憎悪
*
清流清浄塔から姿を消した藍染惣右介は、
勇音の言葉通り、双極にいた。
そこには、阿散井恋次に担がれ、
逃亡したはずの朽木ルキアの姿もあった。
東仙要が所有していた特殊な霊具――「転送布」。
それによって、ルキアは再び
双極へと戻されていた。
そして、その周囲には戦いを終え、
地面に倒れ伏した黒崎一護の姿がある。
「離せ!」
藍染に首を掴まれたルキアが、必死に抵抗する。
両手で藍染の腕を掴み、振り解こうとするが、
その力はびくともしない。
「……っ」
藍染はそんなルキアを意に介すことなく、
空いている手を彼女の胸元へ翳した。
すると――。
胸元に円形の空洞が開いた。
「な……」
ルキアの目が見開かれる。
空洞の中から、ゆっくりと、
一つの小さな球体が現れた。
それは、ルキア自身ですら知らなかったもの。
浦原喜助が、朽木ルキアの魂魄の中へと
隠していたものだった。
「……なんだ、それは……」
自分の中に存在していたものだと
知らなかったルキアが、困惑した声を漏らす。
藍染は、手の中に現れた球体を
見つめながら淡々と言った。
「君達には、その価値が分からない代物だ」
崩玉。
その名を知らずとも、
それがただの霊具ではないことだけは分かる。
藍染はそれを手に収めると、
興味を失ったようにルキアを見る。
「ギン、殺せ」
「はーい」
いつもの軽い返事。
ギンが斬魄刀へ手を伸ばした。
その瞬間だった。
「縛道の六十三――鎖条鎖縛」
低く、鋭い声が双極に響いた。
次の瞬間。
空間を裂くように巨大な鎖が現れ、
藍染の身体へ絡みついた。
大綱ほどもある太い鎖が幾重にも巻き付き、
その身体を地面へ縫い留める。
「……流石に早いな」
藍染は僅かに目を細めた。
そして、ゆっくりと振り返る。
「花房紫乃」
そこには、息を切らしながらも
真っ直ぐに立つ紫乃がいた。
清流清浄塔からここまで、
詠唱を続けながら追ってきたのだ。
「花房副隊長……!」
ルキアが驚きの声を上げる。
だが、紫乃はルキアを見ることなく、
藍染だけを見据えていた。
普段の穏やかな瞳ではない。
そこに浮かんでいたのは、明確な殺意だった。
「藍染惣右介……」
鉄扇を握る手に力が籠もる。
「貴方だけは、絶対に許さない」
その言葉を聞いても、藍染に焦りはない。
むしろ、どこか愉快そうですらあった。
「詠唱は移動中に唱えていたのか」
絡みついた鎖を一瞥する。
「六十番台の縛道でも、びくともしない……
大したものだ」
そう言いながらも、
藍染の表情には余裕が残っていた。
紫乃はそれを見て、さらに目を細める。
この男を、ここで止める。
それだけだった。
「――『始めよう、宵椿』」
瞬間。
紫乃の斬魄刀が姿を変える。
現れたのは、黒鉄の鉄扇。
紫乃はそれを握り締め、
藍染へと踏み込もうとした。
だが。
「……主に近付くな」
紫乃の進路を塞ぐように、
一人の男が立ちはだかった。
「東仙……!」
東仙要。
紫乃は足を止める。
東仙は静かに斬魄刀を抜いた。
「『鳴け――清虫』」
刀身が変化する。
「清虫二式――紅飛蝗」
次の瞬間、無数の刃が一斉に紫乃へと飛来した。
「――乱扇舞!」
紫乃は鉄扇を大きく振るった。
迫り来る刃を次々と払い、軌道を逸らしていく。
ただ防いでいるのではない。
相手の攻撃の流れそのものを読み、崩していく。
身体を翻し、舞うように刃を躱す。
一歩。
さらに一歩。
紫乃は東仙の攻撃を抜け、
そのまま藍染へと距離を詰めた。
鉄扇が開く。
黒鉄の刃が、一直線に藍染の首元へ振り払われる。
――その瞬間。
「『射殺せ、神鎗』」
声が聞こえた。
「……!」
紫乃は反射的に鉄扇の向きを変え、
盾のように構えた。
轟音。
急激に伸びた神鎗が、鉄扇へ激突する。
紫乃の身体が僅かに後退した。
「……ギンくん……!」
視線の先にいる男を見て、紫乃の胸が痛んだ。
幼い頃から、その成長を見守ってきた。
まだ幼かった彼が、
少しずつ大きくなっていく姿を知っている。
そんなギンが。
今は、裏切り者として自分の前に立っている。
「どうして……」
悔しさが込み上げる。
今すぐにでも藍染を斬りたい。
この男だけは、許してはいけない。
けれど。
ギンの神鎗から目を離すことはできない。
一瞬でも気を抜けば、終わる。
紫乃は藍染から狙いを外し、
ギンへと身体の向きを変えた。
神鎗が伸びる。
紫乃は身を翻した。
「花霞舞!」
銀色の刃を紙一重で躱し、
そのままギンへと踏み込む。
鉄扇が振り上がった。
――斬る。
そう判断した、その瞬間。
「目の前にいるのがギンだと、
何故確信しているのかな?」
遠くから、藍染の声が響いた。
「――!」
――鏡花水月。
完全催眠。
一度でも解放を見た者は、
その後、五感のすべてを欺かれる。
百余年。
自分は、その事実に気付くことすらできなかった。
ならば。
今、自分の目の前にいるギンは
――本当にギンなのか。
霊圧を欺くことができるのなら。
斬魄刀は?
