minus Raison d'être


V 三年目、アンコールを何度でも。


V‐@

心地よさに浮かされるままに、漏れ出る声を止めようがなかった。
「あー……きもち……」
「な。最高ー……」
 身体全体を心地よさに預けている。力を抜けば、たゆたうような温もりと、外気に触れた肌の涼やかさが染み入るように凝り固まった日常をほぐしていく。見上げれば、果てのない満天の星空が広がっていた。岩肌の露天風呂。東屋のような屋根の下にもまた違う種類の温泉があるらしい。隣に座る三井の顔に視線を移せば、彼は星空を見上げ、瞬く星を数えているかのようだった。うっすらと残る顎の傷を縫うように視線をそこでとどめる。
「……どした?」
「いや、別に」
 宮城の視線に気付いたのか、きょとんとした三井の表情がこちらをうかがってくる。それに首をふり、宮城は肩をあげて、おろした。ちゃぷん。温泉がちいさな波紋を作る。都会では見えないようなけれど名前の知らない星々の世界が視界いっぱいに拡がっている、その下で。宮城は三井とまるでふたりきりのような気分だった。アルコールに浮かされた頭で、そういえば他の客の姿が見えないことに気付く。一日に何組もいない宿泊客。他の客はすでに夕食前に温泉を楽しんだのだろうか。すでに眠りに就いているのか、温泉にはふたりだけだった。
「……そろそろ出るか」
「ん」
「明日の朝もっかい入ろうぜ」
「いいね。オレ、サウナ入ろ」
「いいなそれ。オレも」
 波を作りながら立ち上がる三井が、小さなタオル持って先に上がる。宮城はその後を追いかけた。屋内の大きな浴槽にはりんごが網にかかっていて、ほのかな香りを立てている。こちらには夕飯前にすでにつかっていた。軽くシャワーで身体を流してから脱衣所で手早く着替えを済ませてしまう。火照った身体に扇風機で風を当てながら、三井は髪をボディタオルで乱雑に拭っていた。
 ……三井は何も変わらない。なにも変わらなかった。宮城に「ずっといっしょにいるしかないぜ」と告げた夏の海でも、自身が怪我をした時でも、宮城が怪我で離脱した時も、そんな後輩の自慰を手伝っても、怪我の治った宮城が自分の部屋に戻ってからも。
 目標のひとつだった昇格を果たした、そのオフシーズン。三井から誘われたのは長野の山奥にある旅館だった。お忍びで使われていそうな、悪く言えば何もない――なにせ村内にはコンビニもないのだ――よく言えば優しさに満ちあふれたのどかな場所で信号がひとつしかない、そんな村の中にある旅館。駐車場に入る坂道の脇にある小屋にはヤギが飼われていて、喧噪とは無縁の場所に思わず三井の横顔を三度見ほどした。三井もはじめて来たらしく、旅館の中でも場所によっては携帯に電波が立たないことをふたりで笑い合う。都内からは車で五時間ほどかかる場所。道中三井はずっと上機嫌で、宮城もその機嫌にひっぱられるように車内で夏の歌を口遊んでいた。
 夕飯に炉端焼きを供して宿泊客をもてなした後、厨房は夜の9時には火を落としてしまうとのことだった。この旅館のことは伊万里から教わったらしい三井曰く、その前に酒を厨房へ求め部屋で酒盛りを続けるのが礼儀だという。なんのだろう。
 すでに灯りが落とされたフロント。最低限の明かりだけ灯る屋内。伊万里の助言通り、ワイン一本と日本酒が冷蔵庫で待っているというのに、宮城は三井の袖を引いて客室に上がる階段横の自販機を指さした。ビールが必要ではないだろうか。三井はにやりと笑うと、現金しか使えない自販機に千円札を吸い込ませた。
「オレ財布部屋に置きっぱなんで」
「あ? いーよビールくれえ」
「あざす」
 暗がりには静寂が落ちている。他に誰もいないのではないかと思えるほどの静まりかえった暗がりで思わず声を潜めたというのに、そんなことを気にもせずにビールは遠慮のかけらもない大きな音を立てて2本ごとごとと落ちてくる。笑みを交わしながらそれを回収して、火照った身体をビールで冷ましながら部屋へと戻った。
 オートロックなんてものはない。それでもがちゃりと回した鍵は、重たいものだ。スリッパを脱いで、古さはあるがよく清掃の行き届いた廊下を数歩進む。襖を開けば二人で泊まるには十分すぎるほど広い部屋にはすでに布団が敷かれていた。それでも畳が十分ありあまっているし、机は壁際に寄せられているだけでもスペースが確保されている。
 虫が入るからと網戸を開けないよう注意書きがされていた窓辺。障子は開けっぱなしにして、三井と座布団を適当に畳に放る。なんとかWi-Fiを拾っているスマートフォンだが、今日はもう用はないだろう。三井もそのつもりのようで、壁に設置されているコンセントと充電器を繋いだ。
「……部屋広すぎるとこうなるんすね」
「目覚まし止めるのに布団から出ねえといけねえなこれ」
「確かに。よろしくおねしゃす」
「お前ちゃっかり二度寝しようとすんな」
 あまりに部屋が広いので、充電器のコードをもってしても布団までの距離がある。なんだか間抜けな光景だ。けれど今は用はないので、改めて三井と並んでビールを傾けた。
「んじゃ改めて、乾杯」
「かんぱーい」
