噂


*





花房紫乃は、酒に酔い潰れることはあっても、
翌日には一切引きずらない体質だった。

頭痛もない。

吐き気もない。

酒の匂いさえ残らない。

そして何より厄介なのは
――記憶がほとんど残っていないことだった。

昨夜、自分が誰に甘え、
誰に寄り掛かり、
どれほど醜態を晒したのか。

本人だけが何も知らない。

朝日が障子越しに差し込み、
二番隊隊舎に一日の喧騒が戻る頃には、
紫乃もすでにいつもの姿へ戻っていた。

執務室では今日も
机いっぱいに書類が積まれている。

「これを大前田副隊長に届けて。
経費精算書は六割受領、
残りは実費とのことも伝えてね」

「はっ!」

隊士は書類を受け取るなり瞬歩で姿を消した。

紫乃は間髪入れず次の束へ手を伸ばす。

「これは三番隊、こっちは六番隊。
提出期限が今日だから先にお願い」

「承知しました!」

認印を押す乾いた音。

筆を走らせる音。

隊士たちが慌ただしく出入りする足音。

机の上の書類はみるみる減っていく。

昨日、酔い潰れて海燕に背負われて帰った
人物と同一人物だとは、
誰一人思わないほど普段通りだった。






一方、その酒席を共にした八番隊では。

「リサちゃん、昨日ありがとうね。
志波くん呼びに行ってくれて」

朝、執務室へ入るなり、
京楽は真っ先に礼を言った。

「手ぇ出してへんやろな?」

リサは開口一番、真顔で問い掛ける。

「ひどいなぁ」

京楽は肩を竦めた。

「僕を何だと思ってるの?」

「酒飲みエロジジイ」

「それは酷くないかい?」

苦笑しながら頭を掻く京楽に、
リサは呆れたように書類の束を机へ置いた。

「この書類の山、認印頼んだで。
アタシは羅武と拳西んとこへ届けに行くから」

「いってらっしゃい」

京楽は侍女が淹れてくれた温かい茶をすすりながら、
昨夜の酒を誤魔化すように息をついた。

「紫乃ちゃん、
また何も覚えてないんだろうなぁ……」

そんな独り言は湯気と一緒に消えていく。



リサは書類を抱え、
瀞霊廷の通りを軽快に走っていた。

すると広い通りの真ん中で、
平子真子と愛川羅武が
立ち話をしている姿が目に入る。

「お、リサ。お疲れさん」

平子が手を上げる。

「羅武、ちょうど良かった。
これ、あんたんとこの副隊長に渡しといて」

リサは足を止めることなく書類を押し付けた。

「隊長を付けなさい、隊長を」

羅武は受け取りながら眉をひそめる。

「ったく、ひよ里といい、
お前らは自由過ぎんだよ」

「今さらやろ」

リサは肩を竦めた。

すると平子が思い出したように口を開く。

「ちょうど羅武と、そろそろ飲まへんかーって
話しとったんや。リサもどうや?今夜でもええで」

「今夜はあかん」

リサは即答した。

「昨日遅くまで付き合わされて、
連日飲みたくないわ」

「京楽さんか?」

羅武が意外そうに聞く。

「お前が付き合うの珍しいな」

「二番隊の三席とうちの隊長が飲むから
付き合わされたんや」

その一言で、平子の眉がぴくりと動いた。

「二番隊の三席……って、紫乃か?」

「真子、知ってるのか?」

羅武が聞く。

「二番隊なんて関わりないだろ?」

「喜助の友だちやねん」

平子はそう答える。

そして少し考えるように顎へ手を当てた。

「あの子、お酒好きなんや」

甘い物好きという印象が強かっただけに、
少し意外だった。

リサは思わず鼻で笑う。

「酒好きどころの話やないけどな」

その一言に、平子と羅武が同時に顔を向けた。

「気になるなら誘ってみ。
昨日の今日は向こうも大変やろうから、別日でも」

リサはにやりと笑う。

「面白いっちゃ面白いで」

「へぇ」

平子の興味がますます膨らんでいく。

「じゃ、拳西の所にも用あるから。
飲む日決まったら教えてな」

そう言うとリサは再び走り出し、
瞬く間に姿を消した。

残された二人は、その背中を見送る。

「二番隊なんて堅そうな連中の
イメージだけどなぁ」

羅武が頭を掻く。

「隊長が破天荒やし、
喜助もおった隊に説得力ないわ」

平子がすかさず突っ込んだ。

しかし平子の頭に残ったのは、別のことだった。

『酒好きどころの話やない』

リサがそう言うほどなのだから、
相当飲めるのだろう。

昨夜も京楽と遅くまで飲み続けていたらしい。

相当酒に強い。

平子はそう勝手に結論付けた。

まさか、その実態が「酒に強い」のではなく、
「酒乱」だとは。

この時の平子は、まだ知る由もなかった。







.