欺瞞
*
紫乃は卯ノ花と勇音の二人と共に、
清流清浄塔へ足を踏み入れた。
そこは中央四十六室が存在する、
瀞霊廷でも厳重に立ち入りを禁じられた区域だった。
建物の中は、不気味なほど静まり返っている。
紫乃は歩みを進めながら、周囲の霊圧を探った。
――二つ。
そして、それとは別に、
消え入りそうな弱々しい霊圧が二つ。
「……!」
誰のものなのか。
紫乃にはすぐに分かった。
身体に力が入る。
今すぐ駆け出したい衝動を
抑えきれなくなりかけた、その時。
「落ち着きなさい」
卯ノ花が紫乃の変化を察し、前へ手を伸ばした。
飛び出すことを制するような、静かな制止だった。
「……はい」
紫乃は言葉を飲み込む。
焦る気持ちを抑えながら、
卯ノ花と勇音と共にさらに奥へ進んでいく。
そして――。
その先に、全ての核心へと繋がる光景があった。
「……やはり、此処でしたか。藍染隊長」
卯ノ花が静かに口を開く。
しかし、すぐにその呼び方を改めた。
「……いえ。最早、“隊長”と
呼ぶべきではないのでしょうね」
その視線の先。
そこには――死んだはずの
藍染惣右介が立っていた。
その後ろには、市丸ギン。
そして、倒れている日番谷冬獅郎と雛森桃。
「大逆の罪人……藍染惣右介」
卯ノ花は、目の前の男を真っ直ぐ見据えた。
「どうも。卯ノ花隊長」
藍染は、まるで来ることを予測していたかのように
穏やかな笑みを浮かべる。
「来られるとすれば、
そろそろだろうと思っていましたよ。
すぐに此処だと分かりましたか?」
紫乃はその姿を見つめ、拳を握り締めた。
死んだはずの男が目の前にいる。
その事実そのものが、
理解を拒むほどの異常だった。
「如何なる理由があろうとも、
立ち入ることを許されない完全禁踏区域は、
瀞霊廷内にはこの清流清浄塔居林、
ただ一箇所のみ」
卯ノ花は淡々と説明する。
「貴方があれほどまでに精巧な死体人形を
作ってまで身を隠そうとしたのなら、
その行く先は瀞霊廷内で最も安全で、
見つかりにくい此処を置いて他にありません」
すると、藍染はふっと笑った。
「惜しいな。読みは良いが、間違いが二つある」
藍染はゆっくりと紫乃たちを見渡す。
「まず一つ目に、僕は身を隠す為に
ここへ来たわけじゃない」
そして、もう一つ。
「そしてもう一つ。これは死体の人形じゃあない」
そう言って、藍染は自分の手に
持っていたものを見せた。
それは――自分自身の死体だった。
まるで今まで存在していなかったものが、
突然そこに現れたかのようだった。
「……い、いつの間に……!」
勇音が驚きの声を上げる。
「何時の間に?」
藍染は穏やかに問い返す。
「この手に持っていたさ。さっきからずっとね」
その言葉に、三人の表情が強張る。
「ただ……今この瞬間まで、
僕がそう見せようとしていなかっただけのことだ」
何を言っているのか。
すぐには理解できない。
しかし、藍染はそんな三人を見て静かに笑った。
「直ぐに分かるさ」
藍染は自らの斬魄刀を掲げる。
「そら、解くよ」
そして――。
「砕けろ、『鏡花水月』」
その瞬間。
藍染の手にあった死体人形が、形を変えた。
人の姿は崩れ、一本の斬魄刀へと戻っていく。
「僕の斬魄刀、『鏡花水月』が有する能力は
――完全催眠だ」
「完全…催眠……」
紫乃は呆然と呟いた。
信じられなかった。
何故なら――。
「……嘘……」
勇音が震える声で口を開く。
「だって鏡花水月は流水系の斬魄刀で……
霧と水流の乱反射で敵を撹乱して、
同士討ちさせるって……」
勇音は藍染を見つめる。
「藍染隊長、そう仰っていたじゃないですか…」
「私達副隊長を集めて……実際に、
目の前で見せて下さったじゃないですか!」
紫乃も、過去の記憶を思い出していた。
藍染の始解を見たことがある。
あの時。
市丸に、自分の副隊長の斬魄刀を
見て欲しいと言われた。
だから、見た。
何の疑いもなく。
――それ自体が、仕組まれていた罠だった。
百余年も前から。
紫乃は、静かに市丸へ視線を向けた。
市丸は細めた目で、ニヤリと笑う。
その笑みを見て、紫乃は何も言わずに目を閉じた。
