処刑人
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首領の私室。
重厚な扉が静かに開くと、
薄暗い室内へ一つの人影が長く伸びた。
現れたのは、志賀直哉ではない。
先日、ポートマフィア専属医として
迎えられたばかりの男――森鷗外だった。
部屋には薬品の匂いと、湿った空気が淀んでいる。
豪奢な寝台へ横たわる先代首領は、
焦点の定まらない目で天井を見つめたまま、
誰が入ってきたのかすら気にも留めていない。
森は静かに寝台の傍らまで歩み寄ると、
穏やかな笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかります。」
柔らかな声が静寂を破る。
「この度、貴方様の専属医となりました、
森鷗外と申します。」
恭しく一礼すると、そのまま首領の細く痩せた
手首へ指先を添えた。
脈を測る。
乱れてはいるが、
まだ命を繋ぎ止めるだけの力は残っていた。
「……脈は安定しているようですね。」
その言葉に、虚空を見つめていた首領が
ゆっくりと瞳を動かす。
濁った眼差しが森を捉えた。
「……新しい医者か。」
掠れた声だった。
「前の奴は……わしを殺そうとしおった。」
口元が歪み、喉の奥で笑うような息が漏れる。
「だから殺した。」
その言葉には何の躊躇も罪悪感もない。
まるで不要になった道具を捨てた程度の口ぶりだった。
「わしを生かせ……センセイ。」
細い指先が震えながら森の白衣を掴もうと宙を彷徨う。
「まだ……やるべきことが山ほどある……。」
浅く乱れた呼吸の合間に、
執念だけが言葉となって零れ落ちる。
「ポートマフィアを……世界の頂点へ……。」
歴代の専属医たちは皆、懸命に首領の治療へ当たった。
しかし病状が少しでも悪化すれば、
「殺そうとした」と妄言を吐かれ、
その度に処刑人である志賀直哉の手で
命を絶たれてきた。
森も、その話は既に耳にしている。
それでも表情一つ変えず、
口元には柔らかな笑みを浮かべたままだった。
「ええ。」
穏やかに頷く。
「全力を尽くしましょう。」
その笑みの奥に何を秘めているのか、
この場で知る者はいない。
そして、その一部始終を部屋の隅から
静かに見つめる小さな影があった。
扉の脇へ寄り掛かるように立つ、一人の少年。
片目に包帯を巻いた太宰治だった。
無表情のまま森と首領のやり取りを眺めるその瞳には、
年齢に似合わぬ静けさだけが宿っている。
森が何故、この少年をこの部屋へ連れて来たのか。
その意味を知る者は、まだ誰もいなかった。
―――
夜の倉庫街。
人気の絶えた埠頭に建つ巨大な倉庫では、
密輸品の積み込み作業が慌ただしく進められていた。
月明かりだけが照らす薄暗い構内。
数人の業者が木箱をトラックへ運び込み、
その周囲を銃で武装した敵対組織の
構成員が警戒している。
出入り口にも二人の見張りが立ち、
辺りを油断なく見渡していた。
その闇の中へ、一人の男が静かに足を踏み入れる。
黒いロングコートを肩へ掛けた男――志賀直哉。
今回の任務は、密輸を企てる敵対組織の制圧。
そして、積荷の押収だった。
志賀は物陰へ身を潜めると、静かに標的を見据える。
「──『暗夜行路』。」
小さく呟いたその瞬間。
入口に立つ見張りの一人が眉を顰めた。
「……?」
周囲を見回す。
仲間が何かを話している。
口は動いている。
だが、何も聞こえない。
聴覚だけを奪われた男は、不安そうに辺りを見渡した。
異変に気付いたもう一人の見張りが
声を掛けようとした、その刹那。
乾いた銃声が夜へ響く。
一発。
額を撃ち抜かれた男は、その場へ崩れ落ちた。
「敵襲──!」
叫ぼうとしたもう一人も、二発目で息絶える。
倉庫内が一気に騒然となった。
「侵入者だ!」
武装した構成員たちが一斉に銃を構える。
しかし、その姿は見えない。
積荷の陰から放たれる銃弾だけが、
次々と仲間を倒していく。
志賀は木箱の間を静かに移動しながら、
一人、また一人と標的を仕留めていく。
『暗夜行路』によって視覚や聴覚を奪われた者は、
味方の位置すら把握できず、
錯乱したまま引き金を引いた。
銃声だけが倉庫内へ虚しく響く。
敵同士が誤って撃ち合う中、
志賀は淡々と引き金を引き続けた。
戦闘は十分も掛からなかった。
静寂が戻った倉庫には、
倒れ伏す敵対組織の構成員だけが横たわっている。
志賀は周囲を見渡し、積荷へ視線を移した。
木箱には海外製の銃器や弾薬が詰め込まれている。
一方、密輸を請け負っていた業者たちは、
恐怖でその場から動けずにいた。
やがて倉庫の外から複数の足音が響く。
「志賀幹部。」
広津柳浪率いる遊撃隊だった。
現場を一瞥した広津は、何も言わず状況を把握する。
「業者は生かした。」
倉庫の隅で震える業者たちを一瞥し、
志賀は淡々と言う。
「取引先を吐かせろ。」
広津は静かに頷く。
「承知しました。」
広津は部下へ目配せする。
「全員拘束しろ。積荷も押収する。」
遊撃隊は業者たちを拘束し、積荷の押収を開始する。
志賀の役目は、そこで終わっていた。
銃をホルスターへ戻し、コートを肩へ掛ける。
頬には浅い擦り傷が一本走っていたが、
それ以外に目立った外傷はない。
振り返ることなく倉庫を後にすると、
待機していた黒塗りの車へ乗り込む。
エンジンが静かに始動し、
車は夜のヨコハマを走り去っていった。
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