いた。

「よう」

 いつものようにひょっこりと顔を出した少年は瑞季の顔を見るやいなや苦笑いを浮かべる。

「あんまり元気そうじゃねえな。いつものことだけどよ」

 その反応に、彼女は思わずため息を吐いた。

「そんな顔するなら来なきゃいいでしょ」
「うるせえ」


 ——気がつけば少年と私は軽口を言い合うくらいの仲になってしまっていた。

 少年はその年ですでにギルドの仕事を手伝っているらしく、話しのなかでよく〈ギルド〉、〈ユニオン〉という単語を耳にした。けれど、瑞季がわかっていることといえば彼が大きな組織に身を置いているということくらいだ。
 根は真面目なのかそれとも言いつけられているのか、少年が昼すぎ以外にここを訪れることはめったになかったので、瑞季は彼の突然の訪問を意外に思った。今日はもう来ないかと思っていたのだ。
 反射的にガラスの向こうを見やって、いまだ時間の感覚がないことを思い出す。昼食をあらかた消化し終わって小腹の空きはじまった胃の様子をみるに、本来の夕刻よりは前なのだろうが正確な時間はわからなかった。時計のないこの部屋で頼りになるのが腹時計というのもなんとも言えないものだ。もっとも、あったところで読めやしないのだけれど。

 瑞季は少年に疑問を投げかけた。

「仕事は? いいの? こんな時間に抜け出してきて」

 サボり、にしてはあまりにも堂々としている。訝しげな彼女の反応に少年は心外だと言ったようにむっとした。

「ちげえよ。今日は付き添いのついで」
「付き添い——?」

 少年は瑞季の言葉に大きく頷くといやに難しい顔をして腕を組んだ。あまり長居をするつもりではないのか、窓枠に腰を預けて窓の外を見やっている。

「おまえも聞かなかったか? 警鐘だよ」
「鐘の音ならさっき……もしかして、なにかあったの?」

 彼女はその話で、少し前に窓の外が騒がしかったことをすぐに思い出した。カンカンというはっきりとした金属音がしばらく鳴り、普段はよく通る店売りの声が急に静まり返ったと思えば、男たちの野太い声が慌ただしく響き渡っていたので、何ごとかと窓のほうに目をやったことは覚えている。騒ぎはまもなく収束しすぐにいつもの喧騒に戻っていったので瑞季はそこまで気にしていなかったが、少年の様子をみるにどうやらよくないことが起きたようだった。

「ああ。橋の向こうに魔物が出たんだ。多分荷馬車が狙われたんだろうな」
「魔物……」

 瑞季は思わず呟いた。脳裏に浮かぶのは森の中を闊歩する「うごめくものたち」のことだ。さっと青ざめた瑞季に少年が笑いかけた。「珍しいことじゃねえんだ」と言って。

「心配すんな。ここまでは結界があるから入ってこられねえよ。けど、防衛に出たうちのギルドのやつが怪我しちまってな。オレはその付き添いってわけ。今、下で先生に診てもらってる」
「ついてなくて、大丈夫なの?」
「ああ。骨折ったくらいで、たいしたことねえみたいだ」
「骨を折るのはたいしたことじゃ……」

 瑞季は眉をひそめた。——どこを折ったのか知らないが、腕や足ならば少なくとも固定してひと月ほどはギプス生活だと考えると、十分たいしたことではないか。
 しかし彼女の思考はすぐに少年の呆れ顔によって遮られた。

「おまえはあの人がなんなのか忘れたのか? 治癒術師が骨折のひとつも治せなくてどうするんだよ」
「そういうものなの?」
「そういうもんなの」

 少年が冗談を言っているようには見えなかった。治癒術とはずいぶん万能らしい。瑞季はマルコや女性がいつも忙しくしていることを思い出した。そして、他に自分のような病人がここにはいないことも。怪我や病気をひと息で治してしまう、そんなことも治癒術ならば本当に可能なのかもしれない。