 かん。と中身の減った缶を軽く打ち鳴らす。つまみはこの旅館に辿り着く途中に寄った道の駅で買った野沢菜漬けだ。
「……はあ……なんか、落ち着く」
 静かで、何もない。海の音も聞こえない。山の中。どこか正しい客人になれる気がする。宮城が呟けば、三井は夕飯の豪華な炉端焼きを思い出したのか深々と頷いた。
「な。いいとこだな、ここ。料理もうまかったし」
「三井サン、厨房に酒頼むの手慣れすぎてません? ほんとにはじめて?」
「あ? はじめてじゃなきゃ行きあんな不安になんねえよ」
「ずっと、本当にあんのか⁉ って叫んでましたもんね」
 道中の三井はカーナビが指し示す道に疑いを向けていた。どう考えても山奥で、人里から離れていきコンビニもなくなっていく。この先に旅館があるのか不安だったらしい。カーナビが正しい道を導いているのにだ。
「カーナビ疑ってんのウケたわ」
「いや前一回ゴルフ場行こうとしたら墓地についたんだよな」
「急にホラーの話すんのやめてくれます?」
「はは」
 三井は笑い飛ばすようにビールを傾けた。宮城もそれに続く。冷房も必要ないほどの温度。網戸の向こう、森の中では夏虫が鳴いている。蝉もやかましい。喚いているその声に耳を傾けていれば、三井は割り箸で野沢菜をつまんだ。宮城も箸を伸ばす。しっかりとした味に、わずかな辛みが舌を刺激する。ビールでそれを中和させながら、口を開いた。
「また、チーム変わりますね」
 トミーが引退をした。シーズンが終わり、移籍や引退やあらゆる情報が駆け巡った。この業界では年明けから交渉がはじまる。そこからチームの状況や起用が変わったとしても、決定事項は揺らがない。
 若手の育成が急務だったチームは確かに若手が多く残った。それでも若手をまとめていた黒田が群馬へ移籍、奥田の盟友だった伊万里はB2のチームへ移籍し、小西も神戸のチームへ移籍となったのだ。2シーズン続けてキャプテンだった小西が。
「オレ、小西さんは奥田さんコースだと思ってました」
「あー……たぶん、アイツもそれ考えてたと思うぜ?」
「……そうだったんだ」
 互いのビールは早々に空になってしまった。宮城が立ち上がれば、三井もそれに続いた。宮城は借りていたグラスを持って先にテーブルに戻ると、三井はワインと同じく借りていたオープナーでさっさとワインを開けている。白ワインでグラスを満たしながら、続けた。
「……神戸の竹下監督、来季で最後らしいんだよな」
「え、あの竹下さん? そうなんすか」
「そう。小西の恩師なんだと。最後の花道を飾りたいって」
「へえ」
 一度グラスを傾ける。揺れる白ワイン。三井のグラスは宮城が満たして、ふたりで薄いガラスを軽く触れ合わせる。りんとした音が、ふたりきりの部屋に響いた。キャプテンだった小西。チームにも長く、奥田と同じようにあのチームでずっとバスケをするのだとどこか期待するブースターも多いことは知っていた。それでも、彼は。あの陽気で優しい気遣いの男は。
「……知らねえだろうから言っとくけど、アイツのがオレよりやべえグレ方してたからな」
「えっ、あの、爽やかの権化が⁉」
「そこを無理矢理引っ張ったのが竹下監督で……まあ、オレにとっての安西先生みたいなもんなんだろ」
「なるほどね……」
 グラスを傾けて、白ワインを舌で転がす。酸味と果実のほのかな香りが鼻孔を突き抜けていく。小西は宮城よりも、三井と仲が良かった。同い年ならではの気のおけなさを二人に感じることもあった。
「寂しい?」
「そりゃあな。でもそういう世界だし、あいつが決めたことにオレはなんも言えねぇよ」
 移籍。引退。入れ替わりの激しい世界。同じチームだった相手がライバルになる。宮城だってずっと三井とライバルだった。この二年が特別なだけだ。宮城は今年、チームと複数年契約を結んだ。三井はどうだろう。聞けば教えてくれるだろうけれど。
「ほれ」
「……あざす」
 空になったグラスには、三井がワインを注いでくれる。宮城が酒に強いことは知っていて、三井だってそれなりに強いことを知っている。テーブルの上には野沢菜漬けと、ビールの空き缶。それから部屋に置かれていた固いがほのかに甘いせんべいが転がっている。車の音もしない。電車の音もない。飛行機の音も聞こえない。人の声も何もない、ただ自然の音だけが聞こえる。わずかにはだけた浴衣が、三井の呼吸に合わせて膨らんだり静かになったりを繰り返している。
「……ここ、マジでいいとこっすね」
「来年も来ようぜ」
 簡単に言うと思った。来年、自分は今と同じチームにいる。三井はどうなんだろう。宮城は三井の顔をそっと伺いながら、
「うん」
目を伏せてから、頷いた。
 ねえ三井サン。なんでオレとここに来たの。ここにオレを誘ったの。
 宮城には、わからない。ずっとわからないことがある。だって三井は変わらない。ずっと宮城にとっての三井は変わらないのだ。二人でこうして過ごすのが当たり前のようで、それも変わらない。関係は変わらなくて、時間ばかりが積み重なっていく。
 ねえ三井サン。アンタ、なんであの時ずっとって言ったの。ずっとって、いつまで?
