戯れに野良猫


(主人公は上海の賭博場の従業員/ちょっとだけインモラル)

 染みついたにおいが草薙の鼻を打った。幾度も使用されしみこんでいく煙草と阿片の香り。それらが鼻孔を擽る度に草薙は、くゆられた煙が室内にけぶるように充満していく様を幻視した。
 実際には煙草も阿片も、今この場では誰一人として食んでいない。
 草薙は椅子に腰かけながら、上海での情報提供者がベッドの上でだらしなく寝転がる様を見やる。
 十代中頃の、少年。
 服にしわが寄るのも気にせずに、彼は居心地の良いベッドで微睡んでいた。
 煌びやかなダンスホール。けれども仮の姿を一たび剥がせば、人一人の人生が容易く消費される賭博場へと早変わりする。
 背の部分が大胆に透けた、ひとの情欲を誘うようにスリットの入れられた制服を着こみ、一見すると本物の少女のように見える、化粧の施されたかんばせを持った少年。晒された喉仏や広い肩幅、骨張った手足などから、彼が紛れもなく少年であると証明できた。
 彼――名前はそこの従業員である。
 上海という魔都に囚われた男を確実に摘発するために会員制の賭博場へと足を踏み入れた草薙に宛がわれた、世話役だった。
 賭博に負けた親族の借金の方に売られたという。――よくある話だ。
 この街では、一晩どころか一瞬で、簡単に、路傍の花を摘み取るように、人間は狂い、坂を転げ落ちていく。
 彼を懐柔し情報提供者に仕立て上げるのもまた、至極簡単だった。
 適度に金を握らせ、優しい顔をして見せればそれで良かった。
 野良猫みたいだと草薙は思った。餌をくれて、甘えたい時だけ頭を撫でてくれて、そういう人間にとっておきをプレゼントする。そこに甘さはなく、お互いにお互いを利用してやろうという気概ばかりが先行していた。
 報告は名前たっての希望で、いつもそこそこの値段の部屋を取っていた。それでも、肌を合わせるようなことはしなかった。別段彼がそういったことを望んでいるという訳でもなく、ただ単に寝心地の良いベッドでゆっくりと微睡みたいと、それだけのことだった。寮のベッドは固くて布団もペラペラで、最悪だ、と愚痴を零していたこともあった。
 草薙自身も、無駄な労力は使いたくなかったのでその方が都合が良かった。しばらくベッドに横になれば満足してほろほろと情報を零す。とても、とても扱いやすい情報提供者だ。
「昨日、同僚が帰って来なかったンですよ。ほら、あの……ヨシノとかいう人と良い仲になった子」
「蝶の刺青のか」
「そう。とうとう駆け落ち……なんてね」
 どこか羨むように、あるいは侮蔑するように名前はそう吐き捨てると立ち上がり、草薙の正面の椅子に腰かけた。
「あの子、ヨシノと結ばれたってボクに教えてくれた時、嬉しいって、言ってたンです。そりゃあもう、同僚が皆羨むくらいに。だってそうでしょう。ボクらみたいな奴が好いた人と……なんて、夢みたいなこと。――そんなに、ひとと結ばれるのって祝福されることなんですかね」
「……さあ」
「あなたはそういうの、淡泊そうだ」
 お前もだろう。そう喉からでかけた言葉を草薙は飲み込んだ。ついでに、水も。
 グラスをテーブルに戻すと、名前がすかさず嵩の減ったそれを水差しから補充する。既に染みついた無意識から来る行動だろう。
 そして、同じグラスからそのまま水を飲む名前に、僅かながら草薙の眉根が寄る。彼が口をつけた部分にはべったりと紅が付着していた。これは、わざとつけたに違いない。
 草薙の僅かな変化を読み取った名前が、蠱惑的に笑う。紅の付いた唇を釣り上げ、自身の悪戯に草薙がどのように反応するかを見て楽しんでいた。自らに翻弄される飼い主を見てにやりと笑う猫そっくりだった。
 けれども、所詮彼はかわれている立場なのだ。
 草薙が手を伸ばし名前の頭を撫でると、彼は抵抗できずにたちまち頭を垂れる。
 髪を崩さないようになるべく優しく撫で上げる。粗雑な環境に身を置いている割には、手触りの良い髪質だ。遺伝、だろうか。さらさらとしていて手触りが良く、絡まることなく指を通せる。
 打算もなく優しくされる、ということに彼は弱かった。その習性を利用したのは他でもない、草薙だ。
 頭頂部の探索を終え、次第に下方へと向かう。途中耳を発見し、手で柔く包み込む。随分と作りが小さいように思える。ただ単に、自身が大柄なだけかもしれないが。手の平にあたる硬い感触は、彼の耳を装飾しているピアスに違いない。
 薄い耳たぶをやわやわと揉む。時折焦らすように外耳道の入り口を攻め立てれば、分かりやすい反応を示す。こういった所は年相応で、非常に良い。
 ひとしきり耳たぶをもみ込んだ後、輪郭をそのまま辿る。白粉がはたかれ紅もひかれ、顔の作りを多少替えられていたとしても、それでもなお名前はかわいらしい表層を持ち合わせている。
 顎を持ち上げ名前の顔を正面へと向ける。真っ直ぐに飛び込んでくるまろい瞳は黒曜石のように煌めいている。その二つの宝石は恍惚に歪み、草薙を見返している。
 大人と子供、男と女、どちらにもなり切れずに中途半端。だからこそ、未完成だからこその魅力を携えている。子供を無理矢理大人に仕立て上げられ、男を無理矢理女に仕立て上げられ、けれども壊れることなく絶妙なバランスを保っていた。
 この年代特有の溌剌としたいっそ溺れるくらいの眩しさの中に違和感を感じさせるほどの、艶めかしさが存在している。しなやかに、ドレスのように纏わりつかせ、時々ちらりと剥がして魅せては人を食ったように目を細める。
 なるほどこういうのがそれなりの値段で取引されるのだろうな。
 世の中には物好きが大勢存在するし、彼らを相手に商売をする物好きもまた多く存在していた。
 だから、賭博場で負け彼を売ったという親族はおそらく嵌められたのだ。彼を手放すようにと仕向けられた。あるいは、賭博場と親族はグルだった。
 ……あれこれ詮索したところで、まるで実の無いことだ。
 名前は換金され、今では草薙の手の平の上だ。
 ただ、それだけのこと。
「いつまで、触ってるンですか。……それとも、手を出したくなりました?」
 野良猫が笑っている。
 ゆらりと尻尾をたなびかせながら、誘うように。けれども実際に手を出したものなら、隠し持っていた鋭い爪で容赦なく蚯蚓腫れを作るに違いない。猫が好きな人間なら、その気まぐれさが良いのだと、笑い飛ばすのだが。
 この小生意気で打算的で、それでいてやさしさに飢えている野良猫のことは、それなりに気に入っていた。餌をチラつかせれば素直にその身を差し出す、単純な所が。そうやって様々な餌場を渡り歩いては情けをかけられたり、あるいは痛い目を見ているに違いない。それでも懲りずに貪欲なまでに他人を求めるその浅ましさも、嫌いではなかった。
 たまには傷を負ってでも遊んでみるのも悪くないと思うのは、草薙が魔都に馴染み切った証拠だろうか。そんな馬鹿げた考えを、自嘲気味に口の端を持ち上げることで振り払う。
 草薙は名前の真っ赤に濡れた柔らかな唇に手をかけた。

- 8 -
←前 次→