触れる熱


🌙





夜の洋館は静かだった。

古びた廊下に、
雨音だけが微かに響いている。

窓の外は暗い。

昼も夜も曖昧な、
灰色の空。

エレナは長い廊下の窓辺へ立ち、
ぼんやり雨を眺めていた。

黒いレースのドレス。

白銀の髪。

窓硝子へ映る姿は、
今でも人形みたいに綺麗だった。

けれど、
その頬を静かに涙が伝っている。

理由は分からない。

突然、
胸へ流れ込んでくるのだ。

どこかで終わる命。

消えていく感覚。

知らない誰かの終焉。

それが痛みとなって胸へ落ち、
気づけば涙になっている。

エレナは目を伏せた。

この感情が、
自分のものなのかも分からない。

すると。

背後から、
煙草の匂いが流れてきた。

「……ここにいたのか」

低い声。

振り返ると、
壁へ寄りかかるように
ティキ・ミックが立っていた。

黒いコートを羽織り、
片手には煙草。

気怠げな空気。

けれど金の瞳だけが、
静かにエレナを見ている。

「出掛けていたのではなかったの」

「そのつもりだった」

ティキは煙を吐きながら、
肩を竦める。

「でも、
なんかお前が気になってな」

エレナは僅かに目を瞬かせた。

気になる。

その言葉の意味が、
よく分からない。

ティキはゆっくり歩み寄る。

革靴の音が、
静かな廊下へ響いた。

「ロードが、
また泣いてるかもとか言うから探した」

「……そう」

窓の外で雷が光る。

白い閃光が、
一瞬だけ二人を照らした。

ティキはエレナの顔を見る。

やっぱり泣いていた。

でも、
悲鳴を上げる訳でも、
取り乱す訳でもない。

ただ静かに涙だけ流している。

それが妙に引っかかった。

「何が悲しいんだ?」

エレナは少し黙る。

そして静かに首を横へ振った。

「分からないの」

本当に分からなかった。

「気づいたら、
涙が出ているだけ」

ティキは煙草を咥えたまま、
エレナを見る。

嘘ではないのだと分かった。

この女は、
本当に理由を知らない。

それなのに、
泣いている。

「変な女」

「そうかもしれない」

否定しない声。

ティキは小さく笑った。

そのまま、
エレナの隣へ並ぶ。

窓の外では、
まだ雨が降っていた。

しばらく沈黙が落ちる。

不思議と居心地は悪くなかった。

ティキは煙草を窓の淵へ押し付ける。

「俺ァさ、
こういうジメジメした空気苦手なんだよな」

「……そう」

「もっと騒がしい方が好きだ」

浮浪児として生きる人間側の時間。

酒。

喧騒。

女。

笑い声。

ティキはそういう場所を好む。

けれど、
エレナはそういう世界を知らない。

だから少しだけ、
不思議そうにティキを見る。

「何だよ」

「貴方は、
生きている感じがする」

ティキの眉が僅かに動いた。

生きている感じ。

そんな風に言われたのは初めてだった。

エレナは窓の外を見たまま、
ぽつりと続ける。

「温かいのね」

その声は、
どこか羨むみたいだった。

ティキはしばらく黙っていた。

やがて、
ゆっくり手を伸ばす。

白い手袋越しの指先が、
エレナの銀髪へ触れた。

さらりと、
髪が指の間を滑る。

エレナは逃げなかった。

ただ静かに、
触れられる感覚を受け入れている。

ティキはその横顔を見る。

綺麗だった。

壊れそうなくらい静かで、
今にも消えてしまいそうで。

だから気になるのかもしれない、
とぼんやり思った。

すると不意に。

エレナの細い指先が、
ティキの手へそっと触れる。

白い手袋の上から。

微かな熱を確かめるみたいに。

ティキは少しだけ目を見開いた。

エレナはそのまま、
静かな声で呟く。

「……本当に、
温かい」

雨音だけが響いていた。

けれどその瞬間だけ、
エレナは少しだけ、
“独りではない”気がしていた。








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