酔いの戯れ
*
酒が進むにつれ、宴席の空気は
すっかり賑やかなものへと変わっていた。
頬を赤く染めた者が増え、笑い声も大きくなり、
話題はあちらこちらへと飛び交っている。
最初こそ遠慮がちだった面々も、
今ではすっかり酒の勢いに身を任せていた。
その中心にいるのは、
言うまでもなく松本乱菊である。
「万年副隊長がなんだー!」
乱菊は手にしたビールのジョッキを高々と掲げ、
酔いの回った声で叫んだ。
「なんだー!」
すかさず吉良、檜佐木、阿散井の三人が声を揃える。
「副隊長だって頑張ってるんだぞー!」
「そうだそうだー!」
乱菊がさらに声を張り上げると、
三人も負けじと続いた。
もはや何を主張するための掛け声なのか、
本人たちもよく分かっていないのかもしれない。
ただ、酒の席で勢いよく盛り上がれる
話題であることだけは確かだった。
もっとも、乱菊と阿散井はともかくとして、
目の前にそれぞれの上司がいる
吉良と檜佐木にとっては、
翌朝になってから頭を抱えることに
なりそうな大胆発言である。
六車拳西は、隣で声を張り上げている
檜佐木をじっと見つめていた。
その視線は、冷ややかだった。
「……」
言葉こそ発していないものの、
明らかに何か言いたげな目である。
檜佐木も視線には気づいているはずだが、
今さら引き下がるわけにもいかないのか、
乱菊の勢いに乗せられたまま声を上げていた。
明日、どんな顔をして
拳西と顔を合わせるつもりなのだろう。
一方、吉良の上司である花房紫乃はというと。
「あはは〜。乱菊たちは偉いね〜」
すっかり出来上がっていた。
手には冷酒の入ったお猪口。
頬はほんのりと赤く染まり、
普段の落ち着き払った面影はどこへやら、
実にご機嫌な様子で笑っている。
「隊長らって責任重大で大変なんらから、
皆んな偉いよ〜」
そう言って、紫乃はお猪口を傾けた。
喉を通る冷酒を味わうように飲み干すと、
ふう、と満足げに息を吐く。
「ぷはぁ……。ねぇ、修兵……」
不意に、紫乃が隣へと顔を向けた。
とろんと潤んだ菫色の瞳が、
檜佐木をまっすぐに捉える。
その目には、普段の彼女が決して
人前では見せないような、
どこか艶めいた甘さがあった。
「編集長やってて偉いねえ……。
副隊長なのに頑張ってるねえ……」
しみじみと褒めながら、
紫乃は檜佐木の頬にそっと手を添えた。
「は、花房隊長、近いですって!」
檜佐木はたちまち顔を引きつらせた。
逃げ場を探すように身を引き、
畳の上をじりじりと後退する。
背中が壁にぶつかる寸前まで下がっても、
紫乃との距離はなかなか開かない。
当の本人は、そんな檜佐木の困惑など
少しも気にしていなかった。
「偉い子は飲まなきゃらめなんらよ〜。
はい。飲みなぁ」
紫乃はにこにこと笑いながら、
自分のお猪口を差し出した。
「じ、自分の飲みますって!」
檜佐木は慌ててそれを断り、
手元のビールを掴むと、
逃げるように一気に飲み干した。
「……っ、ぷはっ!」
勢いよく空になったジョッキを置く
檜佐木の顔には、酒のせいだけではない
赤みが差していた。
その様子を見て、拳西は深々とため息をついた。
「百年経っても酒癖は変わらんねえのか」
呆れたように紫乃へ目を向け、
手元のビールを飲む。
「みたいやな」
平子真子もまた、
紫乃の様子を眺めながら苦笑した。
その手には、
いつの間にか水の入ったグラスがある。
真子はそれを紫乃の日本酒の隣にそっと置いた。
酔いが回っている彼女に、
せめて水も飲ませようという心遣いだった。
しかし。
紫乃はグラスを一瞥することすらなかった。
目の前にあるのは、あくまで日本酒。
その隣に置かれた水など、
彼女の視界には入っていないも同然らしい。
「私はいつも通りれふよぉ。ねえ、京楽隊長お」
紫乃は真子の肩越しに、
さらに奥へと視線を向けた。
声を掛けられた京楽春水は、
手にした熱燗を傾けながら、楽しげに目を細める。
「そうだねえ。紫乃ちゃんは全く変わらないね」
「えへへ〜、ですよね〜」
京楽に同意してもらえたことが嬉しかったのか、
紫乃はますます笑みを深めた。
そのまま彼に話しかけようと身を乗り出し――。
ぐらり。
体の傾きを支えきれず、隣に座る
真子へともたれ掛かるように倒れ込んだ。
「おっと」
真子は反射的に手を伸ばし、
紫乃の体を受け止める。
「紫乃、ちゃんと座り。お行儀悪いで」
声には呆れた響きを混ぜながらも、
その手つきはひどく自然だった。
酔った紫乃を支えることなど、
今に始まったことではない。
だからこそ、周囲に余計な心配をさせないよう、
真子はいつも通りの顔を装っていた。
「え〜、真子さん大丈夫れすよ〜。
ちゃんと座れますよ〜」
紫乃は真子の胸元に手を添えると、
にっこりと笑った。
そのまま自分の力で体を起こし、
