警鐘
*
二番隊隊舎へ戻った紫乃は、
執務室で書類仕事を片付けていた。
筆を走らせる音だけが静かに響く部屋へ、
廊下の向こうから聞き慣れた
騒がしい足音が近付いてくる。
――まただ。
扉が勢いよく開く前から、
誰が来たのか分かってしまう。
「花房三席ぃー!」
案の定、扉を勢いよく開けて
飛び込んできたのは大前田副隊長だった。
部下を遣わさず本人が来る時は、
大抵ろくでもない急ぎの用件だ。
紫乃は筆を置き、立ち上がる。
「大前田副隊長、お疲れ様です。
どうされましたか?」
「これを一番隊隊舎へ届けろ」
返事を待つこともなく、
ずしりと厚みのある報告書を突き出された。
受け取ると、表紙には大きくこう記されている。
――『鬼道の疑似重唱考案書』
「これは……?」
紫乃が表紙を見つめると、
大前田は待ってましたと
言わんばかりに胸を張った。
「詳しくは読めば分かる!」
「八十番台の縛道を詠唱破棄しながら制御し、
複数回詠唱した時と同等の出力を得る
高度な技術を開発したんだ!」
拳を握り締め、興奮気味に続ける。
「これなら夜一様が仕事を放棄して
逃げても捕らえられるぞ!」
「なるほど……」
理論としては確かに興味深い。
鬼道を維持したまま重ねる発想は容易ではなく、
実用化できれば戦術の幅も広がるだろう。
紫乃は資料を軽く捲りながら頷いた。
「これを今から一番隊へ届けるのですか?」
「俺の功績を一日でも早く広めるべきだろう?」
あまりにも当然という顔で言われ、
紫乃は一瞬だけ言葉を失う。
窓の外へ目を向ければ、
空には既に月が昇っていた。
流魂街では不可解な変死事件が続き、
夜間の外出を控えるよう
各隊でも注意が回っている。
そんな状況でも、大前田にとっては
自らの成果を早く総隊長へ
届けることの方が優先らしい。
「……承知しました」
上司の命令である以上、断る理由はない。
紫乃が報告書を抱えると、
大前田は満足そうに頷いた。
「頼んだぞ!」
そう言い残し、
来た時と同じ勢いで執務室を去っていく。
再び静けさが戻る。
紫乃は腕の中の分厚い報告書を見下ろえ、
小さく息を吐いた。
「仕方ない……」
夜風が障子をかすかに揺らす。
嫌な胸騒ぎを覚えながらも、
紫乃は報告書を抱え直し、
一番隊隊舎へ向かうため執務室を後にした。
◇
報告書を抱えたまま、
一番隊隊舎の敷地内を歩いていた、
その時だった。
ガン、ガン、ガン――。
瀞霊廷中へ響き渡る警鐘が夜気を震わせる。
紫乃は思わず足を止めた。
次の瞬間、無数の地獄蝶が飛び立ち、
辺り一帯へ緊迫した声を響かせる。
「緊急招集!緊急招集!
各隊隊長は直ちに一番隊隊舎へ集合願います!」
「九番隊に異常事態!九番隊隊長・六車拳西、及び
副隊長・久南白の霊圧反応消失!」
「これより緊急隊首会議を開く!」
伝令を聞いた隊士たちの表情が一変する。
「拳西さんと……白さんが……」
紫乃も報告書を抱く腕へ思わず力を込めた。
六車拳西。
久南白。
つい先日まで笑い合って
酒を酌み交わしていた二人の名が、
こんな形で響くとは思いもしなかった。
本来、隊首会議は隊長以外立ち入り禁止である。
盗み聞きなど論外だ。
だが、隊長格が消息を絶ったとなれば
話は別だった。
増援が出る可能性は高い。
機動力を考えれば夜一が動く可能性も十分ある。
居ても立ってもいられず、紫乃は本堂へ向かった。
すると建物の外壁沿い、
小窓の下に見覚えのある人影を見つける。
矢胴丸リサだった。
小窓へ耳を寄せ、
堂々と隊首会議を盗み聞きしている。
「矢胴丸副た――」
声を掛けかけた瞬間。
リサは人差し指を唇へ当てた。
「しー」
さらに掌を下へ向け、指先をくいくいと動かす。
――こっち来い。
そんな合図だった。
紫乃は戸惑いながらも黙って隣へ並ぶ。
小窓越しに、本堂の声が微かに聞こえてきた。
「火急である!」
総隊長・山本元柳斎重國の低く重い声が堂内へ響く。
「相次ぐ魂魄消失事件調査のため
野営していた九番隊隊長・六車拳西、及び
副隊長・久南白の霊圧反応が消失した!