「そういや群馬にパトリック来るだろ」
「あー、厄介っすよね。監督が大学の時の人でひっぱって来たんでしょ」
「しゃあねえジョセフにガン詰めで粘ってもらって」
「藤沢はオレが押さえるから三井サン黒田に負けないでよ」
「任せろこてんぱんにしてやるよ」
 三井と宮城は、ずっと、バスケの話ばかりだ。
「ようやく殴り込みだな」
「度肝抜いてやりましょうね」
「おう、本物の祭ってやつ、見せてやろうぜ」
 ずっと、ずっと。







V‐A

 B1。日本におけるプロバスケットボールのトップリーグ。今シーズンのはじまりは、群馬との対決から幕を開けた。かつてのチームメイトである黒田は古巣対決であり、試合開始前にはブースターたちからの温かい、いささか熱すぎる声援が彼を包んでいた。B1に昇格したことで、アリーナ全体は更に熱気が高まったように感じられる。昇格を決めた興奮そのままのホーム開幕戦、アリーナは満員御礼。松岡はいつもではないが、もうすっかり仕事場として馴染んだ実況席に座りながらその様子を見守っていた。手元の資料、画像、隣で解説を務めるのは奇しくも米山である。
 本日のロスター。ホームチームには、怪我から復帰した宮尾虎徹が登録されていた。
「久しぶりに松岡さんだと思ったら、宮尾くん復活ですね」
 Tシャツにジーンズという非常にラフな姿で米山が微笑みを作る。松岡はそれに同じように笑みを返しながら頷いた。
「久しぶりに彼の名前を呼びますよ」
「はは、俺も解説がんばります」
 まだマイクは入っていない。ライブ映像では真っ暗な画面にイラストのバスケットボールが転がり音を立てるお約束の映像が流れているだろう。映像には映らない世界がある。たとえば自分たちの姿。たとえばボランティアの姿。たとえばモッパー。たとえばTO。そんな人間たちにより、試合は成り立っている。
「よかったですね、復帰できて」
「まあ、安藤さんの青田買いは一生保証って言われてますし」
「そうなんですか? それ私初耳です」
「俺が今はじめて言ったんで」
「……米山さんそれ今日言うつもりでしょ」
「ばれました? アハハ」
 ここは、会場でありながら会場からは一番遠いところにある。この会場にいる誰にも声は届かない。この声は、会場の外、ライブ中継を観ている人々に届けるためにある。だからスーツを着なくてもいいのだが。松岡は一度手元のペットボトルを手に取り喉を潤しながら、暗転した会場で静かに深呼吸をした。仕事はバスケを届けること。ここにいないすべてのひとに。ここに来たいと思っているすべてのひとに。バスケを愛するすべてのひとに。
「……それでは本日のロスターです」
 まずはベンチ入りの選手から。会場中に轟く重低音のEDM。応援を送る女性陣が旗を振って選手を迎え入れる。お馴染みの光景だ。マスコットは狛犬。銀鼠のからだを持ち紺色のユニフォームをまとう彼は、器用にリズムに合わせて太鼓を叩いている。
「本日のスターティングメンバー、4番秋田から移籍してきたライアン・エルウッド、7番攻撃の起点宮城リョータ、今年からキャプテンを背負います14番三井寿、チーム2年目の39番リチャード・アレー、そして今年から帰化選手となりましたゴール下の番人50番ジョセフ・ディー・マグナーズ」
 指揮官は引き続きハービスが勤める。昨年、監督の退任劇にスポンサー工場の火事と立て続けにアクシデントに見舞われたチームが、逆境をはねのけ昇格をついに果たした。長年チームに貢献してきたトミーの最後の一年を華々しく演出して。ドラマのようで、ドラマにしてはできすぎている。松岡は仕事とは違う、プライベートでよく訪れるこの町を思う。この町の人々を思う。
 駅からの歩道、ガードレール脇にはチームの旗が風に揺れている。紺色の道を作っている。シーズンが始まる前にはチームのうちわが駅前で配られ、ショッピングモールでは応援グッズが並ぶ。商店街に店を構えながらこのチームの選手のサインがない店はないのではないかと思うほどの浸透。遠方からのファンは、三井と宮城が連れてきた。
 ムーブメントだなんて、そんなカタカナで評したくないのが松岡の正直なところだ。
 祭だ。この場所では、ずっとずっと誰でも自由に主役になれる、駆け込める、受け入れる、そんな祭が開かれている。
