ようやく
*
現世では、総隊長や隊長格、
そして仮面の軍勢のもとにも
四番隊の救護班が駆けつけ、
負傷者たちの治療に当たっていた。
幸いにも、護廷十三隊に殉職者は出なかった。
そして、瀕死の重傷を負ったひよ里もまた、
卯ノ花の治療によって一命を取り留めていた。
「これで、一先ずは大丈夫でしょう」
治療を終えた卯ノ花が、静かに姿勢を正す。
「一先ずって……助からへんかもしれんの!?」
傍らにいたリサが、焦った様子で声を上げた。
卯ノ花は動じることなく、
淡々とした口調で説明する。
「鬼道にできることは、医療と変わりありません。
身体の損傷は修復しました。あとは、
彼女自身が生きることを諦めなければ、
いずれ目を覚ますでしょう」
そこで一度言葉を切り、
卯ノ花は仮面の軍勢へと目を向けた。
「彼女が生きることを諦めるかどうかは、
私よりも貴方方のほうが、よくご存じのはずです」
その場にいた全員が、ひよ里の顔を見た。
あの気の強さ。何があろうと
簡単には折れない意地っ張りな性格。
どれほど追い詰められようと、
最後まで食らいついていく負けん気の強さ。
ひよ里が、こんなところで
生きることを諦めるはずがない。
誰もが同じことを思っていた。
それなら、大丈夫だ。
張り詰めていた空気がわずかに緩み、
皆が安堵の息を吐いた。
「………おおきにな、卯ノ花さん」
治療を終えた平子が、卯ノ花に礼を告げる。
しかし、卯ノ花は不思議そうに首を傾げた。
「……何故、お礼を言うのですか?」
そう言いながら、
彼女は次の負傷者のもとへ向かうため、
平子に背を向ける。
「『仲間』の命を救うのに、
お礼の言葉などいりません」
その言葉に、平子はふと視線を落とした。
仲間。
百年以上もの間、死神とは異なる場所で
生きてきた自分たちを、彼女はそう呼んだ。
「………仲間のつもりないわ、ボケェ」
小さく呟き、平子は苦笑する。
「……って、ひよ里やったら言うやろなァ」
目を閉じれば、
いつもの憎まれ口まで容易に思い浮かんだ。
そして平子は、立ち去ろうとする
卯ノ花の背中へ、もう一度声をかける。
「……おおきにな、卯ノ花さん」
今度は、先ほどよりも幾分か穏やかな声だった。
けれど、ひよ里の命が繋がったからといって、
平子の胸に残る不安が消えたわけではなかった。
藍染を追って尸魂界へ向かった紫乃。
彼女が無事なのか、今も生きているのか。
それすら分からない。
生きていてくれれば、それでいい。
ただ、それだけだった。
たとえ無事であったとしても、
以前のように何事もなかったかのように
喜びを分かち合えるとは限らない。
死神と、仮面の軍勢。
百年以上の時を経ても、
その隔たりが消えたわけではなかった。
アジトの倉庫で紫乃と再会したとき、
壁を作ったのは自分だった。
自分たちはもう味方ではない。
そう告げて、彼女を突き放した。
藍染を倒した今、
その因縁に決着がついたとしても、
死神と仮面の軍勢の関係が
これからどうなるのかは分からない。
そんな状況で、何もかも忘れて
彼女のもとへ駆けつけることが、
本当に許されるのだろうか。
平子がひとり考え込んでいると、
リサが何気ない調子で声をかけた。
「真子、紫乃のところ行かなくてええんか?」
「……アホか」
平子は、がくりと肩を落とした。
「尸魂界に行ってんねん。
俺らが出入りできるわけないやろ」
「今ならバレへんやろ」
「お前と違うねん」
平子が呆れたように返すと、
リサはさして気にした様子もなく肩を竦めた。
「でも、藍染を倒した今、
僕らってどうなるんだろうね」
ローズが、静かに口を開いた。
その問いかけに、皆の視線が集まる。
「どうなるって、そりゃあ……」
羅武が言葉を選ぶように頭を掻く。
「またアジトに戻って、
のんびり現世暮らしに戻るだけだろ」
治療を終えた白の傍らで、
六車があっさりと答えた。
「えー! 功績なしぃー!?」
白が不満そうに声を上げる。
「まぁ……因縁を果たせただけでも金星だよな」
羅武はそう言って、ひとまず納得したようだった。
誰もが長い年月を費やし、
ようやく辿り着いた決着。
それでも、
明日からどうなるのかは誰にも分からない。
「……どうなんやろな」
平子もまた、答えを持たないまま呟いた。
そのときだった。
ガラッ、と。
崩れた瓦礫を踏み越える音が、
静まり返った一角に響いた。
平子は顔を上げる。
瓦礫の向こうから、
ひとりの死神がこちらへ歩いてくる。
斬られた傷を負い、血に汚れた死覇装は
あちこちが破れていた。
胸元を押さえる手にも力が入らず、
一歩進むごとに身体がわずかに揺れる。
それでも、その足は止まらなかった。
見間違えるはずがない。
「……紫乃」
平子の声が、思わず零れた。
尸魂界へ向かったはずの彼女が、
今、目の前にいる。
驚きに目を見開いた次の瞬間、
平子は勢いよく立ち上がった。
「お、お前、尸魂界からまた
こっち戻ってきたんか!?何無茶してんねん!
