取引


*




紫乃が平子たちとの談笑を終えると、
三番隊の隊舎へ戻るため、
瀞霊廷の道を歩き始めた。

行き交う隊士たちに軽く会釈を返しながら、
穏やかな足取りで進んでいく。
先ほどまで交わしていた会話の余韻は、
まだ心のどこかに残っていた。

雛森の復帰を喜べたこと。
平子と以前のように自然に話せたこと。
そして、ふとした瞬間に重なる視線。

胸の内に浮かぶものを一つずつ
整理するように歩いていた、そのときだった。

「花房隊長」

背後から、自分を呼ぶ声がした。

紫乃は足を止め、ゆっくりと振り返った。

そこに立っていたのは、
見覚えのある顔立ちをした青年だった。
短く整えられた黒髪に、乱れのない死覇装。
人当たりのよさそうな笑みを浮かべ、
こちらを見つめている。

初対面の相手であれば、
礼儀正しく爽やかな青年という
印象を抱いただろう。

けれど、紫乃にはその顔に見覚えがあった。

「……藤宮の」

その姓を口にすると、青年は軽く頭を下げた。

藤宮雅臣。

花房家に連なる分家、藤宮家の長男である。

分家の者たちと顔を合わせたのは、
紫乃が真央霊術院へ入学する前までのことだった。
当時の雅臣は、まだ幼い子どもだったはずだ。

記憶の中にある少年の面影は、
目の前の青年の顔立ちにも確かに残っている。
あれから随分と時が経ったものだと、
紫乃は密かに感慨を覚えた。

そんな彼女の前で、雅臣は改めて姿勢を正した。

「この度は、御当主就任おめでとうございます」

丁寧な口調でそう告げると、
雅臣はもう一度、軽く頭を下げた。

その所作に、目立った不自然さはない。
親族として礼を尽くす、至って穏当な振る舞いだった。

紫乃は彼の顔を静かに見つめた後、
穏やかに微笑んだ。

「ありがとう。わざわざ声を掛けてくれたのね」

「偶然お見かけしたものですから。
まさか、私のことを覚えていてくださるとは。
大変光栄に存じます」

雅臣は、いかにも恐縮した様子で再び頭を下げた。

その物腰は礼儀正しく、
親族としての分をわきまえているようにも見える。
少なくとも、表面上はそうだった。

「それでは、お父上によろしく伝えておいて」

用件は済んだと判断した紫乃は、
そう告げて踵を返そうとした。

しかし、その背に雅臣の声が追い縋る。

「藤宮の者が嘆いていましたよ。
花房の当主は、花房という歴史を
終わらせるつもりなのだと」

紫乃の足が、ぴたりと止まった。

瀞霊廷を行き交う隊士たちの足音が、
二人の間を通り過ぎていく。
遠くから聞こえていた話し声も、
今は妙に遠く感じられた。

紫乃はすぐには振り返らなかった。

ほんの一瞬、静かな沈黙が落ちる。

やがて、彼女はゆっくりと振り返った。

雅臣は先ほどと変わらぬ笑みを浮かべている。

「……どうやら、そちらには事実とは
異なる噂が流れているようね」

紫乃の声から、先ほどまでの柔らかさが消えた。

穏やかだった表情も引き締まり、
切れ長の菫色の瞳が、まっすぐに雅臣を捉える。

けれど、雅臣は怯む様子もなかった。
それどころか、彼女の反応を
楽しむように口元を緩めた。

「事実とは異なる?では、
お見合いをお受けになられるのですか?」

言葉遣いこそ丁寧なままだが、
その声音には明らかな揶揄が含まれていた。

「姉君が亡くなり、花房家を存続させるためには
跡継ぎが必要でしょう。それなのに、
当主自ら縁談を断っておられると聞きましたので」

へらへらと笑いながら、雅臣は紫乃の反応を窺った。

まるで、彼女が言葉に詰まる瞬間を
待っているかのようだった。

紫乃は、そんな雅臣を静かに見つめていた。

彼の言葉に怒りを覚えなかったわけではない。

姉の死を引き合いに出し、
花房家の存続を盾に自分を責め立てる。
その物言いに不快感を覚えるのは当然だった。

けれど、ここで感情を露わにしたところで、
相手の思う壺だろう。

そもそも、花房家の事情は花房家の中で決めることだ。
分家の者たちがどのような憶測を交わそうと、
彼らにいちいち説明する義務はない。

ましてや、目の前の青年の安っぽい挑発に
付き合うつもりなどなかった。

「その件は、花房で取り決めたよ」

紫乃は淡々と告げた。

声を荒らげることも、
わざと威圧することもない。
ただ、すでに決着のついた話を
伝えるような口調だった。

「取り決めたとは?」

「分家には関係のないことよ」

明確に引かれた境界線に、
雅臣の笑みがほんのわずかに揺らいだ。

分家は所詮、分家。

その一言を突きつけられたように感じたのだろう。
雅臣の手が、袴の脇でかすかに震えた。

だが、彼はすぐに笑みを取り戻した。

「……無関係ではないでしょう? 
本家が衰退の危機にあるのなら、
