予兆
*
夜も更け始めた頃。
一護に教えてもらった地図を頼りに、
紫乃と阿散井が辿り着いたのは、
少し古びた一軒の建物だった。
軒先には、『浦原商店』と書かれた
看板が掲げられている。
「此処に喜助が……」
紫乃は立ち止まり、店を見上げた。
胸の奥から、遠い昔の記憶が静かに蘇ってくる。
かつて二番隊で共に過ごした日々。
夜一の隣で笑っていた喜助。
くだらない話をしながら、
皆で和菓子を食べたこと。
もう百年以上も前のことなのに、
その記憶は驚くほど鮮明だった。
今すぐにでも扉を開けて、本人の顔を見たい。
そう思ったのだが――。
店のシャッターは、固く閉ざされていた。
「クソッ……閉まってやがる!
今晩の宿でもあったっつーのに」
阿散井が不満そうに呟き、
閉ざされたシャッターを軽く拳で叩く。
紫乃もシャッターに手を添えた。
しかし、何も感じない。
霊圧を探ろうとしても、
まるで中に何も存在していないかのようだった。
「……何も感じない」
「え?」
「多分、鬼道か何かで霊圧を感知させない
ようにしているんだと思う」
紫乃はシャッターから手を離した。
喜助らしい、とも思った。
隠すべきものを隠すためなら、
彼は昔から随分と手の込んだことをする男だった。
「裏口もありませんね。どうします?」
阿散井が周囲を見回しながら、
困ったように頭を掻く。
「うーん……そうだね。
少し待ってみて、それでも戻って来なかったら
一護くんの部屋に戻って、
床でもいいから寝させてもらおうか。
二人ならなんとかなるでしょ」
「……それしかないっスよね」
二人は顔を見合わせる。
そして結局、何とも言えない場所に腰を下ろし、
店の前で待つことになった。
閉店した商店の前に、男女が並んで座っている。
周りから見れば、かなり奇妙な光景だろう。
けれど、今の二人には他に方法がなかった。
しばらくの間、会話はなかった。
夜の街には、現世の喧騒が遠く聞こえている。
そんな静けさの中で二人きりになると、
阿散井は何となく居心地の悪さを覚えた。
やがて、沈黙に耐えきれなくなったように
口を開く。
「……花房副隊長って、
浦原喜助と面識あるんスか?」
「うん。あったよ」
紫乃は素直に答えた。
「夜一さんも、喜助も、私の元上司」
「でも、今も名前で呼んでたっスよね?」
阿散井はさらに尋ねる。
「喜助は上下関係に緩かったからね。
仲良かったんだよ」
そう言って、紫乃は懐かしそうに笑った。
昔の喜助を思い出す。
何かにつけてふざけて、
夜一に怒られて、
それでも懲りずに笑っていた男。
時には皆で和菓子を食べながら、
取り留めのない話をしたこともあった。
その記憶を辿るうち、
紫乃は膝を抱えるようにして座り、
そこへ顔を埋めた。
「でも……」
小さな声が落ちる。
「もう私には会いたくないのかもしれないね」
「……」
阿散井は黙って紫乃を見る。
その表情は、普段の穏やかなものとは
少し違っていた。
百余年前。
藍染の催眠に気付くことができなかった。
その結果、喜助や夜一たちを
罪人として追われる身にしてしまった。
二人が尸魂界から逃亡
せざるを得ない状況になったことを、
紫乃は今でも自分の責任のように感じている。
恨まれていても仕方がない。
そう思っていた。
「……もし、そうだとしたら」
阿散井が静かに口を開く。
「それなら、あの人達はルキアや
一護に手を貸さなかったはずですよ」
紫乃が顔を上げる。
「……え?」
「死神を恨んでいたら、
死神に手を貸したりしません」
阿散井は、紫乃の目をまっすぐ見た。
「だから、個人的に
花房副隊長だけを恨むなんてことも、
可能性としては低いと思いますよ。……多分」
最後だけ少し自信なさげに付け加える。
けれど、その言葉は確かに紫乃の胸へ届いた。
張り詰めていたものが、
ほんの少しだけ緩んでいく。
「……そっか」
紫乃は小さく笑った。
「ふふっ。阿散井くんに励まされて……
駄目だね、私」
「いや、そんな……」
「ありがとう」
紫乃が微笑む。
阿散井は何となく照れ臭そうに視線を逸らした。
そして、少し間を置いてから口を開く。
「……あの」
「うん?」
「その、阿散井くんって呼ぶの、
やめてくれませんか?」
「え?」
紫乃は思わず聞き返した。
「先日の飲み会でも思ったんスけど……
俺だけ丁寧っていうか、よそよそしいっつうか」
阿散井は少し気まずそうに頭を掻く。
「なんか、餓鬼扱いされてるようで嫌なんスよね」
紫乃は瞬きをした。
言われてみれば、確かにそうだった。
乱菊、修兵、イヅル、一角、弓親、射場さん。
普段から親しい相手は、自然と名前で呼んでいる。
射場さんは何となく違うけど。
それに対して阿散井だけは、
無意識のうちにずっと
「阿散井くん」と呼んでいた。
副隊長になったばかりで、
どこか遠慮していたのかもしれない。
「……そうだった?」
「そうっス」
「そっか」
紫乃は少し考えた後、穏やかに笑った。
「じゃあ、今日から恋次って呼ぶことにするね」
「……っ」
「私のことも紫乃さんでいいんだよ。
同じ副隊長なんだし」
阿散井は一瞬だけ目を逸らした。
「……っス」
短く答えた声は、どこか照れ臭そうだった。
紫乃はそんな彼の様子を見て、ふっと笑う。
少しだけ、心が軽くなった。
――その瞬間だった。
ズシン。
空気そのものが沈み込むような、
重い霊圧が街を覆った。
紫乃の表情から笑みが消える。
阿散井も瞬時に立ち上がった。
敵襲。
その言葉が、頭に浮かぶ。
「……恋次」
「分かってます」
空間が歪む。
次の瞬間――。
空間そのものが引き裂かれ、
その裂け目の向こうから、
巨大な虚の口腔を思わせる黒い穴が開いた。
その向こうから、一体の破面が姿を現す。
「……破面」
阿散井が斬魄刀へ手を伸ばす。
「数体いる」
紫乃も斬魄刀に手を添える。
霊圧感知に長けた紫乃には、
この場に現れた一体だけではない
ことが分かっていた。
目の前の破面も強い。
だが、それだけではない。
遠く離れた場所にも、
別の霊圧がいくつも散っている。
一護や日番谷たちの前にも、
それぞれ別の破面が現れているのだ。
「……他にもいるね」
「一護達の方もっスよね?」
「うん」
紫乃は静かに頷いた。
「なら、まずは目の前の敵を倒して合流しよう」
「ああ」
阿散井が斬魄刀を抜く。
紫乃もまた、静かに柄を握り直した。
浦原商店を訪ねるはずだった二人の夜は、
こうして突然、戦いへと変わった。
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