何事もなかったかのように座り直す。
「ほらぁ、ね?」
得意げに首を傾げる紫乃を見て、
真子は一瞬だけ言葉に詰まった。
どう見ても、ちゃんと座れていたとは言い難い。
「……はいはい。えらいえらい」
結局、真子は苦笑しながら紫乃の頭を軽く撫でた。
紫乃は満足したように目を細め、
再びお猪口へと手を伸ばす。
その一連のやり取りを眺めていた阿散井恋次が、
ふと疑問を口にした。
「花房隊長って、昔からこうなんスか?」
問い掛けた相手は、向かい側に座る京楽だった。
京楽は手元の熱燗を口に運び、
さして驚く様子もなく頷く。
「紫乃ちゃんはそうだね……。
昔から艶上戸で、次の日は
ケロッと忘れるタイプだね」
まるで何度も同じ光景を
見てきたかのような口ぶりだった。
「……そうなんスね」
恋次は紫乃へと視線を戻した。
本人は周囲の視線などまるで気に留めず、
楽しそうにお猪口を揺らしている。
その隣では、吉良が何かを思い出したように
顔を上げた。
「花房隊長が厄介なのは、
これだけ人を惑わせといて、
翌朝には酒も引きずらず
リセットされてる事なんれすよ……!」
ダンッ、と吉良は手元のビールを卓上に置いた。
その声音には、これまでの苦労が滲んでいた。
紫乃の酒癖を知らない者からすれば、
酔った彼女の振る舞いは思わず
心を揺さぶられるものだろう。
普段は落ち着いていて、
誰に対しても一定の距離を保つ彼女が、
酒の力を借りた途端、
驚くほど無防備に近づいてくるのだから。
褒められ、頼られ、甘えるような目を向けられる。
それでいて、本人には翌朝になれば
何ひとつ覚えていない可能性がある。
相手にしてみれば、たまったものではない。
「イヅル、やっぱりあんた、
花房隊長と飲んだでしょ」
乱菊が、ここぞとばかりに吉良へ切り込んだ。
「隊長就任初日、二人で飲みましたよ!
でも花房隊長、この調子で大変だったんですから!」
吉良は今にも泣きつきそうな勢いで訴えた。
どうやら、あの日の苦労は
まだ彼の中に鮮明に残っているらしい。
「二人きりで!?お前、凄えな……」
恋次が目を見開いた。
「……ああ。よく無事だったな……」
檜佐木もまた、しみじみとした声で呟いた。
二人の視線は、自然と紫乃へ向かう。
当の紫乃は、話題の中心にされていることなど
知らぬ顔で、冷酒を口にしていた。
人との間にある壁を、いとも簡単に越えてしまう。
普段の彼女を知っているからこそ、
その変わりようには驚かされる。
あの距離感で甘えられ、
あの眼差しで見つめられれば、
平静を保つのも容易ではないだろう。
ましてや、二人きり。
理性を保つことに苦労したとしても、
何ら不思議ではない。
それを思えば、吉良が何事もなく
翌朝を迎えたことは、
もはや称賛に値するのかもしれなかった。
「……なんで皆んなして、
そんなこと言うんれすかぁ……」
ようやく自分の話題に気づいたのか、
紫乃が不満げに唇を尖らせた。
もっとも、その表情にも怒っているというより、
構ってほしそうな甘えが滲んでいる。
「お酒なんて、酔わないと
飲む意味なんてないよお。ねえ?乱菊」
紫乃はお猪口を片手に、
同意を求めるように乱菊へと顔を向けた。
乱菊は待ってましたとばかりに、
手にしたビールを高々と掲げる。
「それはそう!まだまだ飲むわよ〜!」
「わぁ〜い!」
紫乃も嬉しそうに声を弾ませた。
その隣で、真子は小さく息を吐く。
せっかく置いた水は、いまだ手つかずのまま。
紫乃の手元にあるのは、
相変わらず冷酒の入ったお猪口だった。
「……ほんま、変わらんなあ」
呆れたように呟きながらも、
真子の口元には柔らかな笑みが浮かんでいた。
百年という長い時間が過ぎた。
立場も変わり、背負うものも増え、
かつてとは違う日々を生きている。
それでも、こうして同じ席を囲み、
くだらない話に笑い合える夜がある。
そして、目の前には昔と変わらぬ紫乃がいる。
そのことが、真子にはどうしようもなく嬉しかった。
「ほらぁ、真子さんも飲んでくらさいよぉ」
「はいはい」
紫乃に勧められて、平子は彼女が拗ねないように
ビールをグイッと飲んだ。
一方、乱菊はすでに次の一杯へと手を伸ばし、
恋次と檜佐木もそれに続いていた。
吉良はまだ何か言いたげな顔をしていたが、
結局は諦めたように自分のグラスを持ち上げる。
笑い声が重なり、酒が注がれ、
話題はまた別の方向へと移っていく。
誰かが何かを言い出せば、
誰かが笑い、また別の誰かが話に加わる。
紫乃もその輪の中で、楽しそうに笑っていた。
変わらないものがある。
百年の時を越えても、
変わらずにいられるものがある。
そんなことを確かめるように、
賑やかな宴はまだまだ続いていくのだった。
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