分家である我々と手を取り合うべきなのですから。
寂しいことは言わないでくださいよ」

へつらうような笑みを浮かべながら、
雅臣は言葉を重ねた。

本家を案じる親族を演じているつもりなのだろう。
声には親しみさえ滲ませている。

しかし、紫乃に動揺する様子はなかった。

雅臣が何を言おうと、彼女の表情は崩れない。
まるで、相手の言葉の裏にあるものを
すでに見透かしているかのようだった。

それでも雅臣は、口を閉ざそうとはしなかった。

「藤宮では、憶測が絶えないようですよ。
何せ、花房家の安寧よりも優先させたいほど
魅力的でありながら、貴族には向かないという、
貧乏臭い男とは一体どんな奴なのかと」

そこで雅臣は、わざとらしく
考え込む素振りを見せた。

「その話を聞いて、私はてっきり、
現世へ飛んだ浦原喜助や、十三番隊、
あるいは三番隊の身分の低い隊士かと
思っておりましたが……」

紫乃の眉が、わずかに動いた。

雅臣はそれを見逃さなかった。

彼女の反応を確かめるように、見つめる。
その笑みは崩れていないものの、目の奥には、
相手の秘密を暴こうとする好奇心が覗いていた。

「まさか……」

雅臣はそこで言葉を切った。

わずかに間を置いてから、
確信を得た者のように口元を歪める。

その瞬間、紫乃の瞳が徐々に見開かれた。

胸の奥を、冷たい指先で
なぞられたような感覚が走る。

これ以上、言わないで。

心の内でそう願いながらも、声にはできなかった。

「平子隊長だったとは驚きですよ」

周囲の音を掻き消すように、
紫乃の脳内に雅臣の言葉だけが響き渡った。

自分が誰を想っているのか。

まだ誰にも明かしていないその想いを、
他人の口から暴かれる。
それは、紫乃が思っていた以上に
心を乱すものだった。

平子真子。

その名を聞いた途端、脳裏に浮かんだのは、
つい先ほどまで交わしていた彼との会話だった。

何気ないやり取りの中で向けられた笑顔。
ふと重なった視線。
そして、隊首室で過ごしたあの日から、
少しずつ変わってきた二人の距離。

誰かに指摘されるまでは、
胸の内にそっとしまっておけると思っていた。

けれど、こうして言葉にされてしまえば、
否応なく自分の気持ちと向き合わされる。

紫乃は、唇を結んだ。

雅臣は、彼女の表情の変化をじっと見つめていた。

先ほどまで、どれほど挑発しても
崩れなかった彼女の顔。
その静かな仮面に、
初めて明らかな動揺が浮かんだのだ。

その事実が、雅臣の中にあった疑念を
確信へと変えていく。

やはり、そうだったのか。

紫乃が縁談を拒んだ理由。
その想い人が誰なのか。

すべてが繋がったとでも言いたげに、
雅臣の口元に笑みが深まった。

そして紫乃は、
目の前の青年が単なる親族として
声を掛けてきたのではないことを、
ようやく確信し始めていた。

花房紫乃が縁談を拒んだ理由。

花房家の存続よりも優先したいほどの
想い人がいること。
そして、その相手が平子真子であるということ。

どうやら、自分の推測は
間違っていなかったらしい。

雅臣は、目の前に立つ紫乃の顔を眺めながら、
内心でほくそ笑んだ。

紫乃はすぐに表情を引き締め直した。
けれど、一度見せてしまった動揺を、
なかったことにはできない。
ほんの一瞬の変化であっても、
相手はそれを見逃さなかったのだ。

瀞霊廷の街角には、
変わらず隊士たちの往来があった。
任務へと向かう者、隊舎へ戻る者。
それぞれが日々の務めに追われ、
道の片隅で向かい合う二人に気を留める者はいない。

人波の中で、紫乃と雅臣だけが、
互いの出方を窺うように立っていた。

雅臣は、先ほどまでの丁寧な口調を崩さないまま、
得意げに話を続けた。

「先程、談笑していらっしゃいましたよね? 
平子隊長と雛森副隊長の三人で、
随分と仲睦まじく」

紫乃は答えず、彼の言葉を聞いていた。

「そのとき、お二人の間には、ただの同僚とは
違う信頼関係が感じられたのですよ。
雛森副隊長を交えて話しているというのに、
どこかお二人だけに通じるものが
あるように見えましてね。
まさかと思いましたが……
いやはや、正解を引き当てるとは」

雅臣は愉快でたまらないといった様子で笑った。

紫乃は、その笑みを冷ややかに見つめた。

「……そうだとして、貴方には――」

「お父君に知られたくないのでは?」

言葉を遮られ、紫乃は口を閉ざした。

雅臣は、彼女の反応を確かめるように目を細める。

「知られれば、どうなるか。
花房家のためと称して、平子隊長との仲を
引き裂こうとするかもしれませんね。
あるいは、平子隊長の身辺を調べ、
貴方に相応しい相手ではないと判断すれば、
何らかの手を打つことも考えられる」

