笑って 笑って 笑って


言い訳をさせてもらえば、
ひどいことをした自覚はあった。

22歳の春。
四年生大学を卒業した俺は警察学校に入学した。
全寮制なのですぐに一人暮らししていた部屋は引き払ったが、荷物は持っていくもの以外は実家に少しだけ送り、残りのほとんどを捨てて、わずかな私物を隣の部屋に住んでいた夢子の部屋に置かせてもらった。

パジャマにしていた着古した高校のジャージや二、三日分の着替えを詰めた小さなボストンバッグ。

ボストンバッグの一番上にアルバムを置いた時、夢子は少しだけ目を留めていたが何も言わなかった。



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アルバムと言っても、
ふたりの写真は一枚もない。

夢子も俺もあまり写真が好きではなかったし、俺も将来のことを考えれば撮ることはなかった。

そんなことは知らない周りの人間が高校の卒業の時に二人で思い出作ってねと渡してきた白紙のアルバム。
かわりに作ったのは二人で歩いた道や旅先の風景写真や入場券をまとめたもの。

二人で過ごした四年間の大学生活がそのまま閉じ込められていた。
ジーッと音を立ててチャックを閉めた。
たいして重くも軽くもなかったと思う。


荷物を置いたところで警察学校からここへ休みに戻るのが難しいことは想像に容易かったし、夢子にもそう伝えてあった。
だから、悪いんだけど置かせてくれと言った時夢子は少しだけ驚いた顔をしてからしょうがないなと笑っていた。

四大卒であれば半年。あっという間である。

すぐに夢子とも会える。
そう思っていた。

そう。だけど。

思っていたと同時に自分の就きたい仕事を考えれば、俺と夢子の将来がどうなるのかなんて全くわからなかった。

分からなかったけれど、そのブラックホールに突入すれば立ち止まらざるをえないことが俺も夢子も分かっていたから。




だから、2人とも逃げていた。




遅くても半年後には1回会えると俺も言ったし、零くんのお疲れ様会とわたしの前期実習お疲れ様会しようねと夢子は笑っていた。

それじゃあといって俺はその場で店まで決めた。

いつかこんな所で食事したいねと二人でたまたま通りかかった大学生には分不相応な憧れのフレンチ。
そして埋まるかもしれないからなんて俺が言って半年も先の予約までした。

フレンチのマナーってどうだっけとか、俺警察学校出たばっかだと髪やばいかもとか、ドレスコードがどうとか。
どうでもいいような話を二人でして、また笑っていたと思う。

笑ってはいたけれど夢子はそんなに先なのにもう予約しちゃうのー?とか
零くん帰ってきてから決めなくて大丈夫?そのドレスコードと髪のバランスとか。
色々と茶化してきた。

今から思えば夢子は逃げずに1人で立ち止まって、いや立ち向かっていたのかもしれない。
いつだって俺のことを信じて、俺の実力を誰よりも信じていたのは夢子だ。
だから夢子は俺が公安に入ることを信じて疑わなかったんだと思う。

俺でさえ、やれると思いつつもどこかで不安に思っていたのに。

きっと夢子は、俺たち二人の未来の暗闇を俺よりずっと具体的に捉えていた。

実際に、入校してメールの返事が3日後になっても一週間後になっても夢子は何一つ文句を言わなかった。
電話口では身体だけは大事にねと少しだけ寂しそうに笑っていた。
夢子も夢子で大学の実習がかなり忙しいようで疲れた声の時もあった。
それでも俺と話す時は明るい声をしていたと思う。
最近こういうことがあったとか、誰々が付き合い始めたとか、実習で当たったこういう症例が辛かったとか。

俺は話せることだけ話していたら何か1番になったとか教官に褒められたみたいな話ばかりになって、俺自慢ばっかだなとため息まじり言えば、夢子は昔からだよとおどけて笑った。
思わず顔が引きつった頃にうそうそ、頑張ってるみたいで安心したと暖かい声が聞こえた。


けれどある日教官に呼び出されて告げられる。
自分が評価されたことは素直に嬉しかったし、示された辞令も自分の目指していたところだった。
警察学校でトップを一度も譲らず他に誰が行くんだという自負もあった。
すぐにでもということで先方に話を聞けばもう仕事も決まっていた。
期待され誰にでもできるわけじゃない仕事を任されると思うと胸が熱くなった。

同時に夢子のことが頭をよぎった。

あの日あの部屋でボストンバッグを受け取った夢子の少しだけ寂しそうな笑顔が。

同じ頃鴇は学外実習と学会のために渡米していた。
なんでも高名な先生に認められて選ばれたらしい。
そうメールに書いてあったはずだ。

でもその携帯電話は解約したから本文をもう1度確認することはできない。

夢子がいないのをいいことに部屋に行ってボストンバッグを回収した。
どうしても気になってチャックを開いてアルバムを眺めた。

一枚一枚、全て覚えていた。

一緒に入学した時のもう散り始めていた桜の写真も、初めて二人で行った伊豆の海も。
全て全て覚えていた。

「俺は弱いな」

虚しく声がひびいた。
フレンチの予約は2週間後だった。
夢子が帰ってくる翌々日。

二人で食事をしたテーブルに、分厚くなって少しだけ表紙の掠れた思い出を遺して、俺は部屋に記憶を閉じ込めた。
授業のスライドだろうか。
置きっぱなしだった救命概論と書かれたA4の紙の束をひっくり返して、裏紙代わりに文字を残した。

たった4文字。
わかっていたことだけど、許して欲しかった。

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