 マスコットが叩く太鼓に合わせて、慣れ親しんだブースターたちは手拍子を打ち鳴らす。音が鳴る度にその渦は大きさを増していく。すべての枠が取っ払われた祭がはじまるのだ。周囲をうかがって恐る恐る控えめに手を叩いているのははじめてこのアリーナに訪れた人だろうか。でも安心していい。この祭は、誰一人置いていかない。一番太鼓のような太鼓の音。それに合わせてついにボールが宙へ放られた。ティップオフ。今日も、楽しく夢中になってしまうバスケの時間がはじまった。
 試合は一進一退のまま前半を折り返していた。殴り合いとも言える派手な撃ち合い。両者譲らずの、スリーの撃ち合いとなっている。後半になってさすがに確率が収束してきたところで、突き放したのは声援に背中を押されたホームチームだった。三井が中心とも言えるディフェンスから相手のターンオーバーを誘発すれば、おもしろいくらいに宮城のスティールが決まる。リバウンドこそ互いに鎬を削る数だが、じわじわとミスにより点差が開きはじめていた。
 流れをもたらしたのは、第3Q残り2分を切ったところでの、やはり宮城のスティールからチーム2年目であるリチャード・アレーへ繋がったイージーバスケット。豪快なダンクだった。
 本日一番の会場の盛り上がりを見せたのはここだと、その瞬間の松岡は確信していたのだが。けれど、そこではなく。
 手元の資料を見た瞬間、ぞくりとした。読み上げる。会場からはここでこそと、大きなうねりのような歓声が響き渡った。どよめき、期待、待ち望んでいた希望。アリーナMCの声も心なしか弾んでいる。客席のいたるところで彼のタオルが翻る。待っていた。この会場のブースターたちは、その、若者を。
「……虎は、千里を行って千里を還ると言います。苦い一年目、辛い二年目を乗り越えて、宮尾虎徹、今、再びコートに入ります!」
 涙が出そうだった。米山は解説をすると言っていたのに、マイクに音が入らないよう手をあてて囁いた。
「――松岡さん、それずっと言うつもりだったでしょ」
 ……ばれたか。



 宮尾虎徹。特別指定選手だった。昨年はILで一年をリハビリに費やした。そして今日、アリーナに戻ってきた。交代を呼ばれてTシャツを脱いでセンターラインへ向かう。残り1分41秒。一年目の平均プレイタイムは1分40秒だった。今日はそれを越えるための、采配だ。点差はチームメイトたちが20点差まで広げていたから、こうして送り出された。現在、91-70。
「虎徹、ぶちかましてこいよ」
「ハイ!」
 宮城との交代だ。掌同士をぶつければ、背中を思い切り叩かれた。勢いのまま頭を下げて、上げる。
 眩しい。眩しくて、明るくて――以前よりも、鮮明だった。チームを外から見ていた時間が無駄ではなかったと知る。その頭を八巻と交代でベンチに戻るついでとばかりに三井に乱暴に撫でられた。
「よしお前あと21点くらい入れてこい!」
「バカ⁉」
「うるせー早く行け!」
 汗まみれのキャプテンに笑われて、宮尾はコートに入る。現在コートにいるメンバーの平均年齢はかなり若い。ハービスの意図をきっと会場中の誰しもが察しながら、声をあげている。チームメイトは真剣に、笑っていた。攻撃権はこちらから。八巻からのボールを運びながら、荒木へ一度ボールを預ける。荒木と八巻は同じ高校時代を過ごしたという。よく互いの家にも遊びに行っているらしく、宮尾も呼ばれたことはあった。
 宮尾の元へ再びボールが戻ってくる。去年までのチームメイトである黒田が立ち塞がった。頼りになる、20センチほど宮尾より背の高い先輩。でも、スピードで負けるつもりはなかった。なにせ我がチームには宮城がいるのだ。あの人についていけないようじゃ、自分はこのチームでポイントガードを名乗れない。
 左右に身体を揺らして、それから。左に抜く、その瞬間にボールを股をくぐらせた。チビなんで。相手の股下が長かったんで。慌てて振り返る黒田を振り切って、一気にペイントエリアへ切り込む。かつて怪我をした場所。それでも怖くない。スクリーナーがいる。今は荒木が、それから八巻がコーナーに相手を釣っている。
 宮尾は相手センターより一歩内側へ入り込んで、それから、何度も何度も、身体に染みこませたレイアップシュートを決めた。夢の道を現実として歩きプロの舞台に立ってから、――実に一年と半年ぶりの得点だった。