紫乃の表情が、わずかに険しくなった。

知られたくない。

それは間違いのない本心だった。

両親に想い人の名を明かせば、
花房家の将来を案じる彼らが、
何らかの手を回す可能性は十分にある。
相手がどのような人物なのかを調べ、
家柄や立場を理由に反対することもあるだろう。

そうなれば、平子に迷惑を掛ける。

それだけは、何としても避けたかった。

だからこそ、相手が誰なのかと問われても、
紫乃は答えなかったのだ。
自分の想いを隠すためというよりも、
彼を花房家の事情に巻き込みたくなかったから。

それなのに。

まさか、分家の、それも当主の座を狙う
青年に見抜かれるとは思ってもいなかった。

「それにしても、平子隊長には失礼な話ですよね」

雅臣は、わざとらしく同情するような口調で言った。

「貴族に似つかわしくない男だと思われているなんて。
あの西の口調は確かに品がないとはいえ……
隊長なのですから、地位に問題が
あるわけでもないでしょうに」

そこで一度言葉を切り、
雅臣は何かを思いついたように眉を上げた。

「ああ……仮面の軍勢だったことに
問題があるのでしょうか?」

その言葉が落ちた瞬間、
紫乃の目から温度が消えた。

「失礼なのは貴方よ。身分を弁えなさい」

低く、鋭い声だった。

紫乃は雅臣へと詰め寄った。

隊長としての威厳を纏った彼女の眼差しが、
雅臣を真正面から射抜く。
切れ長の菫色の瞳は冷たく澄み、
先ほどまでの穏やかな面影は、
もはやどこにもなかった。

一瞬、雅臣の笑みが引きつった。

相手は花房家の当主であると同時に、
護廷十三隊の三番隊隊長だ。

普段の紫乃がいかに落ち着いていようと、
その立場と実力を忘れているわけではない。
隊長としての圧力を正面から向けられ、
雅臣は思わず息を呑んだ。

だが、紫乃はそれだけでは終わらせなかった。

「随分と品のない口ね」

雅臣の顔を見据え、薄く笑う。

「分家は花房の血が薄まるほど、
慎ましさというものが欠落しているのかしら」

その言葉に、雅臣の頬がぴくりと動いた。

「貴方が私の秘密を言い当てたことで、
何を望んでいるの?」

淡々とした問いかけだった。

「長い前置きを並べて、
本題はこれからなのでしょう?」

そう言って、紫乃は再び雅臣との距離を取った。

必要以上に近づくことも、
感情に任せて声を荒らげることもしない。
相手の出方を見極めながら、
話の核心だけを問いただす。

その落ち着きが、かえって雅臣を追い詰めていた。

「そ、そうだ……!」

追及を受け、雅臣は一瞬言葉に詰まった。
しかし、すぐに気を取り直すと、
ここぞとばかりに口を開いた。

「花房家の安寧を妨げる
貴方の想い人を知られれば、
お父君やお母君だけでなく、
藤宮の者たちも必ず
邪魔をしようと動くはずです!」

その言葉には、先ほどまでの余裕が薄れていた。

「私は邪魔をしたいわけではないのですよ! 
むしろ、お二人の仲を応援しているのです!」

紫乃は黙って聞いていた。

「ただ、こちらの条件を飲んでさえくれれば!」

雅臣は、今度こそ本題を
切り出そうとしているらしかった。

紫乃はわずかに顎を引き、静かに問い返す。

「条件とは?」

その問いに、雅臣の顔に再び笑みが戻った。

「平子隊長と結婚まで進んだとき、
当主を放棄して花房を出て行くこと!」

彼は、まるで当然の権利を
主張するかのように言い放った。

「そして、次期当主に
藤宮雅臣を任命することです!」

それが、彼の望みだった。

紫乃と平子の関係を壊すつもりはない。
むしろ、二人が結ばれることを
歓迎しているとさえ言う。

ただし、その結婚によって紫乃が花房家を去ること。
そして、空いた当主の座を自分に譲ること。

その二つを条件として差し出したのだ。

紫乃は、しばらく雅臣を見つめていた。

驚きはなかった。

彼が本家の座を狙っていることなど、
とうに察していた。
花房家の存続を案じるという言葉の裏に、
どれほど自分本位な欲望が隠されているのかも、
今のやり取りで十分に理解できた。

それでも、実際に口にされると、呆れるほかなかった。

自分の想いを利用し、当主の座を奪おうとする。

しかも、それをあたかも双方にとって
都合のよい取引であるかのように語るのだから。

紫乃は小さく息を吐いた。

そして、雅臣の目をまっすぐに見据え、
迷いなく告げた。

「断るわ」







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