古傷
*
藍染惣右介を前に、
護廷十三隊と仮面の軍勢が身構える。
誰もが迂闊には動けず、
張り詰めた緊張が戦場を支配していた。
その沈黙を破ったのは、平子真子だった。
「……迂闊に近づかんとけよ。藍染の能力や。
考えなしに近づいたら、その時点で終いやで」
仲間たちに向けた忠告だった。
「わかっとるわ……!」
藍染を睨みつけたひよ里が、
苛立ちを隠そうともせずに答える。
しかし、その身体は今にも飛び出しそうなほど
前のめりになっていた。
「アホ!お前に言うてんねん!
柄から力抜け、ひよ里!」
平子が声を荒らげる。
今にも藍染へ飛びかかりそうな
ひよ里を制するため、念を押したのだ。
そんな二人のやり取りを眺めていた藍染は、
柔らかく口角を上げた。
「……流石。思いやりの深い言葉だ。平子隊長」
静かな声だった。
「だが、迂闊に近づいたら終わりとは、
滑稽に響くな」
明らかな挑発だった。
藍染は穏やかな表情を崩さないまま、
言葉を続ける。
「迂闊に近づこうが、慎重に近づこうが、
あるいは全く近づかずとも、結末は全て同じことだ。
未来の話などしていない。
君たちの終焉など、
既に逃れようのない過去の事実なのだから」
その言葉が、仮面の軍勢の空気を変えた。
百年前の出来事を知る者たちにとって、
それは決して聞き流せる言葉ではない。
藍染への憎悪が、再び胸の奥から湧き上がる。
「挑発や! 乗るな!」
平子が叫ぶ。
だが、藍染は止まらなかった。
「何を恐れることがある?」
その声音には、相手の反応を
楽しむような余裕さえあった。
「百年前のあの夜に、
君たちは既に死んでいるというのに」
「――ッ!」
次の瞬間、ひよ里が地を蹴った。
「ひよ里!!」
平子の制止も間に合わない。
一瞬だった。
ひよ里の身体が、上半身と下半身に両断された。
鮮血が飛び散る。
「おひとり様、おー終い」
間の抜けた、間延びした声が響いた。
その声の主は、少し離れた場所に立つ市丸ギン。
彼の手にした斬魄刀、神鎗が、
伸びきった刃をゆっくりと元の長さへ戻していく。
紫乃がその光景を目にしたときには、
既にひよ里の身体が宙から落下していた。
「ひよ里!!」
平子が飛び出し、ひよ里の上半身を抱き止める。
そのまま勢いを殺し、地面へと着地した。
「ご……ごめんな……真子……」
ひよ里の声は、今にも消え入りそうだった。
「うち……ガマンできひんかった……」
平子の腕の中で、ひよ里がかすかに顔を歪める。
謝罪の言葉を口にする彼女を、
平子は責めなかった。
「アホ……!」
ひよ里の傷を見つめる平子の顔から、
普段の軽薄さが消えていた。
「ハッチ!」
治療を頼もうと、有昭田鉢玄の名を呼ぶ。
しかし、振り返った先で鉢玄の負傷した腕が
目に入り、平子は一瞬、言葉を失った。
彼もまた、万全ではない。
この場で、ひよ里を治療できる者がいるのか。
一瞬の逡巡。
だが、すぐに平子は顔を上げた。
「せや……織姫ちゃんの能力やったら、
まだ治せる……!」
井上織姫なら、あるいは。
そう思い至った平子は、空を仰いだ。
「一護!一護はまだ……
戻って来えへんのか……!!」
返事はない。
「一護!!」
声が戦場に響き渡る。
しかし、空に黒腔が開く気配も、
待ち望んだ霊圧が近づく気配もなかった。
平子はゆっくりと視線をずらす。
その目に宿っていたのは、絶望と憎悪だった。
藍染を見据える瞳には、
百年前から積み重ねてきた感情が、
抑えきれないほどに滲んでいた。
「……良い眼だ」
藍染は涼しい顔で平子を見下ろした。
