懐旧


*




月明かりに照らされた夜道を、
平子と紫乃はゆっくりと歩いていた。

先を行く平子の隊長羽織を、
紫乃がきゅっと掴んでいる。
まるで迷子にならないように
繋いでもらった子供のように、
彼の後ろをついていく姿は、
普段の落ち着き払った三番隊隊長とは
別人のようだった。

「えへへ……真子さんと
こうやって帰るの、久しぶりれふね」

羽織を掴んだまま、紫乃は楽しそうに笑った。

その声を聞いた平子は、ふと昔のことを思い出す。

「昔は髪引っ張られたけどな」

「そうれすかあ?」

紫乃はきょとんと目を瞬かせたあと、
何が面白いのか、またへらりと笑った。

かつて長かった平子の髪を、
紫乃はよく綺麗だと褒めていた。
褒めるだけならまだしも、
気がつけばその髪を掴んでいたこともある。
本人に悪気がなかったのはわかっているが、
あの頃は一体何を考えていたのかと、
今でも少しばかり不思議に思う。

もっとも、今の紫乃に尋ねたところで、
まともな答えが返ってくるはずもない。

「……ほんま、変わらんなあ」

呆れたように呟きながらも、
その声音にはどこか柔らかな響きがあった。

紫乃はそんな平子の心情など知る由もなく、
彼の羽織を掴んだまま、
月明かりの下をのんびりと歩いている。

しばらくして、紫乃がふと
思い出したように顔を上げた。

「真子さん、今日は楽しかったれすか?」

「楽しかったで」

平子はすぐに答えた。

「俺らがおらん間も、
乱菊らと酒飲めてて良かったわ。
飲み相手がおらんと寂しいやろうからな」

そう言って、平子は夜空を見上げた。

雲の少ない空には、月が静かに浮かんでいる。

自分たちがいなくなってから、百年以上。

その長い時間の中で、
紫乃にも新しい出会いがあった。
共に酒を飲み、くだらない話で
笑い合える仲間ができた。
それは当然のことであり、
紫乃がひとりきりで過ごしていた
わけではないことに、安堵する気持ちもあった。

けれど。

自分たちがいなくても、
彼女の日常は続いていたのだ。

当たり前のことだとわかっていても、
胸の奥に小さな寂しさが残る。

百年以上という時間は、あまりにも長かった。

その間に紫乃がどんな日々を過ごし、
どんな人たちと出会い、
何を失い、何を得てきたのか。
すべてを知ることなどできない。
自分たちがいなくなったあとも、
彼女は彼女なりに歩き続けてきたのだ。

それを嬉しく思う一方で、
ほんの少しだけ、寂しくもあった。

そんな胸の内を悟られたくなかったのか、
平子の口から出た言葉は、
ほんの少しだけ意地悪なものになっていた。

すると、紫乃はぱっと顔を輝かせた。

「真子さんも寂しかったれすかあ?」

弾むような声とともに、
紫乃が平子の隣へと駆け寄る。
そして、彼の顔を下から覗き込んだ。

酔いのせいで、いつも以上に距離が近い。

紫乃の深い菫色の瞳が、
月明かりを受けて揺れていた。

「……寂しかったに決まっとるやろ」

平子は紫乃を見下ろし、あっさりと答えた。

そこに、特別な意味を込めたつもりはなかった。

百年以上も離れていたのだ。
かつて共に過ごした仲間が恋しくなるのは、
何もおかしなことではない。
紫乃に対しても、久しぶりに顔を合わせ、
こうして一緒に帰る時間を嬉しく思っている。
それだけのことだ。

……それだけのこと、のはずだった。

「えへへ……」

紫乃は満足そうに笑った。

まるで、自分が欲しかった答えを
もらえたとでもいうように。

その笑顔を見て、平子は思わず目を細めた。

ほんま、敵わんなあ。

何気なく返した言葉ひとつで、
こんなにも嬉しそうに笑うのだから。

その笑顔を見ていると、
さっきまで胸の奥にあった寂しさも、
いつの間にか形を変えてしまう。
失われた百年を取り戻すことはできない。
それでも、こうして再び隣を歩けるのなら、
これから先の時間を少しずつ重ねていけばいい。

そんなことを思いながら、
平子はそれ以上何も言わず、
再び前を向いて歩き出した。

紫乃もまた、彼の隊長羽織を掴み直し、
その隣をついていく。

夜風が二人の間を静かに吹き抜けた。

やがて、見慣れた三番隊の隊舎が
月明かりの向こうに姿を現した。

「ほら、着いたで」

平子は足を止め、紫乃へ振り返った。

ようやく帰り着いた三番隊の隊舎。
その入口へ紫乃を促そうとしたところで、
彼女は建物を見上げ、ふにゃりと笑った。

「裏手回った方が近いれすよ〜」

「……裏手?」

「こっちれす〜」

紫乃は玄関とは反対の方向へと歩き出した。

どうやら、隊首室へ向かうつもりらしい。

「おいおい、そっちで合うとるんか?」

「合ってまふよ〜。ちゃんと分かってまふ〜」

口ではそう言いながらも、足取りはおぼつかない。

千鳥足とまではいかないものの、
一歩進むたびに身体が左右へ揺れている。
普段の紫乃を知る平子からすれば、
これが同じ人物だとは思えないほどだった。

「ほんまに分かっとるんやろな……」

平子が呆れ混じりに呟いた、そのときだった。

「あっとっとっ……!」

紫乃の足が、脇道に置かれた
飛び石に引っかかった。

傾いた身体が前へと流れる。

「あーあー、気ぃ付けえ」

平子はすかさず紫乃の腕を掴み、
転ぶ寸前の身体を支えた。

「危なっかしいなあ、もう」

「んふふ……すみませ〜ん」

紫乃は支えられたまま、
悪びれる様子もなく笑った。

「すみません言うんやったら、
もうちょい足元見て歩き」

「はぁ〜い」

返事だけは素直だった。

本当に分かっているのか怪しいものだが、
これ以上言ったところで聞き入れる様子もない。
平子は小さく息を吐くと、
彼女が再びつまずかないよう、
その歩調に合わせて歩き出した。