 会場全体が揺れていた。耳をもつんざくほど轟く大歓声で、ホイッスルすら聞こえない。コートの端にいたはずの八巻が駆け寄ってきて、まるで勝ちが決まったかのように抱きしめてきた。視界の端では黒田が笑っていて、宮尾は手を叩いて雄叫びを上げた。
「ディフェンス!」
 試合はまだ終わっていない。ベンチをちらりと見れば、気を抜くなとハービスが怒鳴っているのが見える。その隣では三井と宮城が立ち上がり肩を組みながら跳ねていた。その横では宮城のファウルトラブルによりいつもよりもプレイタイムが長く疲れ切っている様子の奥田が座り込みながらもタオルを片手に掲げている。
 ……この世界で引退まで怪我をしない選手がいったいどれだけいるだろう。今のチームだって、三井と宮城は骨を折る怪我をして、そして復活した。今も興奮に突き動かされるようにはしゃいでいて、あと少し下がるよう、今にもレフェリーに注意を受けそうだ。
 ディフェンス。群馬は今日確かにターンオーバーが多いが、本来はスティールを得意とし、崩しを多用するチームだ。オフェンスはアウトサイドからのシューティングをこなす外国籍選手を基点とする。宮尾は腰を落として、それを待ち構える。宮城ならもっと威圧感がある、三井ならもっと的確にディフェンスの指示をするなと頭によぎってしまった。
 あのふたりはなんなんだろう。八巻と荒木とはまた違う、そう、たまに不思議な感覚にさらされて、そのままうっかり、じっと見つめてしまう時がある。相手のことを知り、自分のことを知られていること前提で、コートで呼応し躍動する。当然自分だって経験がないわけではない。けれど特別というか、不思議というか、なんというか。正体の掴めないそれを奥田に話したところ、「ふたりには言わない方がいいよ」とアドバイスを受けた。なぜかと問えば「俺がもう言ったしふたりともすごい顔してたから。若い子は見なくてもいい顔」ときた。逆に気になる。
 まるで、ひとつの生き物みたいだ。寄り添うべき魂のようだ。
 自分はポイントガード。司令塔。コートにいる選手を活かして、自分も生きる。もしかしたら自分にも誰か特別な選手がいずれ現れるかもしれないし、現れないかもしれない。でもこうしてここに立っている以上、己のすべきことを全うするのが宮尾が今走っている意味だ。再び走れるようになった自身の、生きていくための目的だ。
「荒木さん! スイッチ!」
 コートにいながら意思疎通が難しいほどの歓声。大きな声が、まるで嵐のようにうねりを上げている。声を嗄らしながら立ち上がるベンチメンバー。監督、スタッフ。選手同士の約束事、スイッチディフェンス。
 ――残り、11秒。
 相手のフックシュートをブロックしたのは今年の新人、宮尾のひとつ年下で16センチ背が高い藤村だった。彼はボールを保持し、ゆっくりと宮尾にパスを回してくる。宮尾はドリブルをしつつ、ハーフコートラインを越えた。そこで、選手たちが足を止める。ブザーを待つ間、目映いばかりの天井を見上げて、そのまぶしさに思わず涙がにじんだ。
「……、」
 動き続けていた電子の数字が、ついに0になった。試合終了を待ちながら徐々に会場中から拍手の音が重なり、ブザーと同時に、待ち侘びた360度すべての方角から、爆発したような歓喜の声がこだまする。宮尾はボールをレフェリーに返して、鼻をすすった。
 バスケだ。もう一度、バスケをした。終わってしまった。また、バスケがしたい。
 喜びが伝播したように、礼をした後選手たちがなだれ込んでくる。宮尾の頭を撫で、最後に舞台に立っていた若手を称えて、それで。その中で、宮尾は三井と宮城に左右からきつく抱きしめられながら。
「……加減してくださいよ! 復帰したばっかなんだから!」
 あまりの遠慮のない力強さに、素直な文句をぶつけた。
「怪我から復帰したらもっと丈夫になるもんだろ!」
「何その理論⁉」
 宮城の暴論に疑問をぶつければ、
「令和生まれにゃわかんねーかァ⁉」
「平成生まれですー!」
三井には赤ん坊と同じように扱われる。
