運針


*




「……まだ、一緒に居たいです」

その言葉を聞いた瞬間、平子の動きが止まった。

まるで、二人の時間が
止まってしまったかのようだった。

「……」

返す言葉が見つからない。

いつものように軽口を叩くことも、
冗談めかして受け流すこともできなかった。

紫乃は酔っている。
普段なら決して口にしないような言葉を、
何のためらいもなく告げることがある。
今夜だってそうだ。
明日の朝になれば、
本人は何も覚えていないかもしれない。

それでも。

まだ一緒にいたい。

そう言って自分を引き留める彼女の声が、
平子の胸の奥に深く沈んでいった。

ほどいた髪のせいで、
いつもとは違う雰囲気を纏った紫乃。
百年以上前よりもずっと大人びて、
艶やかになった彼女が、今、
自分の袖を掴んで離そうとしない。

大抵の男なら、喜んでその誘いに
乗るのかもしれない。

けれど、平子は違った。

一夜限りの関係で終わるなど、真っ平御免だった。

彼女のことを、そんなふうに扱いたくはない。
ずっと傍にいたいと思うほどの感情を、
平子は紫乃に抱いていた。
百年以上前から、ずっと。

ただ一晩、彼女の隣で過ごせれば
それでいいというわけではない。
今夜だけ甘い時間を共有して、
明日には何事もなかったように振る舞う。
そんな関係で満足できるはずがなかった。

何より、紫乃の気持ちは分からない。

今の彼女が口にしている言葉は、
酒に酔った勢いなのか。
それとも、ほんの少しでも
自分と同じ気持ちがあるからなのか。

平子には、判断できなかった。

そして、もしこのまま紫乃の甘い誘いに乗り、
男女の関係になったとしても、
翌朝には彼女だけが
その夜のことを忘れてしまうのだろう。

自分だけが覚えている。

自分だけが、何もなかったように
振る舞わなければならない。

……それは、なんや癪やな。

そこまで考えたところで、
平子の中に、ひとつの考えが浮かんだ。

彼女が忘れてしまうのなら。

明日の朝、紫乃が目を覚ましたとき、
隣に自分がいたらどう思うだろう。

昨夜のことを思い出せず、
きっと困惑するに違いない。
普段の彼女なら、あれこれ考えて、
何か粗相をしなかったかと気にするかもしれない。

そんな顔を想像すると、
少しばかり意地悪な気持ちが湧いてきた。

もちろん、困らせたいわけではない。

ただ、今夜のことをすべて忘れてしまう彼女に、
ほんの少しくらいは、
自分と過ごした時間の痕跡を残しておきたかった。

百年以上ぶりに二人きりで過ごした夜なのだ。

自分だけが覚えているというのも、
どうにも不公平な気がする。

平子は小さく息を吐き、紫乃を見つめた。

「……側にいたるから、紫乃はもう寝るんやで」

その言葉に、紫乃の表情がぱっと明るくなった。

「本当に……?」

「ああ。せやから、もう大人しく寝とき」

「やったあ……」

紫乃は安心したように笑った。

そのまま、ぽすん、と平子の胸元へ寄りかかる。

「それなら……真子さんも一緒に……
寝てくらさいね……」

「……はいはい」

返事をしたものの、平子は内心で苦笑していた。

一緒に寝る、か。

言葉だけ聞けば、なかなか大胆な誘いである。
けれど、紫乃の声はすでに眠気に沈みかけていた。
平子の羽織を掴んでいた手も、
そのままに、ゆっくりと力が抜けていく。

「紫乃?」

呼びかけても、返事はない。

ほどなくして、静かな寝息が聞こえ始めた。

「……早いなあ、ほんま」

平子は呆れたように呟きながらも、
その顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。

あれだけ一緒にいたいと駄々をこねておきながら、
本人はもう夢の中らしい。

百年以上前から、こういうところは変わらない。

平子は紫乃の身体をそっと支え、
敷かれていた布団へと寝かせた。
長い髪が身体の下に巻き込まれないよう、
毛先を丁寧に避けてやる。
それから、肩が冷えないように布団を掛けた。

