宴の始まり


*





紫乃が三番隊隊長に着任して数日後。
昼下がりの執務室には、紙をめくる音と
筆を走らせる音が静かに響いていた。

隊長に就任したばかりとはいえ、
紫乃の仕事ぶりは相変わらずだった。
書類の確認から決裁まで手際よく進め、
傍らでは副隊長の吉良が
処理の終わった書類をまとめている。
瀞霊廷全体も落ち着きを取り戻しており、
隊舎にはどこかのんびりとした空気が漂っていた。

そんな静寂を破ったのは、
廊下から響いてきた聞き慣れた声だった。

「花房隊長〜!」

語尾を長く伸ばした声が、こちらへ近づいてくる。

そして、返事を待つ間もなく、
執務室の障子が勢いよく開いた。

「花房隊長!」

もう一度、元気よく名前を呼びながら
顔を覗かせたのは、松本乱菊だった。

「乱菊さん、いきなり開けないでください」

書類をまとめていた吉良が、
困ったように眉を寄せる。

しかし、注意された当人はまるで
気にした様子もなく、室内を見回した。

「あら、イヅルが暇そうなの珍しいわね」

「花房隊長の仕事が早くて、正直、
やることが男性死神協会関連しかないんだよ……」

吉良は少し寂しそうに呟いた。

実際、紫乃が隊長に就任してからというもの、
彼女は三番隊の業務を驚くほどの速さで片づけていた。
吉良が副隊長として担う仕事まで
奪っているわけではないが、
紫乃自身が処理できる案件が多いため、
結果として彼の手が空くことも少なくなかった。

「ほら、瀞霊廷全体が落ち着いているし…
閑散期なんだよ」

紫乃は筆を動かす手を止め、
穏やかな声で吉良を慰めた。

「それはそうなんですけどね……」

納得はしているものの、
どこか釈然としない様子の吉良に、
紫乃は小さく微笑む。

「ところで、そんなに慌ただしくして、
どうしたの?」

紫乃が筆を置いて尋ねると、
乱菊の顔がぱっと明るくなった。

「あっ、そうそう!花房隊長、今夜暇ですか? 
久々に飲みに行きましょうよー!」

待ってましたと言わんばかりの勢いで、
乱菊が誘いを持ちかける。

すると、それまで落ち着いていた
紫乃の表情も明るくなった。

「いいね。行こうか」

「やった!じゃあ、イヅル! 
あんたも来なさいよ!」

乱菊は、思い出したように吉良へ顔を向けた。

「い……いや、僕はその……」

突然誘われた吉良は、
言葉を濁しながら紫乃へ視線を向ける。

断るべきか、それとも参加するべきか。
そんな迷いが顔に出てしまっていた。

その様子に気づいた紫乃が、優しく微笑む。

「イヅルもおいで」

「ぐっ……」

吉良の身体が、目に見えて固まった。

「い、行きます」

結局、吉良は誘いを受けることにした。

紫乃から直接誘われてしまえば、
断るという選択肢はなかったらしい。

そんな吉良の反応を見て、
乱菊は内心で察しをつけた。

なるほど。どうやら酒絡みで、
二人の間に何かあったらしい。

いや、何かあったというよりも、
吉良が花房隊長の艶上戸に
すっかりやられてしまったのだろう。

紫乃が酔うと普段よりも人懐こくなり、
相手との距離が近くなることを、
乱菊はよく知っている。
甘い言葉まで口にするものだから、
慣れていない者なら平静ではいられない。