 立派な成人なのに。もみくちゃにされながら、最後までコートに立っていた。宮尾は先輩ふたりが首にかけたタオルに涙を吸ってもらいながら、勝利の雄叫びを聞いている。熱い。顔が、手が、身体が、血液が、胸が、心が。どんどん溢れてくる感情を手放しにしてしまっても、今日は許されるだろう。
 B1への殴り込み、一戦目。勝利で幕を閉じた、記念すべき一日だった。









 V‐B

「よお三井」
「お、河田」
 その声に宮城が振り向いたとき、ちょうど三井は河田に向かって手をあげていた。そのままのんびりとした様子でホームベンチの前で手を振っていた、まだTシャツを着たままの河田に近寄っていく。今日は秋田でのアウェイ戦。河田は秋田一筋、このチームの顔だ。町中にこの顔がある。農協やら道の駅やら、地元銀行のポスターやら。いたるところで目にする、かつて赤木や桜木の壁だった男。
 三井は大学時代松本とチームメイトだったこともあり、当時の山王として絶対王者を誇っていた人物たちとの親交も篤い。バスケというのは共通言語たり得るらしい。宮城が混ぜてもらうこともあるが、その時はだいたい先輩にいじられ泣きじゃくる沢北を一番常識人かもしれない、と勝手に思い込んでいる松本に押しつけることにしている。文句を言われるが知ったことではない。うちはうち、よそはよそである。
「頼まれてたやつ、メール送っといた」
「サンキュ。やっぱこういうのは地元の人間に聞くのが一番だと思ったから助かったわ」
「なんの話っすか?」
 ふたりの先輩たちの話に興味を惹かれ、宮城はアップの途中、ボールを持ったままふたりの元へ向かった。自分より背の高い三井と、それよりも上背のある河田。その佇まい、確かにこの男が銀行のポスターにいたらうっかり口座を作ってしまいそうだ。そんじょそこらの有名人よりも信頼と安心感がある。詐欺にも勝てそう。
「ああ、うちの親とカオルさんに頼まれて、おすすめのいぶりがっことハタハタ寿司売ってるとこ聞いてたんだよ」
 待て。待て待て待て。宮城はぎょっとしながら三井の袖を掴んだ。
「……ちょっと。アンタのお母さんはともかくなんでうちのかーちゃんもアンタに頼んでんの? オレ特に何も頼まれてないんだけど」
「お前今までの所業忘れたのかよ」
「はあ⁉」
 三井の呆れ混じりのため息に、宮城は食い下がる。その宮城を見下ろしながら、三井は苦笑いを浮かべながら深々とため息をついてみせた。
「リョーちゃん、お土産買ってきてくれるのは嬉しいんだけど、量がね……」
「っおいそれかーちゃんの物真似かよ?」
「似てたろ」
「似てねーよ! 似てんのはアンタがロン毛だった時の髪型だけだわ!」
「はあ⁉ んなことなくね?」
「……今はね!」
 そう、似ていたのはその昔。グレた三井の髪型とカオルの髪型はどうにも似ていて、それが被る瞬間の絶望はいまだに心の奥底に燻っている。今は癒やされた傷だけれど、なくなるものではない。そんな頃などなかったかのように今のカオルはショートカットで、随分とさっぱりしている。髪ゴムもいらないので、たまに宮城が実家に帰った時、洗顔の際に借りているくらいだ。
「お前が謎のアメリカナイズで常にバカの量買うからオレにヘルプが来てんだよ!」
 三井が得意げな顔で笑っているので、宮城は何も言い返せずに、結局は足先で三井の脛を小突いた。それをしげしげと眺めていた河田が腕を組みながら、
「おめがだ、相変わらず仲良しだな」
深く頷いている。
 どこがだ。どう考えても言い争いをしていたが。せめてその勘違いを正そうと声をあげようとしたところで、力を抜いていた河田の背筋が急に伸びた。それから三井と宮城に軽く手をあげ詫びると、姿勢良くアウェイ側ベンチに小走りで駆け寄って行った。三井と宮城は顔を見合わせて、河田がいないのにここにいても仕方がないと自分たちも己の陣地に戻っていく。河田の後ろ姿を確認すれば、その影には奥田がいつもの穏やかなようで飄々とした姿でバッシュの紐を結んでいた。
「奥田さんお疲れ様です!」
 きちんと頭を下げる礼をする河田に、奥田はにこやかに笑顔を振りまいた。
「おお、河田もお疲れ〜」
「遠かったでしょう」
「そんなことないよ。ていうかもう卒業して何年も経つんだし毎回そんないいのに」
「いえ、そういうわけにはいかないんで」
「あはは、礼儀正しいんだから」
「後輩なんで」
「じゃあ今日はお手柔らかにね」