「ほんま……世話のかかる子やで……」

聞こえているはずもない言葉を落とし、
平子は紫乃の寝顔を見下ろした。

先ほどまで自分を見上げていた瞳は閉じられ、
頬にはまだ酒の名残が残っている。

無防備な寝顔だった。

普段の彼女からは想像もつかないほど、
警戒心の欠片もない。

こんな姿を見せられては、
ますます帰りづらくなるではないか。

平子は小さくため息をついた。

帰ろうと思えば、今からでも帰れる。
紫乃が眠ってしまった以上、引き留める者はいない。
明日の朝、彼女が目を覚ました頃には、
自分が帰ったことなど気にも留めないかもしれない。

それでも、平子は帰らなかった。

布団のすぐ隣に腰を下ろし、少し迷ったあと、
そのまま畳の上に横になる。

同じ布団に入ることはしなかった。

肘を枕代わりにして、
紫乃の隣に並ぶように身体を横たえる。
ほんの少し顔を動かせば、
彼女の寝顔が見える距離だった。

「……明日、どんな顔するんやろなあ」

声にならないほど小さく呟き、
平子は口元を緩めた。

翌朝には忘れてしまう彼女と、
今夜のことをすべて覚えている自分。

それならば、少しくらい意地悪をしても
罰は当たらないだろう。

もっとも、本当に覚えていてほしいのは、
ただ隣で眠ったという事実だけではなかった。

百年以上ぶりに、こうして二人きりで過ごした夜。

昔と変わらない笑顔を見て、
変わってしまった美しさに心を奪われ、
それでも彼女の隣にいたいと願ったこと。

椿油を今も大切に使ってくれていたこと。

髪を綺麗にしたいと、
自分に褒めてほしそうに尋ねてきたこと。

そして、まだ一緒にいたいと、
袖を掴んで引き留めてくれたこと。

どれも、平子にとっては
忘れられそうにない記憶だった。

けれど、紫乃はきっと忘れてしまう。

朝になれば、いつもの落ち着いた顔で目を覚まし、
昨夜の自分が何を言い、
何をしたのかも分からないまま、
平子の姿を見て驚くのだろう。

そのとき、どんな顔をするのか。

想像するだけで、少しばかり愉快だった。

「……ほんま、ええ気味や」

小さく笑ってから、平子はすぐに目を細めた。

いや。本当は、こんな意地悪な理由だけではない。

百年以上前からずっと、紫乃の傍にいたかった。

離れていた時間が長すぎたからこそ、
今、彼女の隣にいられることが嬉しい。

たとえ紫乃が覚えていなくても、
自分にとっては、この夜も大切な思い出になる。

いつか紫乃にも、自分と同じように、
二人で過ごした時間を大切に思ってほしい。

今夜のことだけではない。

これから先、何度も顔を合わせ、
何気ない話をして、一緒に笑って。

もう二度と、何も言わずに彼女の前から
いなくなるようなことはしたくなかった。

失われた百年を、
一晩で埋めることなどできはしない。

それでも、こうして一夜を共に過ごすことが、
二人の新しい記憶のひとつになるのなら。

今夜くらいは、このまま傍にいてもいいだろう。

平子はそっと目を閉じた。

静かな部屋に、
紫乃の寝息が規則正しく響いている。

障子越しの月明かりが、
畳の上に淡い光を落としていた。

平子は隣から聞こえる
静かな寝息に耳を傾けながら、
久しぶりに訪れた穏やかな夜を、
ゆっくりと味わっていた。





◇



翌朝。

障子の向こうから差し込む朝日が、
部屋の中を淡く照らしていた。
庭先では小鳥たちがさえずり、
新しい一日の始まりを告げている。

横向きに寝ていた紫乃は、ゆっくりと目を開けた。

ぼんやりとした意識の中、
目の前に人影があることに気づく。