吉良の反応を見る限り、
思い当たる節があるのは間違いなさそうだった。

もっとも、乱菊にとっては、
こうして眺めている分には面白い話である。
わざわざ本人に確認する必要もない。

「じゃあ、いつもみたいに修兵達も誘いますね! 
九番隊隊長もついでに誘うんで、
五番隊隊長も誘っちゃいますね!」

言いたいことを一息に告げると、
乱菊は返事を待つこともなく、
嵐のような勢いで執務室を出ていった。

残された紫乃と吉良は、
しばし無言で開け放たれた障子を見つめた。

「……隊長たちをついで扱いするなんて」

吉良が呆れたように呟く。

あまりにも乱菊らしい、自由奔放な誘い方だった。

やがて吉良は、ふと思い出したように
紫乃へ視線を戻した。

「平子隊長や六車隊長も参加されますかね……?」

「二人ともお酒は好きだし、参加すると思うよ。
昔も何度か飲みに行っていたから」

紫乃は特に気にした様子もなく答えた。

「じゃあ、花房隊長の酒癖も知っているのか……」

吉良は思わず小さく呟いた。

「え?」

「い、いえ! 何でもありません……!」

紫乃に聞き返され、吉良は慌てて首を横に振った。

平子と六車も紫乃の酒癖を知っているとなれば、
今夜は自分だけが気まずい思いを
するわけではないのかもしれない。

しかし、だからといって
安心できるわけでもなかった。

「そういえば、時間とお店を
指定されませんでしたね」

吉良は、ふと気づいたように口にした。

誘われたはいいものの、
肝心の集合時間も店の名前も聞いていない。

「何も連絡がなければ、
夕方にいつもの居酒屋じゃないかな。
真子さんたちには、
さすがに説明すると思うんだけど……」

そう答えながら、紫乃は困ったように笑った。

乱菊のことだから、平子たちに肝心なことを
伝え忘れていても不思議ではない。

果たして今夜の飲み会は、
無事に始まるのだろうか。

紫乃はそんなことを考えながら、
再び筆を手に取った。





◇



夕方。

紫乃と吉良は、予想どおり、
いつもの大衆居酒屋へ足を運んでいた。

店先からは客たちの賑やかな話し声が漏れ、
出汁の香りと酒の匂いが漂ってくる。
仕事を終えた死神たちが集まり始める時間帯らしく、
店内はすでに活気づいていた。

「いらっしゃいませー!」

二人の姿を認めた店員が、明るい声で出迎える。

「檜佐木で予約されていると思うのですが」

吉良が尋ねると、店員は手元の帳簿を確認し、
すぐに顔を上げた。

「八名様でご予約の檜佐木様ですね! 
こちらへどうぞー!」

案内されたのは、店の奥にある個室の座敷だった。

どうやら今回も、予約の手配は
檜佐木に任せているらしい。
主催者である乱菊は、相変わらず
細かな段取りには頓着しないようだった。

「お待ち合わせのお二名様でーす!」

店員が障子を開けると、
座敷の中から明るい声が飛んできた。

「花房隊長、お疲れ様でーす!」

出迎えたのは乱菊だった。
その向かいには、すでに
阿散井恋次も腰を下ろしている。

「お疲れ様です」

恋次が軽く頭を下げた。

「お疲れ様」

紫乃も挨拶を返し、乱菊の隣へ腰を下ろす。
吉良もその向かいに座った。

「乱菊、平子隊長にも場所と時間を伝えた?」

紫乃が尋ねると、乱菊は得意げに胸を張った。

「ちゃんと言いましたよー! ほかの人には
『いつもの!』で済ませましたけど!」

そう言って、いたずらっぽくウインクする。

「そっか」

紫乃は苦笑した。

予想どおりの適当さである。
もっとも、これまで何度も同じ
顔ぶれで飲んでいるのだから、
ほかの参加者にとっては、
それだけで十分通じるのかもしれない。

「よろしければ、お先にお飲み物を伺います!」

店員に声をかけられ、紫乃は品書きへ目を向けた。

「おすすめの日本酒を、冷酒でお願いします」

「僕はビールをお願いします」

吉良も続けて注文する。

ほどなくして、
廊下から複数の足音が近づいてきた。

「お待ち合わせの三名様、ご到着です!」

店員が障子を開ける。

姿を現したのは、六車拳西と平子真子、
そして檜佐木修兵だった。

「お疲れ様です!六車隊長、平子隊長!」

