柿の木
*
「これで以上ですか?」
「うん。ありがとう」
三番隊隊舎に到着し、
隊士たちへの挨拶を済ませた紫乃は、
吉良やほかの隊士たちに手伝ってもらいながら、
隊首室へ荷物を運び込んだ。
もともと物に対するこだわりが薄く、
持ち物も少ない。
おかげで引っ越しはあっという間に終わった。
広々とした隊首室には、
必要最低限の物しか置かれていない。
以前からここに暮らしていた者の気配を
感じさせるものはなく、部屋は余計に広く見えた。
それでも、ここで市丸ギンが暮らしていたことに
変わりはない。
隊首室を出ると、庭に一本の柿の木が立っていた。
大きく枝を広げているものの、
まだ冬の名残を感じさせる枝には葉もなく、
静かに空へ伸びている。
紫乃は足を止めた。
「あれは?」
気になって尋ねると、吉良は柿の木に目を向けた。
「あれは……」
どこか言いづらそうに言葉を切る。
少し迷った後、吉良は静かに答えた。
「前隊長が育てていた、柿の木です」
前隊長――市丸ギン。
その名を聞かずとも、紫乃には分かった。
柿の木と聞いて、
真っ先に思い浮かんだのは干し柿だった。
確か、実が熟す時期になると、
ギンは自分で干し柿を作り、
周囲の者たちに配っていた。
紫乃も過去に何度かもらったことがある。
ねっとりとした柔らかな食感と、
凝縮された濃厚な甘さ。
あの独特の味わいは、今でもよく覚えていた。
「ふ、不必要であれば……処分しますか?」
吉良が遠慮がちに尋ねる。
紫乃は彼へ視線を向けた。
処分するなど、
吉良自身が一番望んでいないことだろう。
そうでなければ、こんなにも
言いづらそうな顔はしないはずだ。
紫乃は柿の木を見つめ、穏やかに微笑んだ。
「残しておこう。あれは……
彼が大切にしていたものだから」
その言葉を聞いた吉良は、
ほっと胸を撫で下ろした。
「でも、私、干し柿の作り方は知らないんだ」
紫乃は改めて柿の木を見上げる。
「時期になったら、
干し柿の作り方を教えてくれる?」
吉良は一瞬、目を見開いた。
やがて、その瞳にじわりと涙が滲む。
紫乃に気付かれないよう、そっと袖で拭った。
「実は、僕も知らなくて……。
仕事を押し付けられていたので」
「ふふっ……それは困った隊長だったね」
紫乃が小さく笑うと、
吉良もわずかに口元を緩めた。
「ですが、ほかの隊士たちも手伝っていたので、
聞けば分かると思います」
「じゃあ、皆で時期になったら作ろうか」
紫乃の声は、どこまでも優しかった。
ギンが残したものを、
ただ過去の思い出として遠ざけるのではなく、
これからも大切にしていく。
その言葉が、吉良の胸に静かに染み込んでいった。
二人はしばらく、
冬の風が残る庭で柿の木を眺めていた。
葉のない枝は、春の訪れを待つように
空へと広がっている。
「あ……」
ふいに紫乃が声を漏らした。
「イヅル」
柿の木を見つめたまま、吉良の名を呼ぶ。
「はい」
「私……イヅルに、
覚えておいてほしいことがあったんだった」
紫乃は吉良へ顔を向けた。
「覚えておくこと、ですか?」
「うん。頭の片隅に置いておいて、
ふとしたときに思い出してほしいこと」
どこか含みのある言い方に、
吉良は自然と身構えた。
隊長に就任したばかりの紫乃が、
副隊長である自分に何を伝えようとしているのか。
これからの仕事に関わる重要な話なのだろうか。
そんな吉良の様子を見て、紫乃は静かに口を開いた。
「……これから先、
私に強い忠誠心はいらないから」
その瞬間、二人の間を冷たい風が吹き抜けた。
紫乃の長い髪が揺れ、
吉良の死覇装の裾がはためく。
「……え?」
突然の言葉に、吉良は困惑を隠せなかった。
紫乃はそんな彼を見て、
申し訳なさそうに微笑んだ。
「……ごめんね。困らせるつもりはなかったの」
そして、言葉を選ぶように続けた。
「隊長と副隊長という立場だから、
難しいことだとは思う。
副隊長は隊長を支える事が役目であり、
隊長の命令には疑う事なく従う。
忠誠心が強ければ強いほど当然のように」
紫乃は一度言葉を切り、吉良の表情を確かめた。
「でも、それだけだと視野が狭まってしまう。
目の前にあるものしか見えなくなって、
本当なら気付けるはずのことにも、気付けなくなる」
吉良の視線が、ゆっくりと落ちた。
自分にも、思い当たる節があった。
隊長の判断を信じ、その言葉に従うこと。
それ自体は、副隊長として当然のことだと思っていた。
けれど、信じることと、疑うことを
やめることは同じではない。
その違いを、吉良は誰よりも痛感していた。
「私にも、そういうところがあったの」
紫乃は目を伏せた。
