静かな警告


*






「断るわ」

紫乃は、雅臣が提示した条件を一蹴した。

平子への想いを見抜かれ、
両親に知られたくなければ
花房家の当主の座を明け渡せと要求された。
あまりにも身勝手な申し出だったが、
紫乃の表情に怒りが浮かぶことも、
動揺が走ることもなかった。

ただ、静かな拒絶だけがそこにあった。

「え……」

雅臣は思わず言葉を詰まらせた。

紫乃がすんなりと受け入れるとは
思っていなかった。だが、
少なくとも迷う素振りくらいは
見せるものだと考えていたのだろう。

彼女の想い人を両親に明かすと仄めかせば、
多少なりとも譲歩を引き出せる。
自分の恋を守るためなら、
当主の座を手放すことも考えるのではないか。

そう踏んでいた雅臣にとって、
紫乃の即答は予想外だった。

「こ……断るのですか? 
両家の間に余計な波風が立つだけでなく、
平子隊長に知られる可能性もあるというのに」

言葉を継ぎながら、雅臣は紫乃の顔色を窺った。

彼女が大切にしているものを
人質に取ったつもりだった。
自分の立場を守るためにも、
想い人に迷惑をかけないためにも、
紫乃にはこちらの条件を呑む理由があるはずだ。

それなのに、目の前の女は少しも揺らがない。

紫乃は雅臣を見据えたまま、静かに口を開いた。

「それが何か?」

淡々とした声音だった。

「……っ」

「私が誰を想っていようと、
それを誰に知られようと、
あなたの要求を受け入れる理由にはならないわ」

紫乃の声に、わずかな温度の変化が生じた。

怒鳴りはしない。
声を荒らげることもない。
けれど、その言葉には、
これ以上踏み込むことを許さない
明確な意志があった。

「それに、両家の間に波風を立てるのは、
私ではなくあなたでしょう。
自分の望みを叶えるために、
私を利用しようとしているのだから」

「わ、私は、花房家の行く末を
案じているだけです。
あなたが当主としての責務を
果たせないのであれば、私が代わりに――」

「責務を果たせない?」

雅臣の言葉を遮り、紫乃は小さく首を傾げた。

その仕草は穏やかだった。
だが、深い菫色の瞳は少しも笑っていない。

「私がいつ、花房家を捨てると言ったのかしら」

雅臣の口が止まった。

「あなたは自分に都合のいいように
話をすり替えているだけよ。
私が縁談を断ったことと、
当主としての責務を放棄することは、
まったく別の話だわ」

紫乃は一歩も退かなかった。

花房家を継ぐと決めたのは、
誰かに強いられたからではない。
家に生まれた者としての責務を理解し、
その重さを承知したうえで、自ら引き受けたのだ。

だからこそ、
雅臣の言葉は見当違いも甚だしかった。

「必ずしも、婿養子を迎えて
子を成すことだけが、
花房家の安寧につながるわけではないわ。
血を絶やさず、家を次の世代へ
繋いでいく方法なら、ほかにもある」

紫乃は淡々と語った。

花房家をどのように存続させていくのか。
自分が当主となった先のことを、
何も考えていなかったわけではない。

「けれど、それは私一人の意思で
決められることではないの。
当然、相手の同意も必要になる。
だから、お父様には時間が欲しいと伝えた。」

紫乃は一度言葉を切り、
雅臣を真っ直ぐに見つめた。

「その方が同意しなければ、この恋は諦める。
その場合は、お父様が望む相手と婚姻を結び、
花房家に迎え入れると約束もしているわ。
あなたが心配する必要はないの」

その言葉には、譲れない想いと、
当主としての覚悟の両方が込められていた。

平子真子との未来を望んでいる。それは確かだ。

けれど、まだ二人の間で
何かが決まったわけではない。
自分の想いだけで相手の人生を縛るつもりも
なければ、相手の意思を確かめないまま
花房家の将来を語るつもりもなかった。

紫乃は、自分が望む未来と、
当主として果たすべき責務のどちらも
投げ出す気はなかったのだ。

「し、しかし……私がこのことを明かせば、
あなたが諦めるように仕向ける者が
必ず現れますよ!?」

雅臣は焦りを滲ませながら言い募った。

「あなたのご両親だって、
相手が誰なのか知れば黙ってはいないでしょう。
平子隊長の方にも、何らかの影響が及ぶ
かもしれない。それでも構わないと?」

最後の望みをかけるように、紫乃の反応を窺う。

しかし、返ってきたのは、
やはり揺るぎない言葉だった。

「明かしたいのなら、そうすればいいわ」

「ぐっ……!」

雅臣の顔が歪んだ。

何を言っても、紫乃の意志は変わらない。
彼女の大切なものを脅しに使えば、
自分の望む方向へ動かせると思っていた。
だが、肝心の紫乃が脅しを脅しとして
受け取らないのでは、交渉にすらならなかった。