副隊長たちが礼儀正しく挨拶する。

「お疲れさん」

平子は軽く手を上げて応じると、
特に迷うこともなく
紫乃の隣へ腰を下ろす。

「お疲れ様です。一緒に来られたんですね」

紫乃が声をかけると、
平子は途端に不服そうな顔をした。

「仲良しとかやないで? 
そこでばったり会ったんや」

「そうなんですか」

「ああ。こいつとわざわざ
待ち合わせなんかするかいな」

平子が向かいに座る拳西を指すと、
拳西は露骨に眉をひそめた。

「誰がてめぇと待ち合わせなんかするか」

「せやろ?」

「そこで意気投合すんな。気色悪ぃ」

拳西の容赦ない一言に、
平子はけらけらと笑った。

紫乃も思わず口元を緩める。

二人のやり取りは、
百年以上の時を経ても相変わらずらしい。

その間に、拳西は吉良の隣へ、
檜佐木も拳西の隣席へと腰を下ろした。

「ビールを三つお願いします」

それぞれが注文を済ませると、
紫乃は改めて座敷を見回した。

「乱菊、今日はこれで全員?」

「あと一人です!」

乱菊が答えた、まさにそのときだった。

「お待ち合わせのお一名様、ご到着です!」

絶妙なタイミングで店員の声が響き、
再び障子が開かれる。

「やあ、お疲れ様」

ひょいと顔を出したのは、京楽春水だった。

「京楽隊長、お疲れ様です!」

副隊長たちが一斉に挨拶する。
隊長たちもそれぞれ「お疲れ様です」と
礼儀正しく声をかけた。

「いやぁ、賑やかでいいねぇ」

京楽は楽しそうに目を細め、座敷の中を見回した。

「あ、僕はいつもの冷やで」

店員に注文を伝えながら、
京楽は平子の隣へ腰を下ろす。

そして、反対側に座っている乱菊を見つけると、
にこやかに手招きした。

「乱菊ちゃん、こっちおいでよ。
女の子が固まってたら、
こっちがむさ苦しいでしょ?」

「も〜!京楽隊長、気が早いですよ!」

口では文句を言いながらも、
乱菊はあっさりと立ち上がった。

「ほら!あんた、代わりなさい!」

「お、俺っスか!?」

突然指名された檜佐木が目を丸くする。

しかし、乱菊は構わず彼を立たせると、
自分がその席へ移動した。
こうして檜佐木は、
半ば強引に紫乃の隣へ座らされることになった。

「ちょ、乱菊さん……!」

「いいじゃない、減るもんじゃないんだから!」

「そういう問題じゃないっスよ……!」

檜佐木の抗議を軽く受け流し、
乱菊は満足げに座布団へ腰を下ろした。

やがて、
注文していた飲み物が次々と運ばれてくる。

「お待たせしましたー! 
ビール三つと、日本酒の冷やです!」

各々の前にグラスや杯が並べられ、
ようやく宴の準備が整った。

「じゃあ、幹事の修兵、挨拶しなさいよ!」

飲み物が揃ったのを見計らい、
乱菊が当然のように言い放った。

「ええ!? 主催、乱菊さんじゃないっスか!」

檜佐木が慌てて声を上げる。

「嫌よ」

乱菊はきっぱりと断った。

「いや、そこはやってくださいよ!」

「だって、修兵が予約したんだから、
幹事みたいなものでしょ?」

「予約しただけじゃないっスか!」

檜佐木が必死に抗議するも、乱菊はどこ吹く風だ。

とうとう檜佐木は、
助けを求めるように京楽へ視線を向けた。

「じゃあ、ここは大先輩の京楽隊長でしょう!?」

「いやぁ、若い子に任せるよ」

京楽は穏やかに笑いながら、
あっさりと逃げ道を塞いだ。

「そんなぁ……!」

「さっさとやれ、修兵。泡が減るだろ」

拳西が手元のビールを持ち上げ、
呆れたように促す。

「ぐっ……」

周囲を見回しても、
誰一人として助けてくれそうにない。

檜佐木は観念したように息を吐き、背筋を伸ばした。

「……じゃあ、やりますよ」

改めて一同を見渡し、
手にしたビールのグラスを掲げる。

「六車隊長、平子隊長! 
隊長復帰ありがとうございます! 
花房隊長も、隊長昇任おめでとうございます! 
乾杯ー!!」

「「「乾杯ー!」」」

八人の声が重なり、
グラスや杯が軽やかな音を立てた。

こうして、隊長復帰と新たな門出を祝う、
賑やかな宴が幕を開けた。








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