傷だって完治してへんのに、こんな身体で……!」
矢継ぎ早に言葉を浴びせる平子をよそに、
紫乃はゆっくりとひよ里の前まで歩み寄った。
そして、息を整えるように一度目を伏せると、
その場に腰を下ろした。
「真子さん……ひよ里さんは……」
最初に尋ねたのは、自分の傷のことでも、
藍染のことでもなかった。
ひよ里の安否だった。
その一言で、平子は彼女が
何のために戻ってきたのかを悟った。
平子も紫乃の隣に再び腰を下ろし、
二人でひよ里を見ながら答えた。
「……あとは、ひよ里次第や。
アイツなら、こんなところで絶対死なへん。
大丈夫や」
「そう……ですか……」
紫乃は小さく息を吐いた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
平子の顔を見て、リサを見て、羅武、ローズ、
六車、白、鉢玄へと視線を移していく。
ひとりずつ、その姿を確かめるように。
誰も欠けていない。
傷ついてはいても、皆、生きてここにいる。
その事実が胸に落ちた途端、
紫乃の肩からふっと力が抜けた。
「……良かった……」
かすれた声が零れる。
「……皆さんが無事で、良かった……」
ひとつひとつの言葉を噛み締めるように、
紫乃は呟いた。
その姿を見つめる仮面の軍勢もまた、
胸の奥に込み上げるものを感じていた。
誰もが、長い年月をかけて
追い続けた因縁に決着をつけた。
失いかけたものはあった。
もう戻らないものもある。
それでも、こうして生きて、
同じ場所に立っている。
今はそれだけで、十分だった。
残るは、ひよ里が目を覚ますこと。
彼女がいつもの調子で
文句を言いながら戻ってくる日を、
皆が待ち続ける。
しかし、紫乃は安堵したのも束の間、
再び立ち上がろうとした。
「……どこ行くねん」
平子が問いかける。
「桃や、浮竹隊長の様子も見に行かないと……」
紫乃は当然のように答えた。
自分の身体がどれほど傷ついていようと、
誰かの無事を確かめることが先だった。
それは昔から変わらない。
いつだって、自分のことは後回しにしてしまう。
その危うさを知っているからこそ、
平子は立ち上がった紫乃の手を取った。
「四番隊が救護に当たっとる。
桃って子も、四番隊の副隊長さんが
見てくれとるから、大丈夫や。安心して休み。
お前も治療せなあかんやろ」
手を握る力は強くない。
けれど、
今は行かせないという意思が、
その指先から伝わってきた。
「でも……」
紫乃は言い淀んだ。
頭に浮かぶのは、
死神と仮面の軍勢との関係だった。
戦いは終わった。
けれど、だからといって
百年以上もの隔たりが消えるわけではない。
これから、自分たちはどうなるのだろう。
どこまで関わっていいのだろう。
今までのように接していいのか。
それとも、再びそれぞれの場所へ戻るべきなのか。
何を望んでいいのかさえ、紫乃には分からなかった。
そして、平子もまた、
彼女に会うまでは同じことを考えていた。
藍染を倒した後、自分たちがどうなるのか。
死神との関係はどう変わるのか。
百年以上も断ち切られていた繋がりを、
今さら何事もなかったように結び直せるのか。
答えなど、出るはずもなかった。
けれど、紫乃が目の前に現れた瞬間、
そんなことはどうでもよくなっていた。
彼女は生きていた。
自分たちの無事を確かめるために、
傷ついた身体を押してここまで戻ってきた。
それだけで、胸の奥に凝り固まっていたものが、
少しずつほどけていく。
藍染に勝った。
ようやく、因縁を果たせた。
その喜びを分かち合うのに、
余計な理屈などいらなかった。
平子は紫乃の手を握ったまま、
真っ直ぐに彼女を見つめた。