「それは無理な相談です」
 そうだ、奥田は山王出身であった。緩いところではかなり緩いため忘れがちになってしまうが、たまにこうして後輩たちに挨拶されている姿を見ると途端に思い知る。これが由緒正しい強豪校の、どこに出しても恥ずかしくない先輩後輩の姿だと。
「……」
「……」
 互いに無言で顔を見合わせる。三井の半眼の見下ろしと宮城の半眼の睨み上げとがぶつかり、意味もなく火花を散らした。
「……お前もたまにはしおらしく後輩やってみろよ」
「は? いつでも礼儀正しいアンタの後輩やってやってるだろ」
「もう口調がアウトなんだよな〜」
「アンタが先輩らしくすりゃいいだけの話じゃないっすか」
「……ア?」
「……ハァ?」
 無言で胸ぐらをつかみ合う。それから額をぶつけ合うくらいに近付けてから三井は手を放すと、そのまま宮城の肩を抱いて小声で囁いてきた。
「……河田今日ベンチスタートっぽいな」
 そのトーンにあわせて宮城も声を潜める。すでにアップははじまっているから、ボールを床に突く音、声に混じれば十分に紛れるだろう。
「……さっきなんかあった?」
「いや、勘。んでもし代わりに出るなら佐々木だろ」
 佐々木はまだ一年目。度胸はあるし向こう見ずなところはあるが、突然の搦め手に対応するのは少し難がある。そこを狙っていっきに主導権を握るのか。悪くない。それもハービスのプランになかった訳ではない。けれど河田がスタメンであることが前提だったので、崩しを脳内に描いてみる。宮城はボールをくるりと指先で回しながら、三井に笑いかけた。
「あー……じゃあぶちかましちゃう? しょっぱな」
「出鼻挫くにはちょうどいいだろ。河田相手じゃ猫だましにもなんねーけど」
 そう互いにほくそ笑んでいれば。
「みつみや! ネタ合わせ終わったか⁉」
 日下部の叱責が背中に飛んできた。ぶつかってきた言葉に背筋を正しながら、三井と宮城は慌てて弁明をする。そもそもなんだ。ネタ合わせって。芸人じゃない。
「……いやネタ合わせじゃねーから!」
「ハドルだから!」
 自主的なアップのどこかまだ本格的ではない音が弾む中で声を張り上げれば、ここまで遠征に来ていたブースターたちも笑いを堪えきれない様子で拍手を送っている。やめてほしい。本格的にお笑いのようになっている。それに気を良くしたのか、カメラを回しながら今度は広報の田中がよく通る声を響かせた。
「出囃子どうするんすか今日! みつみやのおふたり!」
「ネタ披露しねーよ!」
「ていうかなんだよみつみやって」
 三井が口を歪めながら田中に問いかければ、彼はにやにやと笑みを隠しきれない様子でふたりに近付いてきた。それからスマートフォンでSNSの画面を開いて見せびらかすようにずい、とふたりに押しつけた。それを覗き込めば、三井と宮城の知らない、見たことのないタグが並んでいる。「みつみや」「仲良しガードコンビ」「元湘北先輩後輩」「ズッ友ライン」「今日のみつみや」、などである。なんだこれ。一年目より増えている。
「……田中ァ」
「いや二人の仲良しっぷりあげると反応いいんで。マーケティングの結果、今シーズンから全力で推していくことにしました」
「おい許可は」
「GMに取ってるんで問題ないっしょ」
「本人たちにはなしかよ」
「てか他にもいるじゃねーか、高校同じ、しかも同級生コンビ」
「そうだよ八巻と荒木」
「そっちはそっちで#まきあらでやってます」
 若者らしく、慣れた動作で田中はSNSを駆使している。意気揚々とした表情で指さした方では、広報の後輩である中田が、その言葉通り八巻と荒木が並んでアップしているところをカメラで追っていた。
 そういうことをするから、うちのGMはコンビを作るのが好きだとか言われるんだ。
「よし、そういうことなら宮城」
「はあ……しかたないっすね」
 三井にそそのかされた、という体で宮城は三井に肩を抱かれる。そのまま自分の右腕は三井の腰に回した。田中は目を輝かせて写真を数枚撮った後、急に眉を寄せた。なにか不満でもあるのか。こんなにも仲良しの写真を撮っておいて。
「……なんか、やっぱ自然体のがいいんで隠し撮りしてもいいですか」
「お前最近仕事に追い詰められてね?」