「藍染に、そこを突かれるところだった」
あの男に見抜かれた、自分自身の弱さ。
信じることに疑いを持たず、
相手の言葉の裏にあるものを見落としてしまう。
その危うさを、紫乃もまた身をもって知っていた。
吉良は何も言わず、彼女の話に耳を傾けていた。
「だから、イヅルに求めているのは、
私の言うことに何でも従うことじゃない」
紫乃は再び顔を上げ、吉良を真っ直ぐに見つめた。
「私の考えに納得できないなら、
きちんと理由を話してほしい。
私が間違っていると思うなら、
そう言ってほしいの」
そして、ほんの少しだけ微笑んだ。
「半歩先を歩く私を、
何かあれば呼び止めてほしい。それだけ」
吉良の胸が熱くなった。
隊長と副隊長。立場の上では、明確な上下関係がある。
それでも紫乃は、自分をただ命令に従うだけの
部下として扱おうとはしなかった。
自分の判断を疑い、
異なる意見を述べることさえ認めてくれている。
それは、部下として信頼されているということだった。
ギンを信じていた自分を責めることもなく、
過去の過ちを突き付けることもない。
紫乃はただ、これから共に歩んでいく自分に向けて、
この先のことを話してくれている。
その思いが嬉しくて、
吉良はすぐに返事をすることができなかった。
沈黙が続き、紫乃は少し困ったように眉を下げた。
「……これが最初の隊長命令
だって言えば、従ってくれる?」
冗談めかした問い掛けだった。
吉良ははっと顔を上げた。
目元に滲んだ感情を振り払うように、姿勢を正す。
「はい……!」
その声には、先ほどまでとは違う力強さがあった。
紫乃は満足そうに微笑んだ。
隊長に着任して、まだ一日目。
それでも、二人の間には
確かな信頼が芽生え始めていた。
命令する者と従う者というだけではない。
互いの考えを伝え、時には立ち止まり、
間違いがあれば指摘し合える関係。
紫乃は、そんな隊を作っていきたいと思っていた。
そのとき、隊舎の方から声が響いた。
「花房隊長ー!」
呼ばれて振り返ると、
一人の隊士がこちらへ駆けてくる。
「二番隊の大前田副隊長が、
隊長就任祝いを持って来られました!」
「ああ、そういえば、
お祝いのお酒をいただけるんだった」
紫乃は思い出したように呟き、
隊舎へ戻ろうと足を踏み出した。
「大前田副隊長から、ですか……?」
吉良は意外な名前に目を瞬かせた。
「うん。そのお父上には、
二番隊にいた頃にお世話になっていたから」
紫乃は振り返り、吉良に笑い掛けた。
「きっと良いお酒だろうから、
今夜は着任祝いに一緒に飲もう」
「はい!」
吉良も嬉しそうに返事をした。
しかし、紫乃の背中を見送った直後、
吉良の表情がふと強張った。
――待てよ。
紫乃の酒癖を、吉良は知っていた。
普段は落ち着いていて、
どこか余裕さえ感じさせる彼女だが、
酒が入ると様子が一変する。
距離感が近くなり、普段なら口にしないような
言葉まで惜しみなく伝えてくる。
そして最後には、酔い潰れてしまうのだ。
そんな紫乃と、二人きりで酒を飲む。
それは、いくら何でも危険なのではないだろうか。
かといって、これから新隊長として
隊を牽引していく紫乃の醜態を、
ほかの隊士たちに見せるわけにもいかない。
ならば、取るべき行動は一つだった。
「……あの、花房隊長!」
吉良は慌てて紫乃を呼び止めた。
紫乃が振り返る。
「ん?」
「せっかくのお祝いですから……
その、ほかの隊長や副隊長たちも誘って、
皆で飲みませんか?」
紫乃は一瞬きょとんとしたが、
すぐに柔らかく笑った。
「みんな、しばらくは新しい立場に慣れるまで
忙しいだろうし、それはまた後日にしようよ」
「そ、そうですか……」
「今日は二人でゆっくり飲もう。
親睦を深めるのも兼ねてね」
紫乃はそう言って、再び歩き出した。
吉良はその背中を見つめながら、
思わず唾を飲み込んだ。
意見を述べることは許されても、
必ずしも受け入れてもらえるわけではない。
ならば、紫乃を説得するにはどうすればいいのか。
ただ反対するだけではなく、
納得してもらえる理由を考えなければならない。
先ほど紫乃が話していたことが、
早くも身に染みて理解できた気がした。
結局、その夜、吉良は紫乃と二人きりで
酒を飲むことになった。
紫乃の酒癖に振り回され、
そして夜が更ける頃には、
二人そろって紫乃の部屋で酔い潰れてしまった。
こうして、花房紫乃の隊長就任初日は、賑やかで、
少しばかり騒がしい終わりを迎えたのだった。
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