すぐ近くで、ひとりの男が静かに眠っていた。

「……え?」

紫乃は瞬きをした。

見間違いかと思い、もう一度目を凝らす。

しかし、何度見ても
そこにいるのは平子真子だった。

「え……真子さん……? どうして……」

思わず反射的に身体を起こす。

寝起きの頭が状況を理解しようとするものの、
考えれば考えるほど混乱していく。

飲み会のあと、ここまで平子に
送ってもらったのだろうか。

いつもなら、酔いながらも
自分の足で帰ってきたのだろう。
それくらいの認識で昨夜を思い返すだけで、
それ以上の記憶を辿ることはしなかった。

けれど、今回は違う。

目を覚ますと、いつもとは違う朝が訪れていた。

しかも、目の前には平子がいる。

紫乃は恐る恐る自分の姿を確かめた。

髪は下ろしているが、
羽織紐も付けたままで、
隊長羽織も死覇装も昨夜のまま。
衣服が乱れた様子もない。

ひとまず、不祥事を起こしたわけではなさそうだ。

そう判断すると、紫乃はほっと胸を撫で下ろした。

そのとき。

「ん……紫乃?」

平子が身じろぎし、ゆっくりと目を開けた。

「し、真子さん……この状況は……」

紫乃は顔が赤いような、青ざめているような、
何とも表現しがたい表情で平子に問いかけた。

対する平子は、ひどく呑気だった。

「ふぁあ〜……もう起きたんか。早いなあ」

大きな欠伸をひとつ。

仰向けに横たわったまま両手を上に伸ばし、
ぐっと身体を伸ばす。
それからゆっくりと上体を起こした。

「流石に畳の上じゃ、体バキバキやな……」

そう言いながら、平子は背中をさすった。

紫乃は呆気に取られたまま、
その様子を見つめていた。

自分が何を聞きたいのか、
彼は分かっていないのだろうか。

いや、そんなはずはない。

「真子さん、あの……」

「ん?」

「どうして、ここに……?」

ようやく絞り出した問いに、
平子は「ああ」と思い出したように頷いた。

「昨日は紫乃がめっちゃ酔っとるし、
副隊長は乱菊らと二次会行く言うてたから、
俺がここまで送ってきたんや」

「……そう、でしたか」

それなら、納得できる。

問題は、そのあとだ。

紫乃が言葉を探しているうちに、
平子はさらに続けた。

「帰ろう思ったんやけど、
紫乃が帰ったらあかん言うて泣きつくもんやから、
帰れへんかった」

「…………」

紫乃は絶句した。

「……私、そんな失礼なことを……?」

自分の口元を押さえ、愕然とする。

帰らないでと泣きつく。

そんなことをしたのだろうか。

いや、いくら酔っていたとはいえ、
普段の自分なら考えられない。

しかし、昨夜の記憶がほとんどない以上、
否定する材料もなかった。

紫乃が本気でショックを受けていると、
平子はとうとう堪えきれなくなったらしい。

「っ、はは……!」

思わず吹き出した。

「そんなショック受けるんか?」

「そりゃそうですよ……! 
帰らないでって泣きつくなんて、
子供じゃあるまいし……!」

紫乃は慌てて反論した。

あまりにも情けない。しかも、相手は平子だ。

よりによって、彼にそんな姿を
見せてしまったという事実が、
何よりも恥ずかしかった。

「嘘や」

「……え?」

平子は、あっさりと白状した。

「少し揶揄ってやろうと思うただけやで」

「う、嘘……?」

紫乃が呆然と聞き返す。

平子は楽しそうに口元を緩めた。

「帰らんといてって言うてたのは本当やけど、
泣きついてはしてへんよ。ただ、昨夜の紫乃に
こっちは振り回されっぱなしやったからな。
仕返ししたろ思って、望みどおり
帰らんと寝させてもろうてたんや」