「百年振りに、生き返った眼を見た気がするよ。
平子真子」
まるで、目の前の憎悪さえも
観察の対象であるかのように。
「憎いか。私が」
藍染は手にした刀へと視線を落とし、
静かに告げた。
「憎ければ向かってくるが良い。
君は特別に、私の剣でお相手しよう」
言い終えると、藍染は刀を抜いた。
平子はひよ里を鉢玄へと預け、
ゆっくりと立ち上がる。
「藍染……!」
紫乃は斬魄刀を握り締めた。
百年前、手の届かない場所で失ったものがある。
そして今、目の前で再び、
大切な仲間が傷つけられた。
藍染への怒りが、
紫乃の胸の奥で静かに燃え上がる。
だが、彼女はすぐに周囲の状況へと意識を戻した。
東仙は狛村と檜佐木が相手をしている。
戦況から見ても、決着がつくのは時間の問題だろう。
残る敵は、藍染惣右介と市丸ギン。
藍染と対峙する平子に加勢したいところだったが、
離れた位置で傍観するギンの存在が厄介だった。
いつ、どこから神鎗が伸びてくるか分からない。
迂闊に動けば、思わぬ隙を突かれかねない。
そのとき、紫乃の隣に平子が立った。
「紫乃、他の奴ら離しとき」
短い指示だった。
「真子さん……」
紫乃は隣に立つ平子を見上げた。
藍染から挑発を受け、
ひよ里が斬られた直後だというのに、
平子の表情は冷静だった。
その瞳には、怒りも憎しみもある。
けれど、それらに呑まれてはいなかった。
「真子さん、私も……!」
紫乃は共に戦おうと一歩踏み出した。
しかし、平子は藍染から目を離さないまま
「あかん。これは斬魄刀の相性の問題や。
共闘は出来ひん」
紫乃を断る。
紫乃は、平子の斬魄刀の能力を知らない。
だからこそ、相性が悪いという言葉が、
自分の能力を指しているのか、
それとも平子自身の能力を
指しているのかも分からなかった。
ただ、少なくとも自分が加われば、
平子の戦いを妨げることになるのだろう。
紫乃は一瞬だけ平子の顔を見つめ、
それからすぐに理解を示した。
「……分かりました」
余計な言葉はいらなかった。
今は、目の前の敵に集中すべき時だ。
紫乃は瞬歩を使い、その場から離れた。
平子は藍染と向き合ったまま、動かない。
やがて、二人の間に張り詰めた空気が、
戦いの始まりを告げるように揺らいだ。
紫乃はその場を離れながら、
視線だけをギンへと向けた。
彼は動こうとしなかった。
味方が倒されようと、藍染が平子と対峙しようと、
ただ少し離れた場所から眺めている。
口元には、いつもの薄らとした笑み。
その表情からは、
何を考えているのか読み取れなかった。
紫乃は一瞬、ギンと目を合わせる。
けれど、彼は何も語らない。
紫乃は視線を下へと落とした。
そこでは、吉良が重傷を負った
乱菊の治療を続けていた。
血に濡れた彼女の姿を見て、
紫乃は胸の奥に小さな痛みを覚える。
いつだったか、乱菊から聞いたことがあった。
市丸ギンとは、幼馴染なのだと。
長い時間を共に過ごし、
互いを知っていたはずの二人。
それなのに、乱菊を残して
ギンは藍染の側についた。
今では白い破面の衣を纏い、
かつての仲間たちに刃を向ける敵として、
そこに立っている。
「……ギンくん」
紫乃は、誰に聞かせるでもなく、その名を呟いた。
入隊して間もない頃から、
天才と呼ばれていた幼い死神。
あの頃の彼が、今のような未来を選ぶと、
誰が想像できただろう。
何故、藍染惣右介についたのか。
何を考え、何を望んでいるのか。
紫乃には、分からなかった。
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