もう少しだけ
*
「これ……」
紫乃が平子に見せたのは、小さな椿油の瓶だった。
それを目にした瞬間、
平子はわずかに目を見開いた。
見覚えのあるものだった。
かつて、自分が紫乃に贈った椿油。
平子自身も愛用していたものだからこそ、
間違えるはずがない。
まさか、百年以上の時を経て、
再び目にすることになるとは思いもしなかった。
「真子さんから頂いてから、
ずっと愛用してるんれす……。
だから、もう何本目か分からなくて……」
紫乃は手の中の小瓶を見つめながら、
穏やかに笑った。
まるで、昔の出来事を懐かしむような、
柔らかな笑みだった。
平子はしばらく瓶を眺めていたが、
やがて紫乃へと視線を戻した。
「……そんな気に入ってくれてたんなら、
あげて良かったわ」
口元に笑みを浮かべ、そう答える。
自分が贈ったものを、紫乃はずっと
使い続けてくれていた。
何本も買い替えながら、
それでも同じものを選び続けてくれたのだ。
それが、素直に嬉しかった。
百年以上前の自分が、何気なく贈ったもの。
それが今も彼女の日常の中に残っている。
自分たちが離れていた時間を思えば、
それは不思議なことのようにも思えた。
けれど、目の前で
嬉しそうに笑う紫乃を見ていると、
そんな時間の隔たりさえ、
ほんの少しだけ遠く感じられた。
「えへへ……」
紫乃は照れたように笑うと、
小瓶を鏡台の上へと戻した。
それから、ふと思い出したように
両手を後ろへ回す。
「真子さん……私、」
そう言いながら、髪をまとめていたものを外した。
結わえられていた髪が、
さらりと肩を滑り、
背中へと流れ落ちる。
漆黒の髪は、毛先へ向かうにつれて
徐々に深い菫色へと変化していた。
月明かりの差し込む部屋の中で、
その紫の色合いがほのかに浮かび上がる。
長く伸びた髪が、動きに合わせて静かに揺れた。
いつもは結い上げられているため、
こうして下ろした姿を見る機会はそう多くない。
平子は思わず、その姿に目を留めた。
紫乃はそんな彼の視線に
気づいているのか、いないのか。
ほどいた髪を指先で梳きながら、
少しばかり期待を含んだ眼差しを向けた。
「真子さんみたいに……
髪、綺麗になりました……?」
その問いかけに、平子は一瞬、言葉を失った。
百年以上前。
紫乃は、平子の髪を綺麗だと褒めていた。
長い髪を珍しがるでもなく、
ただ純粋に美しいと思ったのだろう。
そうして何度も褒めてくるものだから、
平子も最初こそ照れくささを覚えたものの、
いつしかそれを当たり前のように
受け止めるようになっていた。
そのくせ、褒めた本人が
髪を引っ張ってくるのだから、
まったく油断ならない。
そんな懐かしい記憶が、次々と脳裏をよぎる。
そして今、目の前の紫乃は、
あの頃と同じように自分の髪を意識していた。
ただ、昔と違うのは、その髪が
すっかり長くなったことだけではない。
酒のせいだろうか。
普段よりも頬に赤みが差し、
潤んだ深い菫色の瞳が、
いつも以上に澄んで見える。
下ろした髪が頬の輪郭を柔らかく縁取り、
その表情をいっそう艶やかに見せていた。
平子は、しばらく紫乃を見つめたまま動けずにいた。
「……真子さん?」
返事がないことを不思議に思ったのか、
紫乃が小首を傾げる。
その仕草に、平子ははっと我に返った。
「え、ああ……いきなり髪下ろしたから、
驚いてしもうたわ」
取り繕うように笑い、
平子は紫乃の髪へと視線を落とした。
「髪なら、昔も今も綺麗やで」
そう告げる声は、いつものように穏やかだった。
けれど、言葉を口にした平子自身は、
どこか落ち着かない心地がしていた。
昔も今も。
何気なく口にしたその言葉が、思いのほか胸に響く。
百年以上前の紫乃も、今の紫乃も、
自分にとっては変わらず大切な存在だった。
変わってしまったものは、確かにある。
互いの立場も、過ごしてきた時間も、
知らない記憶も増えた。