目の前にある神鎗すら、
偽物ではないと言い切れるのか。
そんなことが可能なのか。
分からない。
だが、相手は百年以上もの間、
自分を欺き続けた男だ。
そう考えてしまえば――何でもあり得る。
もし。
もし、今ここにいるギンが。
ギンではなく――ルキアだったら。
「…………」
紫乃の指が、鉄扇の柄を強く握る。
斬ることができない。
護ろうとした相手を、
自分の手で傷つけることだけは。
それだけは、絶対にできない。
ほんの一瞬。
紫乃の判断が遅れた。
その瞬間を、ギンが見逃すはずもなかった。
「『射殺せ、神鎗』」
目の前で、ギンが笑った。
次の瞬間、銀色の刃が伸びる。
「――っ!」
避けられない。
神鎗が、紫乃の胸を貫いた。
「花房副隊長!!」
背後から、ルキアの叫び声が響く。
身体が宙へ浮いた。
胸を貫く激痛に、息が詰まる。
けれど。
――死なない。
刃は胸を穿っている。
それでも、心臓そのものは外れていた。
至近距離だった。
神鎗なら、心臓を貫くことなど容易だったはずだ。
なのに。
どうして――。
紫乃の意識の中に、僅かな疑問が残る。
だが、その答えを考えるより先に、
身体から力が抜けた。
神鎗が引き抜かれる。
紫乃の身体は、そのまま地面へと落ちた。
視界が大きく揺れる。
呼吸が浅くなる。
それでも、紫乃は立ち上がろうとした。
まだ。
まだ、終われない。
ルキアを――。
守らなければ。
指先に力を込める。
けれど、身体は動かなかった。
意識が遠のいていく。
その瞬間。
藍染を縛り付けていた鎖が、音もなく消えた。
術者である紫乃が、維持出来なくなった。
役目を終えた鬼道は霊子となって霧散し、
あとには何も残らない。
「…………」
自由になった藍染が、
ゆっくりと紫乃へと歩み寄った。
一歩。
また一歩。
藍染は紫乃の前で足を止め、見下ろした。
「隊士としての実力は認めよう。花房紫乃」
紫乃の意識は、すでに朦朧としている。
それでも、その声だけは遠くから聞こえていた。
「然し、君はあと一歩の所を、全て逃す」
霞む視界の中で、紫乃は僅かに目を開ける。
「あの時、催眠が掛かっていようとも
私を疑っていたのは、
奴の入れ知恵というのもあるだろうが――」
――真子。
霞んだ意識の中に、その顔が浮かぶ。
「その知恵さえも無意味なほどに、
君はただ傍観して悔やむだけで愚かだった」
藍染の声は、淡々としていた。
「そして、今もそうだ」
紫乃の指先が、僅かに動く。
「私を殺すことだけを遂行すれば、叶ったはずだ」
藍染の視線が、紫乃の手に残る鉄扇へ落ちる。
「それなのに――」
静かな声が続く。
「偽善で無能な部下を庇い、
自分が死ぬことになる」
紫乃は、薄く目を開けた。
ぼやけた視界の中に、藍染とギンの姿がある。
「君には、優しさという偽善があった」
藍染は言った。
「それが、君の才能を潰してしまったんだよ」
もう、言葉の意味を考えることさえできない。
声が遠い。
身体の感覚も、少しずつ失われていく。
ただ。
最後に紫乃の目に映ったのは――。
少し離れた場所に立つ、ギンの姿だった。
その表情からは、何を考えているのか分からない。
いつものように、薄い笑みを浮かべている。
けれど。
紫乃の意識が途切れる寸前。
胸に残った痛みとともに、
一つの疑問だけが消えずに残った。
――どうして、心臓を外したのだろう。
答えは、分からない。
考えることも、もうできない。
紫乃はただ、ギンを見上げた。
そして、そのまま静かに意識を手放した。
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