託す意志
*
「……」
重く暗い意識の底から、
紫乃はゆっくりと浮かび上がった。
瞼を開くと、視界いっぱいに
晴れ渡った空が広がっていた。
けれど、耳に届くのは穏やかな風の音ではない。
慌ただしく駆け回る足音と、
負傷者を案じる切迫した声が、
あちらこちらから響いていた。
「こっちにも増援を早く!」
「総隊長の治療を急ぐんだ!」
「雛森副隊長の救命も急げ!」
聞こえてくる声から察するに、
四番隊が救護活動を始めているらしい。
では、戦いは終わったのだろうか。
藍染はどうなった?
紫乃は温かな回道の光に包まれながら、
痛む身体をゆっくりと起こした。
「は、花房副隊長!動かないでください!」
傍らで治療を施していた四番隊の隊士が、
驚いて声を上げる。
紫乃は構わず、かすれた声で尋ねた。
「……藍染は?」
「藍染は、尸魂界に転送された空座町に……」
隊士は言い淀みながらも、恐る恐る答えた。
その言葉を聞いた瞬間、紫乃の目が見開かれた。
傍らに置かれていた斬魄刀へと手を伸ばし、
柄を握り締める。
「止めなくては……」
紫乃は身体を起こし、ゆっくりと立ち上がった。
「お待ちください!
藍染は黒崎一護が追っています!
彼を信じましょう!」
隊士が慌てて立ち上がり、
紫乃を引き留めようとする。
「あなたはまだ動ける状態ではありません!
傷も、ようやく止血ができただけです!
他の怪我も残っています!」
必死の訴えだった。
けれど、紫乃の耳には届いていなかった。
目の前にいる隊士の姿さえ、
今の彼女には映っていない。
「藍染……!」
胸の奥で、憎しみが燃え上がる。
藍染に人生を弄ばれていたかのように告げられたこと。
仲間たちを傷つけられたこと。
そして、何一つ決着をつけられなかったこと。
今の紫乃に残されているのは、
藍染への憎悪だけだった。
足が自然と動き出す。
ふらつく身体を支えながら、紫乃は走り始めた。
目指すのは、尸魂界へと繋がる穿界門。
「花房副隊長!お待ちください!」
背後から、なおも呼び止める声が追いかけてくる。
それでも、紫乃は振り返らなかった。
百一年前から背負い続けてきたものに、
今度こそ決着をつける。
その一念だけが、彼女を突き動かしていた。
その途中、治療を受けていた平子が、
走り抜けていく紫乃の姿を見つけた。
「紫乃!その傷でどこ行くんや!紫乃!!」
平子の声が響く。
しかし、紫乃は立ち止まらない。
平子は、遠ざかっていく彼女の横顔を見つめた。
その顔には、いつもの落ち着きも、
余裕もなかった。
ただ、冷たいほどに
一つの目的だけを見据えている。
その瞳に宿っていたのは、深い憎しみだった。
「…紫乃……」
平子は追いかけようとしたが、
傷ついた身体は思うように動かなかった。
紫乃の背中が、遠ざかっていく。
「ッ…ハァ…ハァ……!」
走るたびに呼吸が乱れ、
深く息を吸い込むだけで胸に激痛が走った。
左腕は折れたまま、力を入れることすらできない。
身体のあちこちが悲鳴を上げ、視界も時折揺らいだ。
それでも、足を止めることはなかった。
やがて、紫乃は穿界門へとたどり着く。
そこから先にあるのは、
尸魂界へ転送された本物の空座町。
紫乃は斬魄刀を握り直し、門をくぐった。
◇
穿界門を抜けた瞬間、
紫乃は異様な霊圧を感じ取った。
一つは、
これまで感じたこともないほど重い霊圧。
そして、もう二つ。
今にも消えてしまいそうなほど弱々しい霊圧だった。
紫乃は呼吸を整えながら、その反応を追う。
やがて、崩れた建物と瓦礫が
散乱する場所へとたどり着いた。
そこにいたのは、
全身を白い膜のようなもので覆われた、
人の形をした異形。
その近くには、瓦礫の上に横たわる
ギンの姿があった。
そして、彼に覆いかぶさるようにして、
乱菊が泣いていた。
「……ギンくん…それに、乱菊……」
紫乃は息を切らしながら、目の前の光景を見つめた。
何が起きたのか。
ギンはなぜ倒れているのか。
乱菊は、なぜあれほど悲痛な声を上げているのか。
問いが次々と浮かぶ。
しかし、それらの答えを探すよりも先に、
白い異形が紫乃の存在に気づいた。
ゆっくりと、その身体がこちらを向く。
「花房紫乃……」
声を聞いた瞬間、紫乃は目を細めた。
姿形は変わっていても、
その声を聞き間違えるはずがない。
「……藍染。その姿は…」
紫乃が問いかけると、
藍染は自身の身体を確かめるように
視線を落とした。
「素晴らしいだろう?」
その声には、隠しきれない陶酔が滲んでいた。
「私は崩玉の力によって、死神でも虚でもない。
両方を完全に超越した、完璧な存在となった」
全身を白い膜に覆われた藍染。
その顔からは、以前の面影さえ読み取りにくい。
それでも、その声と、紫乃を見下ろす気配は
紛れもなく藍染惣右介のものだった。
紫乃は直感した。
勝てない。
目の前にいる存在は、
これまで対峙してきた藍染とは明らかに違う。
重い霊圧を前に、身体の奥底から震えが込み上げる。
傷ついた身体が、本能的に敗北と死を告げていた。
勝ち目などない。
そう理解していた。
それでも、紫乃には退くという選択肢がなかった。
