レベッカとチェシャ猫


「お久しぶりですね」

「そうでしたね」

「最近は実験がお忙しかったんですか?」

「まあ、そんなところですよ」

沖矢昴は大東都大学大学院工学部博士課程に所属する学院生である。
実験が忙しかったのかと聞かれて、それを思い起こすことに時間は要さなかった。
目の前の女性との会話も随分と滑らかになったものだ、そう赤井秀一は沖矢昴の顔を被って思っていた。

沖矢昴と目を合わせることなく氷を丁寧に削る様子は様になっていた。
たまにちらりと視線だけこちらに向けるものだから自然と大きな瞳が上目遣いになる。
小さな手が危なげなく刃物を扱う様はなんだか胸を熱くさせた。
ぴったりとしたベストやスリットの深い膝上のタイトスカートがこの一枚板のカウンターに隠れていて本当によかったと思う。
彼女は、その身体の華奢さに抱えきれないほどの艶を孕んでいるのだから。

「お待たせしました」

「おや、これは」

「前回仰っていたレベッカです」

「覚えていたんですか」

また、伏せ目がちに口元を緩ませた。
そろりと下からボトルを出された。
細くて真っ直ぐな指が女性のラベルの貼られた年代物のボトルを愛おしげにそっと撫でる。
ボトルネックに絡んだ指は真っ白でまた妙な気分になりそうだとそこから視線を外して彼女を見つめた。

「覚えていますよ、沖矢さんとのお約束ですから」

「他のお客さんとの約束もそんなに鮮明におぼえてらっしゃるんですか?」

「ふふ、お約束をするお客様は少数ですよ」

「ほぉ〜」

彼女から渡されたボトルを受け取りしげしげとラベルを見つめた。
中で揺らめくウイスキーはとぷんと跳ね返りを見せる。

「それに」

「それに…?」

「沖矢さんは特別ですよ」

「夢子さんの特別ですか」

「ええ、長く通って頂いているので」

「まあ何にせよ、貴方の特別と言われて嫌な気持ちを抱く方はいないでしょう」

「ふふ、そうかな」

一瞬だけ砕ける口調。また、胸がカッとなる。
話しかけようにもすでに別の客が彼女に話しかけ、彼女は鈴のような声を転がしながら危なげなくクイーンズイングリッシュを紡いでいる。
客は二人組。一人はたまにここで見かける顔で、もう一人は興奮したように大きな声と身振り手振りで彼女に話しかける様子から初めて来たようで、連れは呆れたように笑っている。
彼女は周りの客に迷惑をかけることを嫌う。
彼女自身も大きな声は苦手な様子で、無闇に身体___手などにも___に触れることも普通の女性以上に苦手ではあるようだった。
もっとも接客態度には全く出ていないが。

ならばこんな夜の仕事をするのは向いていないのでは、と沖矢昴の顔で初めてこの店に来た時俺が問うたら、彼女はまた小さく笑いながら言ったのだ。

『まあ今は特にやりたいこともないですし、お酒は好きですから…趣味の延長みたいなもの、ですよ』

美しい丸氷に琥珀色のバーボンをとくとくと注いで俺の前に音もなく置くと、彼女はその時もそれきり会話を挟むタイミングがなく、ほかの客のオーダーを受けていた。

少し前のことを思い出していれば、彼女がさっと俺の手元にあった小さなバスケットにチョコレートを補充した。

「ありがとうございます」

「考え事ですか?」

「このお店に初めて来た時のことを思い出していました。ですが、なぜ?」

「沖矢さんは考え事をしている時、チョコレートが進みますから」

「こらは、お恥ずかしい。そんなつもりはないのですが」

「それにしても、沖矢さんが初めて来た時ですか…ふふ」

「おや、なんの笑いですか?」

「いえ、随分と"慣れ"た様子だったので」

「ほぉ〜そうでしたか?オーセンティックバーは結構通っていたので」

「でも今は、ここに通って下さる」

「素敵なお店ですからね」

「ふふ、ありがとうございます」

彼女はこうしてたまに少しだけ笑って気になることを言う。
追いかけたくなってしまうような、言葉の置き方が上手いのだ。



そう。
俺は赤井秀一の頃にも、何度かこの店に足を運んでいた。
最初はジェイムズに連れられて。
それは彼女が初めて出勤した時だった。
最近はほとんど見かけない当時のオーナーに店のことを習っている様子が思い出される。
大量にあるウイスキーのボトルも、オーナーはよく出るものを中心に場所や少しの説明を加えながらさらさらと流していく。
メモ帳を持ってはいたが大したことはメモする様子はなかった。
こんな調子じゃ絶対に覚えられないだろと俺はカウンター越しにそう思っていたが、彼女は確かに全てその場で覚えていた。
黒曜石のような瞳の彼女を少しだけ困らせたくなって、俺は説明されたウイスキーの一列後ろにあった説明されていないウイスキーを頼んだのだ。
ジェイムズが窘めるように俺に視線を投げたのを覚えている。
あの頃は俺も若かったのだ。
別段彼女は困った様子もなく返事をすると、一切迷った様子もなくそのウイスキーを取り出して、オーナーに指示を仰いでいた。
これは説明してなかったのによく分かったねと彼に言われた彼女は、何事も無かったかのようにたまたま目に付いたのでと答えた。
そして彼女も視線を俺に投げながら、少しだけ、あの時もチェシャ猫のように少しだけ笑ったのだ。

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