偽りの希望


*




藍染と平子の戦いは、
あまりにもあっけなく終わった。

平子真子の斬魄刀、逆撫。

始解したその姿は、
直刀を基調としながらも、
柄頭には大きな輪状の持ち手が備わり、
刀身には五つの丸い穴が
穿たれた特異な形状をしている。

刀身から漂う甘い香り。
それを嗅いだ者は、
感覚器が捉えるあらゆる認識を逆転させられる。

上下、左右、前後。
視覚から得る情報も、
攻撃が飛んでくる方向も、
何もかもが反転する。

一度その能力に囚われれば、
相手の動きを見極めることすら困難になる。
理屈を理解したところで、
瞬時に反転した感覚へ対応するなど、
容易にできることではない。

それにもかかわらず、
藍染は逆撫の仕組みを見抜くと、
あっさりと対応してみせた。

すれ違いざま、平子の背中を斬り裂く。

「……っ!」

平子の体が揺らいだ。

百年の時を経て、ようやく刃を向けた仇敵。
その戦いは、あまりにも一方的なものだった。

「真子さん!」

紫乃が斬魄刀を握り直した、その時。

少し離れた場所で、
もう一つの戦いに決着がついていた。

狛村と檜佐木が、東仙を打ち倒したのだ。

仰向けに倒れた東仙は、
もう立ち上がることもできずにいた。

敗北した彼に、何が残されているのか。

長年の友であった狛村と、
かつての部下である檜佐木。
二人と言葉を交わす時間くらいは、
残されていてもよかったはずだった。

だが、藍染はそれすら許さなかった。

東仙の体に仕込まれていた装置が作動する。

次の瞬間、彼の命は唐突に奪われた。

「……東仙……!」

狛村の声が震えた。

かつての友が、目の前で命を落とした。
敵として刃を交えた今でさえ、
狛村にとって東仙は、
長い時を共に過ごした大切な友人だった。

その最期すら、藍染は自らの手で奪ったのだ。

「藍染!!」

怒りに満ちた咆哮が戦場に響き渡る。

東仙もまた、藍染の甘言に誘われ、
その計画に利用されていたのだろうか。

正義を掲げ、理想を信じ、
かつての仲間と袂を分かった男。
その末路がこれだというのなら、あまりにも惨い。

藍染は、誰に対しても絶望を与え続ける。

その非道さを目の当たりにするたび、
紫乃の中で憎しみが膨れ上がっていった。

その時だった。

空が裂けた。

突如として出現した黒腔。
その暗闇から、一つの影が飛び出す。

「藍染ッ!!」

黒崎一護だった。

一護は空中から藍染の背後を取り、
斬魄刀を振り下ろす。

完全な不意打ち。

藍染の首を刎ねるべく放たれた一撃だった。

しかし、その刃が届くことはなかった。

「……良い斬撃だが、場所が良くない」

藍染は振り返りもせず、
一護の一撃を受け止めていた。

「首の後ろは生物にとって最大の死角だ。
そんな場所に何の防御も施さず、
戦いに臨むと思うかい?」

涼しい顔でそう告げ、
藍染はようやく一護へと目を向けた。

「一護!」

平子が驚きの声を上げる。

待ち望んでいた援軍の到着。
しかし、平子の視線はすぐに
一護の背後へと移った。

「一護!織姫ちゃんは一緒じゃないんか!? 
助けに行ったんやろ!」

一護は平子を一瞥したあと、戦場全体を見渡した。

至るところに倒れ伏す死神たち。
傷つき、立ち上がることさえままならない者たち。

その光景を目にした一護は、わずかに目を細めた。

「織姫は助けたけど、ここには来ねえ。
でも大丈夫だ。卯ノ花さんも一緒に来てる」

その言葉に応えるように、
黒腔から卯ノ花烈が姿を現した。

四番隊隊長であり、治療に長けた彼女の到着は、
傷ついた者たちにとって大きな希望となる。

張り詰めていた空気に、わずかな安堵が広がった。

しかし、藍染の表情は少しも変わらなかった。

「黒崎一護…ウルキオラは失敗したようだね」

まるで、予想していた結果を
確かめるかのように呟く。

「然し、君はまだ甘い」