「紫乃」
呼ばれて、紫乃は目を合わせる。
「……やっと終わったんや」
平子の声には、いつもの軽さがなかった。
冗談めかすことも、茶化すこともせず、
ただ真っ直ぐに彼女へと告げた。
「もう、終わったんやで」
その言葉が、紫乃の胸の奥へと届いた。
終わった。
百一年前のあの夜から、ずっと続いていたもの。
何も知らず、真実に辿り着くこともできず、
大切な人たちが罪人として追われていくのを
止められなかった。
自分は何もできなかった。
気づけなかった。
守れなかった。
その無力さを、紫乃はずっと
自分の中に抱え続けてきた。
平子たちが姿を消してからも、
二番隊を追われてからも。
都と海燕を失ってからも。
誰かを失うたび、
立ち止まることを許さず、
前を向くことでしか自分を保てなかった。
けれど、今は。
目の前に、平子がいる。
生きて、ここにいる。
その事実を、
ようやく心の底から
受け止めることができた。
紫乃の膝から力が抜けた。
崩れ落ちるように地面へ膝をつき、
平子の胸に、動かせる右手をそっと添える。
そして、その顔を埋めた。
「真子さん……!」
絞り出すような声だった。
次の瞬間、押し込めてきた感情が
堰を切ったように溢れ出した。
涙が頬を伝い、平子のシャツを濡らしていく。
紫乃が人前で涙を見せたところを、
誰も見たことがなかった。
浦原や平子たちが逃亡したときも。
二番隊を追放されたときも。
都と海燕を失ったときも。
悲しみを抱えながらも、
彼女は決して泣かなかった。
泣くことよりも、やるべきことがあった。
立ち止まることよりも、
守らなければならないものがあった。
そうして
自分の感情を押し込め続けるうちに、
いつしか涙を流すことさえ
忘れてしまったのかもしれない。
百一年前から止まっていた時間。
失ったと思っていた人たちへの思い。
もう二度と会えないのだと、
自分に言い聞かせてきた日々。
それらが、平子の胸に触れた瞬間、
ひとつひとつ蘇ってくる。
紫乃は声を抑えようともしなかった。
今まで誰にも見せられなかった悲しみも、
会いたかったという思いも、
胸の奥にしまい込んできた悔しさも。
すべてが涙となって溢れていく。
平子は、何も言わなかった。
ただ、紫乃の背中に片腕を回し、
そっと抱き止める。
傷ついた身体に触れないよう、慎重に。
彼女が泣き止むのを急かすことも、
理由を尋ねることもせず、ただそこにいた。
背中を添える手は、ひどく優しかった。
その温もりに触れるたび、
紫乃の張り詰めていた心が、
少しずつほどけていく。
ずっと、ひとりで立ってきた。
誰かを失うたびに、
残された自分が立ち止まるわけにはいかないと、
前を向いてきた。
けれど、本当は。
悲しかった。
会いたかった。
失いたくなかった。
その気持ちを、誰かに受け止めてほしかった。
平子の腕の中で、紫乃は泣き続けた。
平子もまた、何も言わずに彼女を抱き締めていた。
百年以上の歳月が、二人の間に横たわっていた。
簡単に埋められるものではない。
失われた時間も、
取り戻せない人たちも、
決してなかったことにはできない。
それでも、
今はこうして互いの温もりを
確かめることができる。
それだけで、十分だった。
周囲の者たちも、
二人に声をかけることはなかった。
リサは静かに目を伏せ、羅武もローズも、
六車も白も鉢玄も、ただ二人を見守っていた。
誰もが、長い戦いの終わりを噛み締めていた。
やがて紫乃が泣き止むまで、
平子はその背中を抱き止め続けた。
もう、無理に立ち続けなくてもいい。
今だけは、誰かに寄りかかってもいい。
紫乃はようやく、
自分自身にそう許すことができた。
.