「マルコ先生ってすごいんだね」
「そりゃあ、じいさんが懇意にしてる医者だからな。他にも治癒術師はいるけど……まあ、そうだな。拾われたのが結局はここでおまえはよかったのかもしれねえな。記憶も金もないなんて、あの人じゃなきゃ、とっくに叩きだされてるぜ」

 少年の言葉の端々にマルコへの信用の厚さが窺える。瑞季は自分が彼の恩情によって生かされているのではないかと薄々気づいてはいたが、その話に確信を深めることになった。幸運を喜ぶべきなのだろうが、なんだか複雑な気持ちになる。

「……そっか。先生には感謝しなきゃね」

 そう言って曖昧に相槌を打った。


 滑るように入ってきたひんやりとした風が首元を掠めていき、ぶるりと身体が震えた。視界の端で金糸が揺れている。見ると少年が窓の外を窺っていた。

「ちっ、こんなときにかぎって雨かよ……」

 舌打ち混じりの心もちがっかりしたような声。瑞季は同じように視線を移した。黄昏色は陰り、暗い雲が立ち込めようとしていた。冷たい空気は少年の言ったとおり湿気を孕んだ雨の匂いを纏っている。すぐにでも大粒の雨が降りそうな気配。少年はかわりに窓を閉めながら、神妙な面持ちで窓の外を見下ろした。

「——早く強くならないといけねぇのに……」

 少年らしい声にわずかに陰を落としながら、彼はひとりごとのように呟いた。その相貌には焦燥のようなものがにじんでいる。

 ——彼も戦うのだろうか。

 ふと思い浮かんだ疑問に瑞季は色の悪いつま先をいじった。
 鋭利に光る爪。この世のものとは思えぬほどの大きな羽音。ぎゃあぎゃあと奇怪な周波数を放つ鳴き声。魔物の心象を浮かべるだけで背筋が寒くなる。知性があるかどうかもわからないあの無機質なほの暗い目が、彼女は恐ろしかった。彼があんな魔物と、戦う? とても想像ができない。
 瑞季は思わず問いかけた。

「きみは、魔物が怖くないの?」

 少年は瑞季を一瞥すると、視線だけそらした。くすんだ金色に隠れた少年の表情は自信なさげだ。

「……そりゃ怖くねえ、って言ったら嘘になる。——けど、腰抜けだって言われるよりはましだよ」

 少年が苦く口角を歪めるその様子は、どこか大人びていた。
 瑞季は急に喉の奥になにかが詰まったような感覚がして、少年から思わず視線をそらした。不安。胸中ににじんでいく、形のない黒い靄のようなもの。

「……そっか」

 彼女は愁眉を寄せた。自分は彼くらいの年の頃、何をしていただろう。少なくとも、少年のように地に足はついていなかった。せねばならないことから、目をそらしている。いつだって。——胸の奥がじくりと痛んだ。それは、傷跡が疼くような痛みによく似ている。なんだかとても息苦しかった。


「——い。おい!」

 瑞季は叩かれた肩を跳ね上げた。

「っ! な、なに?」
「ひどい顔してるぞ? 大丈夫か?」
「あ……ああ、うん。だいじょうぶ」

 間の抜けた声を出しながら上の空のまま小さく頷いた。
 焦ったように肩を揺り動かしてきた少年は、不安げな瑞季の様子を見て眉を下げ、目を細めてふっと鼻から息を吐き出すと、元気づけるように小さく笑った。人懐っこい笑みだった。

「そんなに心配すんなって。今はてめぇのことだけ考えてろ。な? おまえも、はやくよくなるといいな」
「……そう、だね」

 瑞季は逃げるように窓の外を見やった。薄墨を何重にも塗り重ねたような暗いくらい雲の下を、光の環が静かに回っている。無性に、不気味に見えた。

 ——私は本当にこんな場所でやっていけるのだろうか。そう思った。



『これから配るプリントを今週中に提出するように。必ず親御さんと相談して、この保護者記入欄に書いてもらうこと。勝手に書くんじゃないぞ! わかったな?』

 体格のいい担任の男性教師が列の先頭に配り歩いてそう言った。
 白い紙束を後ろの席にまわして「私」はその紙を見下ろした。「進路希望調査」という仰々しい題が書かれている。将来の夢を書く欄の下に、志望する学校の第一希望、第二希望と保護者記入欄。クラスメイトたちがどうしようかと口々に隣席の生徒と話し合い、さざ波のように室内がざわめいていく。
 彼らが胸に希望を膨らませている様子を横目に見て、「私」は目を伏せるとそれをすぐに机の中にしまい込んだ。