隊舎の裏手に回ると、
そこには静かな庭が広がっていた。

夜露を含んだ草木が月明かりを受け、
淡く光っている。
風に揺れる葉の音だけが、
夜の静寂に小さく響いていた。

紫乃は庭を横切りながら、
時折ふらつきつつも、迷うことなく進んでいく。

やがて、ひとつの部屋の前で足を止めた。

「此処れすよ〜」

そう言って、紫乃は襖の横に掲げられた札を指差した。

そこには、隊首室と記されている。

「おお、着いた着いた。よう頑張ったなあ」

「えへへ〜」

平子が子供を褒めるように言うと、
紫乃は嬉しそうに笑った。

そして、ふらふらとした足取りのまま
草履を脱ぎ、縁側へと上がる。

その様子を見届けながら、
平子はようやく肩の力を抜いた。

ひとまず、転ばずに帰り着くことはできたらしい。

「ほな、俺はここまでやな。
ちゃんと水飲んで寝るんやで」

そう言って帰ろうとした、そのとき。

「あ……」

縁側に腰を下ろしかけていた紫乃が、
何かを思い出したように顔を上げた。

「そうだ……真子さんに
見せたいものがあったんだ……」

「……見せたいもん?」

平子は足を止めた。

紫乃はこくこくと頷くと、柔らかく笑いかける。

「真子さん、上がってくらひゃい」

「はあ? 何言うてんねん。
明日聞くから、今日はもう寝ときや」

「や〜、今が良いの〜」

紫乃は駄々をこねるように声を上げた。

そして、平子の隊長羽織を掴んでいた手に、
ぎゅっと力を込める。

「……おい、紫乃」

「やぁれす〜」

「やぁれすやない。明日でええやろ」

「今が良いの〜。真子さんに見せたいの〜」

先ほどまで帰り道を歩いていたときと同じように、
紫乃は平子の羽織を離そうとしない。

酔っているせいなのか、いつも以上に頑固だった。

平子は困ったように眉を下げ、紫乃を見つめた。

正直なところ、
女性の部屋に上がるというのは気が引ける。
ましてや相手は、百年以上前から
想い続けてきた相手だ。
今さら意識するような仲でもない、
と自分に言い聞かせたところで、
何とも思わないわけがなかった。

しかし、当の本人はそんなこちらの心情など
知る由もなく、期待に満ちた瞳で見上げている。

「はぁ……しゃあないな……」

とうとう、平子が折れた。

「ほんまに、ちょっとだけやで」

「わぁい!」

紫乃はぱっと顔を輝かせた。

その無邪気な笑顔に、
平子はまたしても小さくため息をつく。

ほんま、敵わんなあ。

今夜は何度、そう思わされるのだろう。

平子は草履を脱ぎ、縁側へと上がった。

「どうぞ〜」

紫乃は満足そうに笑うと、襖に手を掛けた。

静かに開かれた先には、紫乃の部屋が広がっていた。

平子がこの部屋に足を踏み入れるのは、
初めてのことだった。

そのせいか、いざ中へ入ろうとすると、
妙に落ち着かない。
普段なら何でもない顔で踏み込めるはずなのに、
今夜ばかりは、ほんの少しばかり緊張していた。

けれど、部屋の中を見渡した途端、
その緊張は別の感情へと変わった。

無駄なもののない、質素な部屋だった。

壁際には鏡台と衣装台。
部屋の中央には小さなちゃぶ台が置かれ、
その傍らには椿柄の座布団が一枚敷かれている。

そして、部屋の隅には、
あらかじめ用意されていたらしい
敷布団が整えられていた。

飾り立てることもなく、
必要なものだけがきちんと収められている。

紫乃らしいといえば、実に紫乃らしい部屋だった。

「へえ……」

平子は思わず室内を見回した。

「思ったより、すっきりしとるんやな」

「そうれすかぁ?」

紫乃は不思議そうに首を傾げたあと、
何かを思い出したようにぱっと顔を上げた。

「あっ、そうそう。真子さん、これれす、これぇ」

そう言いながら、紫乃は鏡台の方へと向かった。

危なっかしい足取りで近づき、
そこに置かれていた小さなものを手に取る。

そして、それを大切そうに両手で包み込むと、
平子の前へ戻ってきた。

「ほらぁ、これ……」

紫乃は嬉しそうに笑いながら、それを差し出した。

平子は何気なく視線を落とす。

その瞬間、目が止まった。

紫乃の手の中にあったのは、
小さな椿油の瓶だった。

見覚えのあるもの。

忘れるはずもないもの。

百年以上前、平子が紫乃に贈った椿油だった。









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