視線


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花房紫乃が花房家の当主に
任命されたという報せは、
彼女が婿養子の選定を私情によって
拒んだという話とともに、
ほどなくして藤宮家へと届いた。

藤宮家は花房家に連なる分家であり、
分家の中でも本家との血縁が最も濃い家柄だった。
親戚や身内の数は本家を上回り、
古くから花房家の行く末を
気にかけてきた一族でもある。

もっとも、彼らが本家の未来を案じる理由は、
必ずしも花房家の存続だけにあったわけではない。

花房家の直系に生まれた長女、
菫はすでに亡くなっている。
そして、残された次女の紫乃には、
さほど出世欲がないように見えた。

かつて真央霊術院を首席で卒業した彼女は、
優れた才覚を持ちながらも、上流貴族の娘としては
あまりに型破りな道を歩んできた。
規律違反によって四大貴族の一つである
四楓院家との交流を絶たれ、
下級貴族である蜂家が関わる隊での立場も失った。
二番隊を離れた後は、下級貴族である浮竹家の
血筋に連なる浮竹十四郎が隊長を務める
十三番隊へと移り、長年にわたって
副隊長の任を務め続けた。

その経歴を振り返れば、彼女は自ら望んで
高い地位を目指すような人物ではない。
そう考える者がいても、不思議ではなかった。

ところが、そんな紫乃が
三番隊隊長へと昇進したのである。

これまでの働きと実力を評価され、
ついには花房家の当主にまで任命された。
隊長への昇進はともかく、
当主の座まで彼女の手に渡ったことは、
藤宮家にとって到底喜ばしい知らせではなかった。

紫乃が当主の座に就いた以上、
藤宮家の長男である雅臣が本家を継ぐ可能性は、
限りなく遠のいた。

彼らが密かに思い描いていた未来は、
当の紫乃が知らぬところで、あっけなく潰えたのだ。

それだけでも受け入れ難いというのに、
当主となった紫乃は、家を存続させるために
必要とされる婿養子の選定まで拒んだという。

花房家の血を引く者として、
その責務を果たそうともしない。

藤宮家の者たちには、そうとしか思えなかった。

「いっときの恋に現を抜かして、
跡継ぎを残す意志もないなんて……」

「夫婦別姓ということは、
婚姻すらしないつもりなのでは?」

「あるいは、一人に絞らず
複数人と関係を持ちたいのではないか?」

「まあ、なんてはしたない……。
花房家の当主ともあろう方が」

声を潜めているつもりなのだろう。
けれど、囁き合う声には
隠しきれない侮蔑が滲んでいた。

藤宮家の屋敷は、花房家ほどの歴史や
格式こそ持たないものの、
上流貴族の分家にふさわしい広さと
造りを備えていた。

手入れの行き届いた庭には季節の草花が植えられ、
風に揺れる枝葉が縁側に淡い影を落としている。
広間には季節の花が飾られ、磨き上げられた柱や
調度品は、差し込む光を静かに返していた。

屋敷の佇まいは、
いかにも品格を重んじる貴族のそれだった。

しかし、その内側では、
花房紫乃を貶める言葉が
絶え間なく飛び交っていた。

当主としての責任を果たそうとしない女への非難。
貴族としての品位を欠いた振る舞いへの嘲笑。
そして、自分の立場を理解していない者への侮蔑。

彼らが口にする言葉は、
どれも花房家の未来を憂う者の
忠告であるかのように装われていた。

けれど、その奥底にあるものは、
家の存続を案じる心ばかりではない。

本家を継ぐのは自分たちであるはずだったという、
叶わなくなった野心。
その野心を打ち砕いた紫乃への、
身勝手な怒りだった。

「雅臣にも知らせておこう」

集まった者たちの中から、
一人が思い出したように口を開いた。

「そうだな。本人も知っておくべきだろう」

「それにしても、気になるな。
その貴族にそぐわない当主の想い人というのは、
一体誰なのか」

誰かが含み笑いを漏らした。
それにつられるように、別の者も口元を歪める。

「相手がどこの誰であれ、
花房家の名にふさわしい人物とは思えないがな」

「まったくだ。そんな相手に入れ込んで、
家の責務を放り出すとは」

くすくすと、嘲笑が広がっていく。

紫乃がどのような覚悟で当主の座に就いたのか。
花房家を守るために何を引き受け、
何を譲れないと考えているのか。

彼らは知ろうともしなかった。

彼女が誰を想い、
どのような未来を望んでいるのか。
その胸の内を確かめることもなく、
ただ自分たちに都合のよい憶測を並べ立てていく。

彼らにとって、紫乃は花房家を背負う
一人の人間ではなかった。
自分たちの望む未来を阻んだ、
本家の当主にすぎなかったのだ。

その場にいる誰もが、紫乃の選択を笑っていた。

そして、その嘲笑の輪の中には、
やがて雅臣の耳にも届くことになる話を、
面白がるように待ち受ける者たちの姿もあった。





◇



紫乃が花房家の当主に任命されてから、
数日が過ぎた。

この日は仕事にゆとりがあり、
紫乃は瀞霊廷の街並みを散歩していた。

隊舎の間を縫うように続く道には、
行き交う隊士たちの姿が絶えない。
遠くから聞こえる掛け声や、
風にそよぐ木々の葉擦れに
耳を傾けながら歩いていると、
前方から見知った二人が
こちらへ向かってくるのが見えた。