それでも、こうして目の前にいる彼女を
綺麗だと思う気持ちは、何ひとつ変わっていない。
平子はそっと手を伸ばした。
細く、骨ばった指先が、紫乃の長い髪に触れる。
指の間を滑らせるように、ゆっくりと髪を梳いた。
黒から菫色へと移り変わる毛先が、
平子の手の中で柔らかく揺れる。
するりと持ち上げた髪は、指に絡むこともなく、
絹糸のようになめらかだった。
やがて指先を離れると、
紫乃の髪はさらりと落ちていく。
その感触を確かめるように、
平子はもう一度、毛先へと視線を落とした。
「……ほんま、綺麗になったなあ」
今度の言葉は、先ほどよりもずっと小さかった。
百年以上前には、まだ幼さの残っていた少女が、
今では誰もが認めるほどの美しさを備えた
大人になっている。
けれど、こうして自分の言葉を待つ顔には、
昔と変わらない面影があった。
平子はそのことが、どうしようもなく嬉しかった。
失われた時間のすべてを取り戻すことはできない。
それでも、こうして髪に触れ、
懐かしい話をしながら、
知らなかった彼女の時間を
少しずつ知っていくことはできる。
これから先、また新しい思い出を重ねていけばいい。
そんなことを考えながら、
平子は紫乃の髪をそっと撫でた。
「ふふ……真子さん、変なの」
しみじみとした様子の平子が珍しかったのか、
紫乃はくすくすと笑った。
「なんやねん」
「ふふふ……」
「こっちはちょっと浸っとったのに、
失礼な奴やなあ」
平子が呆れたように突っ込むと、
紫乃はますます楽しそうに笑った。
その笑い声につられるように、
平子の口元にも笑みが浮かぶ。
まったく、調子が狂う。
百年以上ぶりに再会して、ようやく
二人で過ごす時間が戻ってきたというのに。
こちらが昔を懐かしんでいれば、
当の本人は何も知らずに笑っている。
それでも、その笑顔を見ていると、
こうして過ごせること自体が
何よりも嬉しいのだから困ったものだった。
「あ、こらっ……!」
不意に、紫乃の身体がぐらりと傾いた。
どうやら、笑っているうちに
身体の均衡を崩したらしい。
平子は慌てて手を伸ばし、紫乃の腕を掴んだ。
しかし、支えようとした勢いが強すぎたのか、
それとも紫乃が思いのほか寄りかかってきたのか。
次の瞬間、二人の身体はもつれるように傾いた。
「うわっ……!」
どすん、と鈍い音が部屋に響く。
尻餅をついた紫乃の上へ
覆いかぶさるような格好で、
平子が膝をついていた。
一瞬、部屋の中が静まり返る。
目の前には、紫乃の顔。
いつもは結い上げられている髪が畳の上に広がり、
深い菫色の瞳がすぐ近くから平子を見上げている。
あまりにも、近かった。
「…………」
平子は思わず息を止めた。
先ほどまでの懐かしさとは違う感情が、
胸の奥で急に存在感を増す。
酒に酔った紫乃は、普段の彼女からは
想像もつかないほど無防備だ。ましてや、
髪を下ろした姿まで見せられた直後である。
その潤んだ瞳と目が合い、平子は小さく息を呑んだ。
……ほんま、勘弁してくれや。
心の中でぼやきながら、
平子はゆっくりと顔を逸らした。
「……ほら、すぐ寝れるようご丁寧に布団敷いてから、
飲みに来てんねやろ?」
できるだけ普段どおりの声を出しながら、
平子は身体を起こそうとする。
「シラフの自分に感謝して、もう寝」
そう言って、紫乃から離れようとした。
ところが。
きゅっ、と。
隊長羽織を掴む手に、力が込められた。
「……紫乃?」
平子が振り返ると、
紫乃は俯きがちに彼の羽織を握りしめていた。
先ほどまで笑っていた顔から、
ほんの少しだけ無邪気さが消えている。
「……まだ、一緒に居たいです」
その言葉を聞いた瞬間、平子の動きが止まった。
まるで、二人の時間が
止まってしまったかのようだった。
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