名前のない夜
🌙
夜の洋館に足音が響く。
眠気がなく、
特段することもなかったエレナは
静かな廊下を歩いていた。
窓の外には月。
誰もいない洋館は不思議なほど静かだった。
ふと。
書斎の扉の隙間から、
僅かな灯りが漏れているのが見えた。
エレナは足を止める。
ゆっくりと扉を開いた。
部屋の中ではティキ・ミックが窓際に立ち、
煙草を吸っていた。
夜風がカーテンを揺らしている。
ティキは振り返る。
「起きてたのか」
低い声。
エレナは小さく頷いた。
「うん」
そのまま部屋へ入り、
ティキの隣へ並ぶ。
二人で月を見上げた。
しばらく誰も喋らない。
煙草の先だけが赤く光る。
ティキはふと隣を見る。
灰紫の瞳がこちらを見ていた。
儚げで。
生気が薄くて。
けれど不思議と目を逸らさない瞳だった。
「ティキは人間が好きなの?」
静かな問いだった。
ティキの動きが僅かに止まる。
本当に一瞬だけ。
けれどすぐに煙を吐き出し、
「いや?」
と答えた。
エレナは黙って続きを待つ。
ティキは窓の外へ視線を戻した。
「面白いんだよね」
ぽつりと呟く。
「白と黒を行ったり来たりするのが」
人間として生きる自分。
ノアとして生きる自分。
どちらも自分で。
どちらでもない。
その境界を歩くことが、
ティキにとっては快楽だった。
「退屈しねぇだろ」
ティキは小さく笑う。
エレナは静かに話を聞いていた。
そして。
そう…」
とだけ答える。
否定もしない。
共感もしない。
ただ。
ティキはそういう考えを持っているのだと知る。
昼間、汽車で見た横顔を思い出す。
酒臭い男達に囲まれて。
肩を叩かれて。
悪態を吐きながら笑っていたティキ。
洋館で見る姿よりも、ずっと楽しそうだった。
だからきっと。
白の世界も、ティキにとっては大切なのだろう。
月明かりが静かに二人を照らしている。
それ以上、言葉は続かなかった。
けれど沈黙は不思議と嫌ではない。
夜は静かに更けていく。
名前のない時間だけが、二人の間に流れていた。
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