五番隊隊長、平子真子。

そして、その隣を歩く副隊長の雛森桃だった。

最近になって、雛森は精神的な容態が回復し、
副隊長の任に復帰したらしい。

平子がたびたび療養所へ
足を運んでいたという話も耳にしている。
藍染惣右介の元上司と元部下。
二人の間には、他の者には容易に
踏み込めない事情がある。
きっと、二人だからこそ
話せることもあったのだろう。

それが雛森にとって、
少しでも心の支えになったのなら。

そんなことを考えながら、
紫乃は二人に歩み寄った。

「お疲れ様です。平子隊長」

声をかけると、
平子はすぐさま紫乃へと顔を向けた。

「隊長同士やねんから、
桃の前でも真子でええねん」

挨拶を返すよりも先に、そんな不満が飛び出す。

紫乃は思わず苦笑した。

「先に挨拶ですよ、平子隊長」

隣から、雛森がたしなめるように口を挟んだ。

「花房隊長、決戦の時は本当に
ありがとうございました。
そして、改めて隊長就任おめでとうございます」

そう言って、雛森は深々と頭を下げた。

平子の言動にきちんと注意できるあたり、
二人の関係は良好なのだろう。
紫乃はそんなことを思いながら、
頭を下げた雛森へ穏やかに微笑みかけた。

「ありがとう。桃も復帰して良かった」

そう口にしたものの、ふと、
紫乃の視線が足元へ落ちる。

「空座町では、何もして
あげられていなかったから……」

その言葉に、雛森は慌てて首を横に振った。

「そんな……!花房隊長と考案した技も
上手くいきましたし、私の問題です!」

少しでも紫乃の自責の念を
和らげようとするように、
雛森は懸命に言葉を重ねた。

紫乃は一瞬目を伏せた後、再び顔を上げた。

「ありがとう」

その表情には、先ほどまでの憂いを
和らげるような、優しい笑みが浮かんでいた。

二人のやり取りを見守っていた平子が、
ふと思い出したように口を開く。

「また、桃の相談乗ったって」

「はい」

紫乃は素直に頷いた。

それから、今度は雛森へと視線を向ける。

「桃も、平子隊長に言いにくいことがあれば、
いつでも相談してね」

「はい!」

返事は、驚くほど早かった。

あまりにも迷いのない声に、平子が眉を寄せる。

「何でそんな即答なん?」

どこか不服そうな顔をする平子を見て、
雛森は口元を押さえた。
紫乃もまた、堪えきれずに小さく笑う。

二人の笑い声を聞きながら、
平子は納得のいかない顔をしていたが、
結局、それ以上は何も言わなかった。

穏やかな時間だった。

平子と隊首室で過ごしたあの日から、
紫乃は彼を必要以上に意識しすぎることなく、
自然に接することができるようになっていた。
意識してしまうと、見透かされてしまう。

然し、それでも良いと思える揺らぎがあった。

誰かと話している最中、
ふと目が合うことが増えた。

視線が重なると、どちらからともなく、
ほんのわずかに間が生まれる。
すぐに会話へと戻ることもあれば、
何事もなかったかのように
視線を逸らすこともある。

それだけのことだ。

それだけのことなのに、
互いをまったく意識していないと言い切るのは、
もう難しかった。

紫乃は、平子の視線が自分に
向けられていることに気づくことがある。

そして、平子もまた、紫乃の視線が
自分を捉えていることに
気づいているのかもしれない。

それが本当に互いを意識しているからなのか、
それとも、長い年月を経て再び近づき始めた二人が、
相手の些細な変化に敏感になっているだけなのか。

まだ、どちらにも確かな答えはなかった。

ただ、二人の間には、
他の誰に向けるものとも少し違う
視線が生まれ始めていた。

それは本人たちが思っている以上に、
傍から見ればわかりやすいものだったのかもしれない。

紫乃と平子、そして雛森が談笑している場所は、
隊舎の間を行き交う隊士たちなら誰もが通る、
瀞霊廷の街角だった。

隊士たちは三人の傍らを次々と通り過ぎていく。
中には軽く会釈をしていく者もいれば、
三人の会話を邪魔しないよう、
少し距離を取って通り過ぎる者もいた。

その人波から少し離れたところで、
一人の隊士が足を止めた。

彼は、三人の姿をじっと見つめていた。

視線の先にいるのは、花房家の新たな当主であり、
三番隊隊長でもある花房紫乃。

そして、その隣に立つ五番隊隊長、
平子真子だった。

紫乃が平子に向ける笑顔。
平子が彼女へと向ける視線。
そして、二人の間に流れる、
他の者とはどこか違う空気。

それらを見定めるように眺めていた隊士は、
やがて、わずかに目を細めた。

瀞霊廷の喧騒の中、
三人の笑い声は変わらず穏やかに響いている。

その一方で、少し離れた場所から
向けられる視線だけが、
静かにその場に留まり続けていた。








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