余韻
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「花房三席、おはようございます」
「おはよう」
「おはようございます、花房三席」
「おはよう」
翌朝。
紫乃は身支度を整えると、
二番隊隊舎の廊下をいつものように
姿勢よく歩いていた。
昨夜遅くまで飲んでいたとは思えないほど
足取りは軽く、表情にも疲れはない。
すれ違う隊士たちの挨拶へ穏やかに応えながら
向かった先は、隊首室だった。
隊首室の前で立ち止まり、襖越しに声を掛ける。
「夜一様、おはようございます。
入っても宜しいでしょうか」
「構わん」
返事を聞き、「失礼します」と
一声添えて襖を開けた。
室内では、ちょうど着替えを終えた夜一が
隊長羽織へ腕を通しているところだった。
「夜一様、刑軍訓練の前に、
こちらの書類へ目を通して頂きたく」
紫乃は数枚の書類を差し出す。
夜一は受け取ると、流れるように目を通し、
小さく頷いた。
「ふむ……良いのではないか」
書類を閉じる。
「これなら涅マユリとやらも、
喜助のもとで復帰できるじゃろ」
「ありがとうございます。では、
このまま中央四十六室へ提出いたします」
紫乃は書類を受け取り、次の予定を確認しようと
口を開いた。
「昼の会食は大前田副隊長が
同席されるので、お迎えも——」
「そういえば」
夜一が口元を緩めた。
「昨夜は遅くまで楽しんでおったそうじゃの」
その一言に、紫乃はきょとんと瞬きをする。
「隊士が驚いておったぞ」
夜一は面白そうに続けた。
「いつもの男ではなく、
五番隊隊長がお主を連れて帰ってきたとな」
紫乃は目を丸くした。
「平子隊長が……?」
記憶を辿ろうとしてみる。
けれど、思い浮かぶのは六人で賑やかに
飲みながら話していたところまでだ。
その先は、真っ白だった。
夜一は小さく笑う。
「ふっ……お主も相変わらずじゃな」
その笑いに責める色はない。
「とはいえ、他所の隊長に五体満足で
送り届けてもらったのじゃ。覚えておらずとも、
礼くらいは伝えておくのじゃぞ」
少し間を置き、穏やかに付け加える。
「その隊士には、他の者へは言うな
とも伝えておる」
余計な噂にならないよう、
先回りして口止めまでしてくれていたらしい。
紫乃は申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ありません……」
「わしに謝る必要はない」
夜一はあっさりと言い切った。
「むしろ交流が増えたのは良いことじゃ」
その言葉に紫乃は顔を上げる。
「気を許せる人間がおれば、
お主も少しは肩の力が抜けるじゃろう」
その声音には、隊長としてではなく、
一人の上司として紫乃を案じる優しさが滲んでいた。
紫乃は静かに微笑む。
「ありがとうございます、夜一様」
深く一礼すると、隊首室を後にした。
廊下へ出ると、いつもの忙しい
一日がまた動き始める。
「取り敢えず急ぎの書類も済ませて……」
歩きながら予定を頭の中で組み立てる。
「提出が終わったら、
一番街の和菓子屋に寄って……」
そこで足が少し止まった。
「そのあと、平子隊長のところへ顔を出そう」
自然に口を突いて出た言葉に、自分でも少し驚く。
昨夜の記憶は、皆で笑って飲んでいた辺りまでは
覚えている。
その先だけが、
綺麗に霞が掛かったように抜け落ちていた。
それなのに。
月夜を背に笑う平子の横顔だけが、
ぼんやりと浮かんだ。
夜風に揺れる長い金髪。
柔らかく笑う口元。
誰かと並んで歩いていたような感覚だけが、
夢の名残のように胸へ引っ掛かっている。
「……」
こんな風に断片だけが残ることは、
今まで一度もなかった。
紫乃は窓辺で立ち止まり、秋晴れの空を見上げる。
流れていく白い雲を眺めながら、小さく呟いた。
「……午前中、平子隊長起きてるかな」
その呟きだけが、静かな廊下へ溶けていった。
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