痕跡


*





紫乃は目を覚ましてからも、
しばらく四番隊の総合救護詰所で
療養を続けていた。

胸の傷は未だ痛みを残していたが、
日を追うごとに少しずつ身体は回復している。

今では、上半身を起こしていられるまでになった。

「…………」

清音に持ってきてもらった本を手に、
紫乃は静かに頁を捲っていた。

仕事をすることもできず、身体を動かすこともできない。

こうして本を読むくらいしか、
今の紫乃にはできることがなかった。

そんな時だった。

廊下から、やけに騒がしい声が聞こえてきた。

「俺と戦え! 黒崎一護!」

聞き覚えのある大声。

紫乃は本から顔を上げる。

「もう決着はついただろ!」

それに言い返す、若い男の声。

黒崎一護。

目を覚ましたらしい。

それにしても――。

「……もう走れるんだ」

思わず呟く。

あれだけの重傷を負っていたというのに、
目を覚まして早々、廊下を走り回っている。

若さとは、恐ろしいものだ。

「俺と戦えっつってんだろ!」

「だから嫌だって言ってんだろ!」

足音が、どんどん近づいてくる。

やがて病室の前を、
何人もの人影が駆け抜けていった。

オレンジ髪の黒崎一護が通り過ぎ、

それを追い掛けるのは、十一番隊隊長・更木剣八。

その肩には、副隊長の草鹿やちるが
楽しそうに乗っている。

「一護ー! 逃げるなよー!」

その後ろから、三席の斑目一角と綾瀬川弓親。

さらにその後ろを、必死に止めようとする
四番隊の隊士たちが追いかけていく。

「待ってください! ここは病院ですよ!」

「暴れないでください!」

「更木隊長! 黒崎さんも!」

瞬く間に騒音が遠ざかっていく。

「…………」

紫乃は呆気に取られたまま、
閉じた本を膝の上へ置いた。

静かになったと思った、その直後。

「騒々しいわね、全く!」

今度は別の声が響く。

聞き慣れた声に、紫乃は顔を上げた。

病室の扉が開く。

「乱菊……」

「紫乃さーん! お見舞いに来ましたよー!」

明るい声と共に、乱菊が駆け寄ってくる。

その勢いに、紫乃は思わず目を瞬かせた。

「ふふ……」

「何ですか?」

「ううん。なんでもない」

乱菊は紫乃の傍まで来ると、
近くの椅子へ腰掛けた。

「調子はどうですか?」

「だいぶ良くなってきたよ」

紫乃はそう答えながら、手にしていた本を見せる。

「手持ち無沙汰だから、
仕事を持ってきてもらおうと清音に頼んだの」

「え!?」

乱菊が目を丸くする。

「でも、怒られちゃって。
代わりに本を持ってきてもらったの」

紫乃が苦笑する。

「休める時に休んだ方がいいですよ。
本当、真面目ねー!」

乱菊は呆れたような、
信じられないような顔をする。

その表情がおかしくて、
紫乃の口元から自然と笑みが零れた。

けれど。

乱菊はすぐに視線を落とした。

さっきまでの明るさが、少しずつ消えていく。

「……斬ったのって」

静かな声だった。

「ギンだったんですよね……?」

紫乃は一瞬、言葉を失った。

それから、僅かに間を置いて答える。

「……うん」

「そう……」

乱菊は俯いたまま呟く。

「あいつ……」

それ以上は続かなかった。

裏切り者となり、
藍染と共に虚圏へ消えた市丸ギン。

乱菊にとっては、ただの同僚ではない。

幼い頃から共に過ごしてきた幼馴染。

紫乃が二人の関係を知ったのも、
乱菊から直接聞いた時だった。

それまで、二人が親しげに話しているところを
見たことがなかった。

だからこそ、幼馴染だと聞いた時には
驚いたものだった。

今こうして、乱菊の顔を見ると分かる。

理解できないのだ。

どうして、あのギンが。

何故、藍染と共に行ったのか。

紫乃は重くなりかけた空気を変えるように、
ゆっくりと顔を上げた。

「ギンくんは……昔から子どもらしくて、
可愛らしかったけどなぁ」

ぽつりと零した言葉に、乱菊が顔を上げる。

「ギンが?」

明らかに納得していない。

「昔から何考えてるか分からない奴ですよ」

「それはそうなんだけど……」

紫乃は小さく笑う。

「同じ三席の頃は、『紫乃さん』って呼んで、
駆け寄って来てくれてたよ」

懐かしい記憶を思い出す。

まだ幼さの残る顔。

細い身体。

それでも、どこか掴みどころのない笑顔。

「今思うと、それも裏があったのかも
しれないけど……可愛かったな」

「…………」

乱菊は何とも言えない顔をする。

そして、少し考えた後。

「……紫乃さんって、老けないですよね」

「え?」

突然の言葉に、紫乃が目を瞬かせた。

「だって、結構昔からいるんですよね?」

「……まあ、そうだけど」

紫乃は少し困ったように笑う。

「それを言うなら、卯ノ花隊長だと思うけど」

「そ、それは流石に禁句なので……!」

乱菊が慌てて手を振る。

「ふふっ」

今度は紫乃が声を立てて笑った。

「もう……乱菊ったら」

「だって本当のことじゃないですか!」

「本人の前では絶対言わないでね」

「言いませんよ! 絶対!」

二人の間に、
先ほどまでの重たい空気は消えていた。

それからしばらく。

紫乃は昔のギンのことを懐かしそうに話した。

乱菊は、そんな話を聞きながら
「やっぱり信じられない」と愚痴を零す。

他の誰にも話せないこと。

今だからこそ話せること。

それぞれが胸の内に抱えていたものを、
二人は静かに言葉にしていった。

病室には、久しぶりに
穏やかな笑い声が響いていた。






.