信じたくなかった。
自分が見てきたもの。
信じてきたもの。
その全てが、最初から
仕組まれていたのだとしたら――。
「……成る程」
卯ノ花が静かに口を開く。
「それこそが…催眠の儀式という訳ですか」
理解の早さに、藍染は満足そうに微笑んだ。
「御明答」
藍染は『鏡花水月』を手にしたまま続ける。
「完全催眠は五感全てを支配し、
一つの対象の姿・形・質量・感触・匂いに
至るまで、全てを敵に誤認させることができる」
「つまり、蝿を竜に見せることも、
沼地を花畑に見せることも可能だ」
藍染の声は淡々としていた。
「そして、その発動条件は
――敵に鏡花水月の解放の瞬間を見せること」
その言葉に、紫乃の胸が冷たくなる。
「一度でもそれを目にした者は、
その瞬間から完全催眠に堕ちる」
藍染は笑みを浮かべる。
「以降、僕が鏡花水月を解放する度、
完全催眠の虜となる」
その能力には、明確な弱点があった。
「それは…眼の見えない者は、
術に堕ちることはありませんよね……」
卯ノ花が問う。
「さすがだ、卯ノ花隊長」
藍染は即座に答えた。
「目の見えぬ東仙要は、僕の部下だ」
その一言で――。
九番隊隊長、東仙要までもが
裏切り者であることが確定した。
誰も言葉を発しない。
あまりにも多くの事実が、
一度に突き付けられていた。
やがて、ギンが縄を取り出す。
藍染の身体と自分を囲むように縄を広げた。
おそらく鬼道による移動。
用は済んだということなのだろう。
その直前。
藍染が、卯ノ花へ視線を向けた。
「……最後に褒めておこうか」
「検査の為に、最も長く手を触れたからとはいえ
――完全催眠下にありながら、僕の死体に僅かでも
違和感を感じたことは見事だった。卯ノ花隊長」
そして、藍染の視線が紫乃へ移る。
「花房紫乃」
その声に、紫乃は藍染を睨み返した。
「君は実に愚かだった」
「私に多少なりと疑念を抱いたところで――」
藍染は、不敵な笑みを浮かべた。
「君が大切にしていた者達がいなくなった時から
君は、護廷十三番隊に残る生きる屍だったのだから」
紫乃の拳が、強く握り締められる。
爪が掌に食い込むほどだった。
怒りが込み上げる。
それでも、紫乃は何も言わなかった。
次の瞬間。
藍染と市丸を包むように鬼道の光が走る。
二人の姿が、その場から消えた。
「……勇音」
卯ノ花が静かに呼ぶ。
「はい!」
勇音はすぐに意識を切り替え、鬼道を構えた。
「南の心臓、北の瞳、西の指先、東の踵、
風持ちいて集い、雨払いて散れ」
鬼道が展開される。
「縛道の五十八――掴趾追雀」
無数の情報が勇音の前を駆け抜けていく。
「……31……64……83……97」
そして――。
「転移先捕捉」
勇音が目を見開く。
「東、三百三十二……北、千五百六十六……」
その場所の名を、口にした。
「……双極……です」
その言葉を聞いた瞬間。
紫乃は踵を返した。
「卯ノ花隊長。後は宜しくお願いします」
「花房副隊長!?」
勇音が驚きの声を上げる。
しかし、紫乃の姿は既に消えていた。
瞬歩。
向かった先は――双極。
卯ノ花は、紫乃が向かった方向を静かに見つめる。
「構いません、勇音」
その声に迷いはなかった。
「双極に向かったのでしょう」
卯ノ花は、倒れている
日番谷と雛森の元へ歩み寄る。
「ここからですか……!?」
勇音は驚きを隠せない。
「彼女なら、数分で着きます」
卯ノ花は二人の容態を確認しながら続ける。
「代わりに、全ての隊長・副隊長の位置を捜索、
捕捉して伝信して下さい」
「私達がここで知った、藍染惣右介の全てと
――その行き先を」
そして、一拍置いて告げる。
「そして同じ伝信を……あの旅禍達にも」
「分かりました!」
勇音は即座に頷いた。
卯ノ花は日番谷と雛森へ視線を落とす。
「……任せましたよ」
静かな声だった。
「私はこれから――日番谷隊長と雛森副隊長の
救命措置に入ります」
そう告げると、卯ノ花は二人の治療を始めた。
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