隊長格以上の敵が存在すると判断し、
直ちに増援を派遣する!名を呼ばれた者は――」
「待って下さい!」
鋭い声が総隊長の言葉を遮った。
遅れて駆け込んできたのは浦原喜助だった。
肩で息をし、額には汗が浮かんでいる。
普段の飄々とした姿はどこにもなかった。
「僕に……行かせて下さい!」
必死だった。
紫乃は目を見開く。
――どうして、そこまで。
その疑問へ答えるように浦原が続ける。
「僕の副官が現地へ向かってるんス!」
「僕が――!」
その焦燥を打ち砕くように、一喝が飛ぶ。
「喜助!!」
夜一の声だった。
建物の外にいる紫乃まで肩を震わせるほど
張り詰めた叱責だった。
「情けないぞ!取り乱すな!
自分で選んで送り出した副官じゃろう!」
「おぬしが取り乱すことこそ、
その者への侮辱じゃということが分からんか!!」
本堂が水を打ったように静まり返る。
数秒の沈黙の後、総隊長が再び口を開いた。
「……続けるぞ。
三番隊隊長・鳳橋楼十郎!
五番隊隊長・平子真子!
七番隊隊長・愛川羅武!
以上三名、直ちに現地へ向かえ!」
平子の名が呼ばれ、紫乃は思わず顔を上げた。
夜一や隠密機動が出ると思っていた予想は外れた。
続いて総隊長は矢継ぎ早に命じる。
「二番隊隊長・四楓院夜一は別命あるまで待機!
六番隊隊長・朽木銀嶺!
八番隊隊長・京楽春水!
十三番隊隊長・浮竹十四郎!
以上三名は瀞霊廷守護!
四番隊隊長・卯ノ花烈は総合救護詰所にて待機!」
その時だった。
「お待ち下さい、総隊長。」
卯ノ花が静かに異議を唱える。
「負傷者の救護を考えるのであれば、
私は現地へ赴くべきではありませんか。」
しかし総隊長は首を横へ振った。
「状況が不明な以上、
治癒部門の責任者を動かす訳にはいかん。
現地には別の者を向かわせる。」
そして扉へ向かって告げる。
「入れ。」
襖が開く。
姿を現したのは鬼道衆総帥・握菱鉄斎。
その隣には副鬼道長・有昭田鉢玄。
鬼道を極めた二人だった。
紫乃は腕の中の報告書へ視線を落とす。
本来、この『鬼道の疑似重唱考案書』も、
彼らへ提出する予定の資料だった。
「話は伝わっておるな。
現地へ向かってもらう。」
「承知。」
「わかりましタ。」
二人が応じた、その時。
「おーーい、山じい。」
間延びした声が響く。
京楽だった。
総隊長がじろりと睨む。
「や、すんません。」
「状況も分からん前線へ、
大鬼道長と副鬼道長の両方送るのは
危ないんじゃないですかねえ」
「……ならば、何とする。」
京楽は肩を竦めた。
「代わりに、うちの副隊長を行かせますよ。」
紫乃は隣のリサを見た。
リサは表情一つ変えていない。
まるで最初から自分の名が出ると
分かっていたかのようだった。
その直後。
「おーい、リサちゃーん。」
京楽が後方の小窓へ向かって声を掛けた。
「何や!」
リサはぴょんと軽く跳び、
小窓の格子へぶら下がって顔を覗かせる。
「隊首会議、覗き見しちゃ駄目って言ったでしょ。」
困ったように笑う京楽へ、
リサは悪びれもなく言い返した。
「しゃあないやろ!」
「隠れとるもんほど見たなるんが人の性や!」
そう言うなり、リサは紫乃の肩をぐいっと抱き寄せる。
「それに今回は紫乃もおんねんで!」
小窓から紫乃の姿まで見える位置へ
引っ張り出されてしまった。
「えっ……!」
紫乃の顔から血の気が引く。
堂内が一瞬静まった。
そして。
「……紫乃?」
平子の小さな呟きだけが、
静まり返った本堂へ落ちた。
紫乃は冷や汗を流しながら、
小窓の外で固まることしかできなかった。
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