『瑞季ちゃんはどうするの? やっぱりお医者さん?』

 肩をつんつんと突かれて振り返る。いつも他愛ないことを話す、切りそろえられた前髪の同級生が興味津々といった具合に尋ねた。
「私」は内心でうんざりとしたがおくびにも出さず、首を傾げて見せた。

『なんで?』
『頭いいし、B高なら受かるでしょ。それに——』

『おばあちゃん。これ。サインだけもらえればいいから』

 洗濯物を畳んでいた彼女にその紙を渡すと、わざわざ引き出しから老眼鏡を取り出して彼女はしげしげと見つめた。
「私」は立ち上がってすぐにでもその場から引き払おうと襖を開ける。

『ちょっと待ちなさい、瑞季。ここにご家庭で話し合ってくださいって書いてあるじゃないか』
『……話し合うことなんてないよ。この間の模試の結果なら、ここかなっていうだけ』
『本当にそこに行きたいのかい? もう少し考えたっていいんだよ? それに、なんだいこのとくになし≠チて』

 彼女は眉をひそめながら「私」を見やった。はっきりと顔を見ようとレンズを下げて。
 「私」は小さくため息を吐きだすと、彼女のかわりにまだあたたかい洗濯物を膝に乗せて畳んでいく。皺ひとつない白いブラウス、やわらかなパイル地の黄色のハンカチ、モスグリーンの大きなスカーフ。アイロンがけしたあとの独特な洗剤の香りが心を少し落ち着かせてくれる。

『本当にとくにないから、そう書いたんだけど』

 ぼそり、と呟く。なるべく角が立たないような声色で口を開いたつもりだったのに少しだけつっけんどんになった。白髪の多く混じった彼女は、目尻の皺を濃くしてレンズ越しに優しく問いかけた。

『やりたいこと、ないのかい?』

 ——やりたいこと。「私」は膝の上に二枚目のハンカチを乗せると、手元を見つめた。一羽のひよこと目が合った。彼女が入学祝に縫ってくれた刺繍をなぞる。

 ——「瑞季はひよこが好きだったろう?」。小さい頃の話をいつまでも覚えていて、べつにもう好きでもなんでもなかったのになんとなく頷いた。気がついたらいつの間にか一番のお気に入りになっている。
「やりたいこと」。「将来の夢」、「進路」。望みなんてどうせ叶わないのに、そんなことを考える必要があるのだろうか。なんて不毛なことを考えて。しかし口にはすまいと考えを仕舞いこむ。彼女がどんな顔をして「私」を見るかなんて、手にとるようにわかるからだ。

「私」は用意していた答えを口にすると、口角を上げた。

『大丈夫。そのうち見つかるから、心配しないで』


 ああ、彼女はそれから何と言ったのか——もう思い出すことはできない。



 目を覚ますごとに、元の世界には二度と戻れないのだと次第に諦めがついていくような、そんな気がしている。どれだけ朝を迎えようと目に入るのは節のある同じ天井。夢と現実の区別くらいすでについているはず——なのに。重怠い身体を起こして、瑞季は深い息を吐いた。

 誰もいない部屋で、胸に詰まってうまく飲み下せない煮物を箸で小さく切りわけ、やわらかく炊かれた白米で流し込むように飲み込む。気持ち悪くことはなくなったが、味はよくしなかった。