紫乃は、そんな雅臣を静かに見つめていた。

そして、今度は彼女から口を開いた。

「ただし、もしあなたが花房家にも藤宮家にも、
このことを話したときは……
私も、あなたに対して
それ相応の対応をさせてもらうから」

「な、何…?それ相応とは……?」

先ほどまでの勢いはどこへやら。
雅臣は警戒を露わにし、恐る恐る尋ねた。

紫乃は少し考えるように視線を上げた。

「そうね……あなたは確か、
六番隊の第八席だったわよね?」

「……」

「他所の隊士が、他所の隊長に対して
無礼を働いた。そう意見を出せば、
それなりの対応をしていただけると思うけれど」

紫乃の声音は相変わらず穏やかだった。

「朽木隊長は、特に規律に厳しい方でしょう。
事の経緯によっては、相応の処分が
下されるかもしれないわね」

雅臣の顔から、わずかに血の気が引いた。

「それに、分家の人間が本家の当主に楯突き、
弱みを握ったつもりで
揺さぶりまでかけるなんて……。
無礼極まりない行為と見做されても仕方がないわ」

紫乃はそこで、ほんの少しだけ目を細めた。

「今まで花房家から受けてきた支援についても、
考え直さなければならないかしら」

「そ、それは……!」

「あなた方が本家の庇護を受けながら、
甘い蜜だけを吸い続けるつもりなら、
今すぐそれを打ち切ってもいいのよ」

雅臣は言葉を失った。

藤宮家が花房家の分家として、
どれほどの恩恵を受けてきたのか。
雅臣とて知らないわけではない。

本家との繋がりがあるからこそ
保たれてきた立場もある。
花房家の名が持つ歴史と格式が、
藤宮家にとってどれほどの後ろ盾になってきた
かも理解しているはずだった。

「そうなれば、あなたたちはただの藤宮家。
花房家の後継に口を挟むことも許されないわ」

紫乃は一歩も動かず、雅臣を見据えた。

「そうされたくなければ、
大人しく六番隊に尽くして、自分を磨くことね。
身内の争いに踏み込もうとせずに」

それは、当主としての立場を利用した、
明確な警告だった。

雅臣は目線を下に向けた。
悔しさを押し殺すように拳を握り締めている。

言い返したいことは、いくらでもあるのだろう。
だが、今の彼には、紫乃の言葉を覆すだけの
材料も、彼女を従わせるだけの力もなかった。

紫乃は、それ以上何も言わなかった。

もう話すことはない。

そう判断すると、彼女は静かに踵を返した。

「……失礼するわ」

雅臣に背を向け、紫乃はその場を離れた。

背中に突き刺さる視線を感じていたが、
振り返ることはなかった。

藤宮雅臣の野心は、
これで終わったわけではないだろう。
彼が本当に諦めたのかどうかも分からない。

それでも、少なくとも今は、
これ以上話を続ける必要はなかった。

紫乃は歩調を崩さず、近くの建物の角を曲がった。

すると、その先に見覚えのある赤髪があった。

「恋次……」

思わず名前を呼ぶと、
阿散井恋次は気まずそうに肩を強張らせた。

「お、お疲れ様です。花房隊長」

明らかに様子がおかしい。

紫乃は一瞬ためらってから、そっと尋ねた。

「……聞いてた?」

「…うちの隊士と話し込んでいる
様子が見えたんで……」

恋次は隠すことなく答えた。

「えっと……どこから?」

紫乃の声に、わずかな気まずさが滲んだ。

恋次は少しだけ視線を泳がせてから、答えた。

「……藤宮が、あの人の名前を口に出した時に」

「あの人……?」

聞き返しかけたものの、
その言葉が誰を指しているのか、
紫乃にはすぐに分かった。

次の瞬間、彼女は片手で額を覆った。

つまり、恋次は雅臣が
平子の名前を口にしたところから、
彼の無礼な発言も、取引を持ちかける様子も、
そして紫乃が雅臣に釘を刺すところまで、
しっかり聞いていたということだ。

よりにもよって、
身内の恥を見せることになってしまった。

しかも、自分が平子を想っていることまで
知られてしまったのだ。

紫乃は、今すぐこの場から
消えてしまいたい気分だった。

「あの……」

明らかに落ち込んでいる紫乃に、
恋次は恐る恐る声をかけた。

「花房隊長が、あの人のことを好きってのは……
先日の飲み会で、ほぼバレてますよ?」

「え?」

予想もしなかった言葉に、
紫乃は勢いよく顔を上げた。

「いや……だいぶ酔っていたとはいえ、
あの人との親密度が、
ほかの人とだいぶ違ったんで。
それに、普段から仲が良い様子も
度々見かけてましたし……」

恋次は少々言いづらそうに説明した。

確かに、紫乃は酔うと性別を問わず人懐こくなり、
普段よりも他人との距離が近くなる。

だが、平子に対しては明らかに様子が違った。

隣から離れる気配もなく、
彼の言葉には素直に耳を傾け、
普段なら見せないような表情まで浮かべていた。

一方の平子も、そんな紫乃を
放っておくことはできなかったらしい。
酔った彼女に付きっきりで介抱していたのだから、
事情を知る者からすれば、
二人がまだ付き合っていないことの方が
不思議なくらいだった。