震える右手を伸ばし、斬魄刀の柄を強く握り締める。
「……聡明だった君なら、分かるだろう?無謀だと」
藍染は、まるで落胆したかのように言った。
かつては聡明だった。
その言い回しに、紫乃は奥歯を噛み締める。
今の自分は愚かだとでも言いたいのか。
勝ち目のない戦いに身を投じることさえ、
彼にとっては嘲笑の対象なのだろう。
紫乃は、真っ直ぐに藍染を睨みつけた。
「お前が立つ世界で生きる理由など無い……!」
一言一言、はっきりと告げる。
それは、藍染に対する拒絶だった。
自分の人生を弄び、他人の心を踏みにじり、
絶望を与え続ける男。
そんな男が支配する世界など、紫乃は認めない。
藍染は、わずかに目を細めた。
「そうか……。なら、
望み通り私の世界から消してやろう」
右手が持ち上がる。
紫乃は即座に宵椿を構えた。
しかし、次の瞬間。
凄まじい爆発音とともに、
激しい風圧が周囲を蹂躙した。
「……っ!」
紫乃の身体が衝撃に煽られる。
同時に、もう一つの重い霊圧が現れた。
藍染と紫乃の間に、
黒い死覇装を纏った人影が立つ。
風に揺れる、長く伸びた黒髪。
激しい威力から紫乃を庇うように、
男はその前に立ちはだかっていた。
砂埃が舞い上がり、視界が白く染まる。
やがて風が収まり、砂埃が晴れた。
紫乃はゆっくりと顔を上げ、
自分の前に立つ人物を見つめた。
「ッ……一護くん!?」
間違えるはずがなかった。
黒崎一護。
けれど、目の前にいる彼は、
紫乃の知る姿とは大きく異なっていた。
背中まで長く伸びたオレンジ髪。
以前とは明らかに違う、引き締まった身体つき。
そして、周囲を圧するほどの霊圧。
何があったのか。
一護は、今の藍染の攻撃を受け止めたのか。
それとも、攻撃そのものを打ち払ったのか。
紫乃が呆然としていると、一護は振り返った。
「大丈夫か? 紫乃さん」
その表情には、余裕さえ感じられた。
紫乃は返事をすることも忘れ、ただ彼を見つめた。
先ほどまで、あれほど圧倒的な力を前に、
死を覚悟していたというのに。
一護は、まるで何事もなかったかのように立っている。
「黒崎一護……。何だ、その姿は」
藍染が問いかけた。
一護はゆっくりと藍染へ向き直る。
「藍染……その言葉、
そっくりお前に返してやるよ」
その声には、迷いがなかった。
紫乃には、何が起きたのか分からない。
それでも、今の彼が以前とはまるで違うことだけは、
はっきりと分かった。
その時、一護の視線がわずかに横へと動いた。
瓦礫の上に横たわるギンと、彼に寄り添う乱菊。
一護は、ギンと目が合った。
ギンの目が、かすかに動く。
その眼差しには、もはや敵意も、
いつもの薄ら笑いもなかった。
ただ、目の前の男を見つめていた。
今の一護なら、任せられる。
言葉にはならないその思いを残し、
ギンは静かに目を閉じた。
そして、二度と目を開くことはなかった。
「…ギン……!」
乱菊の声が、かすかに震えた。
紫乃は息を呑んだ。
ギンが、死んだ。
長い年月を経て、幾度となく
顔を合わせてきた死神が、
今、目の前で命を落とした。
彼が何を考え、何を目的として
藍染に従っていたのか。
紫乃には、最後まで分からなかった。
その答えを聞くことも、もうできない。
「何を企んでいようとも、無駄だ、」
藍染が言葉を続けようとした、その瞬間だった。
一護の姿が、紫乃の視界から消えた。
「……!」
次の瞬間、藍染の姿も消えていた。
まるで、二人とも初めから
そこにいなかったかのように。
紫乃は、すぐさま霊圧を探る。
二つの重い霊圧が、一気に遠ざかっていく。
「まさか……藍染を連れて、
この場から引き離したの……?」
紫乃は呆然と呟いた。
あれほどの力を持つ藍染を、
真正面から相手にしていた一護が、
戦場そのものを移したのだ。
まさか空座町の被害を抑えるために。
そこまで余裕のある行動に、紫乃は驚く。
そしてその場に残された紫乃の耳に、嗚咽が届いた。
振り返ると、乱菊がギンの亡骸にすがりつき、
声を押し殺して泣いていた。
紫乃は、ゆっくりと視線を落とす。
手の中には、斬魄刀が握られたままだった。
あの場で一護が割って入らなければ、
自分は死んでいたかもしれない。
いや、きっとそうだった。
それでも、構わなかった。
藍染を倒すことだけが、
今の紫乃にとって残された意味だった。
その目的さえ果たせず、
何のために生きるのかも分からなくなっていた。
けれど、一護は戦っている。
どれほど絶望的な相手であろうと、
どれほど大きな代償を払うことになろうと、
彼は藍染に立ち向かっていった。
紫乃は、固く握り締めていた斬魄刀の柄から、
ゆっくりと力を抜いた。
自分には、もう戦う力が残されていない。
今、できることは何もない。
それでも。
「……一護くん……」
紫乃は、遠ざかっていく霊圧の方角を見つめた。
どうか、無事で。
そして、どうか。
あの男を止めてほしい。
紫乃は、一護を信じるしかなかった。
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