 三日ほど前から繁吹き雨が降り続いていた。黄昏色は身をひそめ、あの黒い雲が空を覆いつくしている。窓枠をがたがたと揺らす嵐のような風切り音とガラスに叩きつける雨音だけが鼓膜を震わせていた。
 この雨で外に出るのもはばかられるのか、少年の姿はしばらく見ていなかった。夜よりも早く魔導器のあかりが灯され、ぼんやりとした光が彼女の頭上を照らしている。
 瑞季は女性が気をきかせて自宅の物置から出してきたのだという絵本を無感情に捲った。子どもが好みそうなかわいらしい絵だ。

 ——小さな女の子が病気の母親に花束を作るために街はずれを訪れる。
 けれど彼女は、道中狂暴なオオカミに遭ってしまい森の中に迷いこんでしまう。泣だしそうになる女の子だったが、幸運にも心強い仲間に出会い、彼らとともに勇気を振り絞り森の中を進むことにする。
 さまざまな冒険を経て、最後には女の子は道すがらに摘んだ小さな花束を母親に贈ることができ、めでたしめでたしだ。絵から読み取れる内容はそんなところだろう。どこかで見たようなありふれたものにすぎない。
 けれど。瑞季は眉を曇らせた。この物語には、青い空に浮かぶ白い環や魔物の存在など、元の世界ではありえないことが当たり前のように描かれていた。知っているようでまったく違う世界。彼らにとっては魔法も魔物も作り話などではない。なにもかもが現実にあることなのだ。
 それがとてつもなく遠い場所のお話のように思え、すべてに目を通した頃には陰鬱とした気持ちだけが残っていた。


 瑞季は近づいてくる慌ただしい足音に、絵本をぱたんと閉じてスツールの上にそっと置いた。
 なぜだか足音の正体が少年だとわかった。女性とマルコよりも軽い足音だったから、というよりも——そのドア一枚隔てた向こうに少年の存在を強く感じたような気がしたのだ。

 次の瞬間、勢いよく開かれた扉の音が鼓膜を打つ。すると彼女の読みどおり扉の向こうから少年が現れた。ところが瑞季は目を丸くした。
 ——少年はずぶ濡れだった。この土砂降りのなか雨具も身につけず走ってきたのかぜえぜえと肩で息をしている。青ざめた頬。俯いた目元は濡れた艶やかな金色に隠されていたが、ひと目でひどい顔色だとわかった。その様子に、瑞季はなぜだかいやな予感を覚える。

「ど、どうしたの?」

 返事はない。かわりに瑞季のいるベッドの脇まで一直線にやってくると、少年は彼女を見下ろした。瑞季はぎょっとした。目尻がすっかり吊り上がっていた。怒っている。普段の癇癪とは異なり、明確に怒りを抱いていると言わんばかりの少年の剣幕に彼女は戸惑いの色を浮かべた。

「本当にどうし——」
「おまえは」

 遮った少年の声は地を這うように低く、唸るようだった。


「——おまえは、生きる気がねえのか」


 一瞬、瑞季は何を問われたのかわからなかった。
 くすんだ金髪からシャワーを浴びたみたいに大きな雫がぽとりぽとりと滴り落ち、ベッドや足元の木目に染みを作っている。それを見て、彼女はやっと口を開くことができた。

「……なに、言ってるの?」

 おどけたように振舞おうとしてわずかに声が震えたのが自分でもわかった。
 張りつめた空気に鼓動が直接耳に届くような錯覚を覚える。投げ出していた腕を膝の上に引き寄せ、動揺を悟らせないように手元を膝の下へ隠すが、少年が押し殺した声でぴしゃりと「とぼけんな」と言うと膝ごとわずかに跳ねた。彼は吐き捨てるように続けた。

「じいさんに言われたんだよ。『生きる気がないやつは放っておけ』って」

 彼女の形のいい眉山の上の皮が、ぴくりと痙攣した。

「納得できなくて、ここに来た。……だけど、今さっき下で先生たちが話していたのを聞いちまったんだ。怪我はよくなっても、心≠ヘまだだって。おまえがいつまでもよくならないのは、きっと精神的なものなんだろうって」