もっとも、恋次は
そこまで口にすることはなかった。

「……そっか」

紫乃の頬が、じわじわと赤くなっていく。

「飲み会で……ほぼ皆に……」

途切れ途切れに呟きながら、
彼女は再び顔を覆った。

「はぁ……恥ずかしい……」

自分の想い人が、知らぬ間に
周囲へ知れ渡っていたなど、
恥ずかしいに決まっている。

しかも、本人にはまだ何も伝えていないのだ。

自分では平静を保っていたつもりだっただけに、
余計に居たたまれなかった。

紫乃の様子を見て、恋次は小さく息を吐いた。
どう声をかけたものかと困っているようだったが、
やがて気を取り直したように口を開いた。

「……貴族の揉め事は俺には分かんねえっスけど」

先ほどまでの気まずさを少しだけ引っ込め、
恋次は真剣な顔をした。

「藤宮が隊長に無礼を働いたことは、
俺がこの目で見てるんで。
必要なら、処罰するための
証言くらいはできますよ」

その言葉には、紫乃を気遣う気持ちが滲んでいた。

分家と本家の関係や、
花房家が抱える事情にまで
口を挟むつもりはないのだろう。

けれど、目の前で上官に対する
無礼があったのなら、
隊士として見過ごすわけにはいかない。

恋次なりに、力になろうとしてくれているのだ。

紫乃はそっと首を横に振った。

「ううん。まだ、バラされたわけじゃないし……」

そう言ってから、
少し考えるように視線を落とした。

「それに、ここで私が約束を破ったら、
あの人がヤケになって、
かえって大ごとになりかねないから」

雅臣の要求を呑むつもりはない。

けれど、今すぐ彼を追い詰めることが、
最善とも限らなかった。
下手に刺激すれば、
両親に話を持ち込むだけでなく、
さらに厄介な手段に出る可能性もある。

そうなれば、紫乃が守ろうとしているものまで
巻き込むことになりかねない。

今は、慎重に様子を見るべきだった。

「……分かりました。
何かあれば、協力しますんで」

恋次はそれ以上、
無理に踏み込もうとはしなかった。

紫乃は、ようやく少しだけ表情を和らげた。

「ありがとう。
聞かれていたのが恋次で良かったよ」

そう言って、彼女は優しく微笑んだ。

その言葉に、恋次は一瞬きょとんとした後、
照れくさそうに視線を逸らした。

「……そ、そうっスか」

「うん」

紫乃は小さく頷き、再び歩き始めた。

恋次もその隣に並ぶ。

ふと、紫乃は隣を歩く恋次に目を向けた。

「そういえば、恋次も何かあれば協力するからね。
もう直属の上司ではないけれど」

「えっ!?」

恋次は目に見えて動揺した。

一瞬で耳まで赤くなり、紫乃の方を振り向く。

「な、何で……!?」

「ふふっ」

紫乃は、こらえきれないように笑った。

先ほどまで、自分の想いを知られていたことに
あれほど落ち込んでいたというのに。
今度は恋次の反応があまりにも分かりやすくて、
つい笑みが零れてしまった。

もちろん、紫乃も何もかもを
知っているわけではない。

けれど、恋次が誰に特別な感情を抱いているのか、
その様子を見ていれば察しがつくこともある。

自分のことを棚に上げている自覚はあったが、
今は少しくらい、彼をからかっても許されるだろう。

「さあ、何ででしょうね?」

「は、花房隊長……!」

「ふふふ」

紫乃は楽しげに笑いながら、
歩調を緩めることなく進んでいく。

恋次は赤くなった顔を隠すように視線を逸らし、
何やら言い淀んでいた。

先ほどまで胸の内に渦巻いていた不快感も、
花房家の問題も、すぐに解決するわけではない。

藤宮雅臣がこのまま引き下がる保証もなければ、
両親との話し合いに決着がついたわけでもない。
紫乃が守りたいものを守り抜くには、
まだ越えなければならないものがいくつもある。

それでも、こうして
何気ない会話を交わせる相手がいる。

抱えているもののすべてを明かさずとも、
気遣い、手を差し伸べてくれる人がいる。

そのことに、紫乃は少しだけ救われた気がした。









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