そう言って、平子はニヤリと笑った。

「……っ」

紫乃は口を開きかけ、結局何も言えずに閉じた。

帰らないでと言ったこと自体は、本当らしい。

それはそれで、別の意味で恥ずかしい。

いったい自分は、
どんな顔で彼を引き留めたのだろう。

「……あ!」

何かに気づいたように、平子が声を上げた。

「言っとくけど、布団に入ってへんし、
手も出してへんからな!」

「そ、それは分かってます!」

紫乃は思わず早口で答えた。

平子と男女の関係になった。

その可能性を想像するだけで
恥ずかしくて顔が熱くなり、
反射的に否定が早まってしまったのだ。

自分の頬が熱を帯びていることに気づき、
紫乃は片手をそっと添えた。

どれほど熱くなっているのだろう。

確かめようとする仕草まで、
妙にぎこちなくなってしまう。

そんな紫乃を見て、
平子は少しばかり傷ついたような顔をした。

「……そんな否定する?」

「ち、違います!」

「いや、えらい勢いで否定されたからなあ。
俺もちょっと傷つくわ」

「真子さんは……」

紫乃は視線を泳がせた。

言葉にするのは恥ずかしかったが、
誤解されたままなのも困る。

「……無理矢理、
そういう関係を迫るような人ではないので」

恥ずかしそうに告げた紫乃の頬は、
まだ赤いままだった。

その言葉に、平子の胸がきゅっと締めつけられた。

信頼されている。

彼女は自分を、そんなことをする男ではないと
思ってくれている。

それは、素直に嬉しいことだった。

けれど同時に、胸の奥が少しだけ痛んだ。

紫乃が信じているのは、
長年積み重ねてきた自分との関係だ。
彼女が自分に向けている信頼と、
自分が彼女に抱いている想いは、
必ずしも同じものではない。

その違いを、今さら突きつけられたような気がした。

「……そうか……それならええわ」

平子は、当たり障りのない言葉で
話を締めくくった。

これ以上、余計なことを言うつもりはなかった。

「紫乃は酔った時のこと、忘れてまうからな。
ちょっと驚かしたかったんや。ごめんな」

そう言って、平子は素直に謝った。

紫乃は首を横に振る。

「私こそ、送っていただいて
ありがとうございます」

そして、深く頭を下げた。

普段の落ち着きを取り戻しつつある紫乃を見て、
平子は小さく笑った。

「ええよ。気にせんとき」

それから、畳に手をついて立ち上がる。

「じゃあ、俺はもう帰るで」

「はい……真子さん、
遅くまでありがとうございました」

紫乃は改めて礼を言った。

平子は部屋を出ようと、襖の方へ向かいかけた。

その途中で、ふと足を止める。

そして、紫乃へと振り返った。

「……紫乃」

「はい?」

平子は返事の代わりに、そっと手を伸ばした。

長く下ろされた紫乃の髪に、指先が触れる。

「……っ」

突然のことに、
紫乃の心臓がどくりと大きく脈打った。

平子はそのまま、手櫛で髪に指を通した。

黒から菫色へと移り変わる毛先を、
ほんの一瞬、名残惜しそうに見つめる。

そして、何事もなかったかのように笑った。

「椿油、使うてくれてありがとうな」

ニヤリと笑い、そう告げる。

「……!」

紫乃は返す言葉を見つけられなかった。

平子はそれ以上何も言わず、くるりと背を向ける。

「ほな、またな」

軽い調子で言い残し、部屋を出ていった。

廊下を遠ざかっていく足音が、
やがて聞こえなくなる。

静けさが戻った隊首室で、
紫乃はしばらくその場に立ち尽くしていた。

髪に触れられた感触が、まだ残っている。

椿油のことを覚えていてくれた。

自分がずっと使い続けていたことを、
喜んでくれた。

そして、あんなふうに自然に髪に触れて、
笑って去っていった。

「…………」

紫乃はそっと、自分の髪に手を伸ばした。

指先で毛先をつまみ、深い菫色を確かめる。

途端に、また頬が熱くなった。

「……もう……」

誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

昨夜の記憶は、ほとんどない。

それなのに、今朝の出来事だけで、
心臓が落ち着かなくなってしまう。

紫乃は熱の残る頬を片手で覆い、
誰もいなくなった部屋で、
ひとり小さく息を吐いた。

百年以上の時を経て、
再び交わり始めた二人の時間。

その一夜は、平子にとって
忘れられない記憶となり、
紫乃にとっては、
自覚している想いを改めて胸に刻み、
彼への恋心を静かに募らせる朝となった。





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