 揺れていた少年の目がふいに瑞季を捉えた。

「——そうなのか?」

 虚を突かれた思いがした。

「……それは」

 瑞季は泳ごうとする眼球を押しとどめ、つとめて平静を装おうと口を開きかける。——そんなことない? 言いがかりだ? しかし今ばかりは軽口も、反論の類もなにひとつ出てはこなかった。その目がそうさせた。
 少年の表情はまるで否定をしてくれと言っているみたいだ。ぎゅっと眉間に皺を寄せ、唇を噛んでいる。けれどその一方で彼の瞳は真実以外聞き入れないとでも言うように、決して瑞季から離してはくれなかった。信じたい。信じられない。そんな迷いが入り混じった相貌——正視に耐えないまっすぐな目。瑞季は閉口し、今度こそ逃げるように視線を動かした。

「否定、しろよ。何でなにも言わないんだよ……!」

 少年の責めるような声色に彼女は目を伏せた。否定など、できるはずがないと思った。——まさしく図星だったからだ。
 身体を覆いつくすような包帯はもうない。あの森で負った傷も跡を残さずに消えるだろうと言われている。燃え上がるような熱も、今ではすっかりない。だが瑞季はいまだ窓の外を見ることも、部屋の外に出ることも叶っていなかった。それはなぜか——。原因は自分が一番よくわかっていた。その気がなかったからだ。
 いつまでもぐずぐずと足踏みばかりしている。味がしないのも、何を見ても心が動かないのも、自分の心がただ頑なにこの世界を拒み続けていたからに他ならなかった。
 少年の言葉を借りるなら、自分にはきっと「生きる気がない」。瑞季は反芻して口元を歪める。耳の痛い話だった。会ったこともない、顔も知らない彼の祖父にまで見抜かれてしまっているなんて。
 少年に嫌われても仕方ないと思った。遠慮のない彼のことだから、自分が「うん」と一言頷けば、腹を立てこのまま出ていってそれっきりでも何らおかしくはない。なのに——瑞季は唇の内側のやわらかいところを噛んだ。——少し、ほんの少しだけ残念だと思った。その遠慮のなさに救われていたところはある。瑞季は黙りこんだ。

「じゃあなんで、あのとき『助けて』なんて言ったんだよ……っ」

 すると、そんな彼女に少年が苛立ちを隠しもせず言った。うなだれていた彼女の顔が思わず上がった。視線が交差する。
 ——怒りと戸惑い、そして深い「悲しみ」を孕んだ目が瑞季を見ていた。彼女ははっとした。

「死にたくなかったんだろ!? 死にたくないから魔物から逃げてきたんじゃねえのかよ!? あんなに泥だらけになって、必死になって助けを呼んでいたくせに、それで生きる気がねえなんてそんな話あるかよ!」
「それは……」

 堰を切ったように捲し立てる少年の言葉に、瑞季はぐっと言葉につまった。そうだ。あのとき死にたくないと思ったのは本当だ。けれど——。脳裏に浮かぶのは淡紅色。冷たい雨の温度。瑞季は胸を掴んだ。どくり、と大きな心臓の音が鼓膜の奥で響く。

(だって私は、もう——)

 瑞季の心は少年の言葉によって大きくざわめき、さまざまな感情が蓋を取り払ったようにがたがたと音をたてて出てこようとしていた。少年がなおも詰め寄った。

「おまえはどうしたいんだよ!? このままここでずっと、ずーっとそうしてんのか!? おまえはそれでいいって、本気で思ってるのかよっ!?」
「っ!」

 喉奥がかっとする。

「思ってるわけないでしょうっ……!」

 反射的に言葉が口から飛び出した。——急に目頭が熱くなって、ぐっと唇を噛んでこらえる。

「……わかってるよ。ずっとこのままでいていいはずない。マルコ先生たちが直接口を出さない理由も全部わかってるっ」
「じゃあどうしてそんなこと——」
「っでもどうしろって言うの!? こんなところに放り出されてお金も仕事も全部失って、ろくに言葉もわからなくてっ。きみたちにとって当たり前のこともなにひとつ知らない。……無理だよ。今さら——」