「なんだと……?」

一護が眉を寄せ、藍染と向き合う。

藍染は淡々と続けた。

「簡単なことさ。
なぜ黒腔から現れた時に
距離を取って月牙天衝を放たなかった? 
なぜ虚化して撃たなかった?」

一護の表情が険しくなる。

「私の隙を突いたと確信したのなら、
なぜ距離を置いたまま、
確実に首を刎ねる努力を怠った?」

藍染の言葉には、責めるような響きすらなかった。

ただ、冷徹な事実を指摘しているだけだった。

「最初で最後の隙を、君自身が潰したんだ」

一護は斬魄刀を握り締めた。

言い返す言葉が見つからなかったのか、
それとも悔しさを押し殺しているのか。
彼の表情には、強い憤りが浮かんでいた。

その時、張り詰めた声が響いた。

「一護、お前は下がっていろ!」

日番谷冬獅郎が、一護の前へと進み出る。

それに続くように、他の死神たちも動いた。

砕蜂、京楽、平子。
そして紫乃もまた、一護を守るように前へ出る。

仮面の軍勢も、負傷した者たちを除いて
藍染を包囲する位置についた。

「そいつの目的は、
言葉でこっちの心を乱すことだ。乗るな」

日番谷は一護を振り返ることなく告げた。

一護を前線から退かせる理由は、
単に負傷を避けるためではない。

卯ノ花の鬼道によって、
隊士たちの間には密かに情報が伝達されていた。

一護は切り札となる。

ここにいる者たちが前線で
藍染の攻撃を引き受け、隙を作る。
その一瞬を狙い、一護に決定打を与えさせる。

それが、彼らの考えだった。

「彼を守るつもりか?」

藍染は興味深そうに一護を見やった。

「何のために?」

「語るつもりはねえよ」

日番谷は短く切り捨て、
斬魄刀の切っ先を藍染へ向けた。

それ以上、誰も言葉を交わさなかった。

全員が油断を捨て、
藍染ただ一人に意識を集中させる。

そして、戦いが再び動き出した。

最初に仕掛けたのは、紫乃と砕蜂だった。

二人は瞬歩で左右へと散り、
異なる角度から藍染へと斬り込む。

紫乃の鉄扇が鋭い軌跡を描き、
砕蜂の刃がその隙間を縫うように迫った。

藍染は二人の攻撃を捌きながら、
絶え間なく位置を変える。

だが、二人の狙いは単純な斬撃だけではなかった。

攻撃を重ね、藍染の意識を分散させる。
そのわずかな隙を、別の者が突く。

砕蜂の影から、京楽春水が姿を現した。

「影鬼」

低く告げられた声と同時に、
京楽の斬魄刀が藍染の体を突き刺す。

完全な不意打ちだった。

しかし、藍染はすぐさま刀を動かし、
京楽の攻撃を受け止める。

その瞬間を、平子は見逃さなかった。

「逆撫」

始解の解放とともに、甘い香りが戦場に漂う。

藍染の感覚が反転する。

上下も左右も、前後も。
視覚から得る情報と、
実際の位置関係が食い違う。

京楽の攻撃を受け止めたばかりの藍染は、
さらに感覚を狂わされ、反撃の方向を見失った。

そこへ、日番谷が踏み込む。

「卍解――大紅蓮氷輪丸!」

冷気が一気に広がった。

氷を纏った日番谷が、藍染の死角へと回り込む。

逆撫によって狂わされた感覚では、
その動きを正確に捉えることはできない。

日番谷は迷いなく刃を振るった。

背後から、藍染の胸を貫く。

「……!」

刃が深々と突き刺さった。

紫乃と砕蜂と京楽、平子、日番谷。
それぞれが持つ能力を連携させ、
ついに藍染へと一撃を届かせたのだ。

これだけの戦力が揃い、
互いの能力を補い合えば、
あの藍染でさえ倒せるのではないか。

そう考えた者は、少なくなかっただろう。

一護が手を出すまでもない。

このまま押し切れる。

誰もが、そう思ったかもしれない。

しかし――。

彼らはまだ知らなかった。

この一撃さえも、
絶望の始まりにすぎないということを。








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