 今さらもう一度はじめからやり直せなんて言われたって。

 心のままに出てきたのは、おとなげのない弱音や言い訳の類だった。怖かったのだ。前へ踏み出すことが。きっとどうとでもなるはずなのに、怖くて仕方がなかった。その一歩が重かった。常識や、風土、なにもかも知らない土地で新たにはじめなければならないこと。理不尽な境遇に対する憤りも感じていたし、それらを考えないようにすればするほど心が底なし沼のように沈んでいき、気がつけば足をとられて一歩も動くことができなくなっていた。そんなときどうしていいか知らなかった。彼女は、できるならば子どものように大声で泣きだしてしまいたいと思った。

「……それがおまえの本音か」
「……」
「そうなんだな」

 瑞季は両手で顔を覆った。彼が大きくため息を吐く音がした。
 しかし、ふたたび殻に籠ろうとする彼女の思考をダンッという音が遮る。

「っだったら——」

 俯く彼女の腕を強く引かれ、自然、顔が上がる。


「だったらオレが面倒みてやる!!」


 ——少年が吠えた。びりびりと割れんばかりの怒声。走った衝撃で瑞季は瞼を見開いた。

「おまえがなんにもわからねえって言うなら、知らねえこと全部教えてやる。てめぇ一人で立てるようになるまでオレがちゃんと見ててやるよ! なあ、それだったら心配ねえだろ!?」

 膨れ上がった衝動をそのまま言葉にしたような、荒々しい声色。

「じいちゃんと約束したんだ。おまえを助けるって。なのに……なのにそんなに簡単に無理とか言うなよ。まだなんにもしてないのに無理とか言うな!」

 彼はくしゃりと顔を歪めた。

「……生きたくないとか、そんな悲しいこと言うんじゃねえよ。ばか野郎っ……!」
「……っ」

 少年の手は震えていた。瑞季の目頭を涙がつうと伝った。唇のそばの皮膚が震えて引き結ぶ。鼻の奥がつんとした。

(なんで……)

 この子はどうしてこんなに必死なのだろう。瑞季は困惑に眉尻を下げた。人がいいと言っても限度があるものだ。「自分が助けた」というだけで普通ここまでするだろうか。彼の祖父は放っておけと言ったのに? 

『——いや。せっかく助けたのに、死んじまったら寝覚めが悪いからな』

 ——脳裏に、なぜかあの黄昏色が浮かんだ。はぐらすような態度、それから傷を見る目。小さな背中が今もなお記憶に焼きついて離れない。なにか、なにか理由があるはずだ。善意以外に彼を急き立てる決定的な要因となるものが。けれど、それが何なのか彼女にはわからなかった。小骨が喉に突き刺さっているみたいに、それが引っかかって抜けない。

「きみは、どうしてそんなに苦しそうなの?」

 瑞季が瞳を揺らしながらそう訝しげに尋ねると、少年が一瞬はっとしたように見えた。

「それ、は」

 すると瑞季の腕が少年の手を離れ、重力に従って膝の上に落ちた。彼は言葉につまりながらゆっくりと俯いた。まただ、と思う。

 ——けれど前と違ったのは、この近さからなら少年の顔がはっきりと視認できること。瑞季は小さく目を見開いた。
 仰ぎ見た少年の顔は苦悩に満ちていた。瞳がひどく揺れ、薄い小さな唇が自嘲気味に歪む瞬間を瑞季は捉える。
 彼は肩を落とした。

「……わかってんだよ。オレのエゴだって。ただの自己満足だってこともな。でも、こうでもしなきゃ気がすまねえんだよ……だって、おまえがそうなったのは——」

 くすんだ金色の毛先がふるりと震える。


「おまえがそうなったのは、オレのせいだから」


 少年は目に涙をためながら、そう言った。

(2023.03.16)
最終加筆修正(2025.05.29)

[♥拍手]

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