 堂々と犯罪行為に手を染めようとしているスタッフを諫めようと手を伸ばせば、その手は三井によって握り込まれてしまう。ゆっくりと首を振る三井は、もう手遅れだと表情だけで語っていた。宮城は息を飲んで、そっと頷く。目線を伏せた瞬間、シャッターが切られる音がした。
「そういうのです! あざす!」
 にこやかに笑う田中を、三井と二人でじとりと見つめる。本格的にだめかもしれなかった。そう心配しているうちに、河田が奥田に深く礼をしているのが見えた。
「あ、河田!」
 三井が河田の名を呼んだ。もう坊主ではない短髪の男は、ライバルでありながらもすでに友人となっている三井を振り返る。その顔はどこか喜びに染まっていた。
「後で写真撮ろうぜ!」
「おう!」
 河田は歯を見せて笑う。河田の笑顔に負けぬ弾けるような笑顔を見上げながら、宮城は三井に握られたままの手首にそっと、力を込めた。








 V‐C

 職場の土産にバター餅は大変好評だった。アウェイの秋田戦、土日にかけて行われた連戦は一勝一敗の痛み分け。今年の秋田は外国籍の補強がぴかいちかと思われていたが、蓋をあければ日本人選手のフィット感が尋常ではない。久保田は先週末の試合を思い返しつつ、きりたんぽ鍋で飲んだことも併せて記憶に留めておく。
 酒豪である妻は、奥田がおすすめしていたという日本酒をしっかりと自分用の土産にしており、舌を巻いたものだ。今年は、行ける限りアウェイにも行こうと話をしていた。妻も最初からそのつもりだったようで、夫婦での旅行が増えたことに息子は呆れながらも、たまに着いてくるようになっている。選手としてのバスケを辞めても、バスケをすべて捨てたわけではないらしい。むしろ少し時間を置いたからこそまた向き合えるようになったのかもしれない。
 息子はいつの間にか八巻のレプリカユニフォームを買っており、ああそうか同じ身長だったと頷いたものだ。それこそ本気でプロになりたいと、バスケットボールがプロのスポーツになってからずっと息子は憧れていたから。部活を辞めて金髪にしてバイトに精を出していた息子だったが、今は落ち着いた本来よりもわざとらしい黒髪に緩くパーマをあてていた。その息子は今日も八巻のユニフォームをしっかりと着用している。渋谷を招いてのホームゲームのチケットを取っていたようで、朝出がけに家族がアリーナに揃うと知らされていた。
「父さん、母さん」
「はいありがと」
「ん」
 クリアなカップに入った生ビールを受け取る。シーズンシートは二席並んだもの。息子に譲ろうかと夫婦で話していたが、息子曰く自分は実況解説席のすぐ目の前で見下ろしながら見るのが好きだと言う。それでも乾杯だけは家族でしようと、まだ閑散としたアリーナの階段を下ってやってきたのだった。
 受け取りながら、居酒屋バイトの経験が役に立ったらしい、一滴もこぼさないそのスキルに笑ってしまった。夫婦で座ったまま、息子は立ったまま。
「かんぱい」
「かんぱーい」
「乾杯」
 ぺこ、と軽くぶつけ合う。妻に似て酒豪の息子。酒には昭和のノリで慣れた父。家で呑む時はともかく、居酒屋で両親に何回か潰されたことのある息子は、警戒しながらもビールを一気にあおった。同世代の友人たちの中では強いと評判だったらしいが、そのプライドは儚くも両親によって打ち砕かれてしまったとのことだ。来年には就活もはじまる息子がどのような道を進むかはまだわからない。妻も聞いているようで、聞いていないという。
「あ、そういえば俺、来月からインターンだから」
 そう思っていれば、唐突に息子が呟いた。大袈裟なため息はビールを一気にあおったからではなかったらしい。
「え、そうなの」
「どこに」
 妻の驚きに続いて尋ねれば、息子が指さしたのは自分が着ているユニフォーム、のロゴ。リュ・アズール。思わず妻と顔を見合わせて、もう一度同時にカップを差し出した。チームのトップパートナー。昨年のメイン工場の火事という苦難を乗り越え、今年もチームはそのロゴを背負うこととなった。一時期、買い支えではないが久保田家や久保田夫妻の勤める会社にはこのロゴの菓子が溢れかえっていた。
「よくやった!」
「お前を育てて誇りに思う」
「うわバスケ馬鹿夫婦」
「その遺伝子が一番濃いのがあんただから」
「いいか、くれぐれも役に立てよ」
 インターンで⁉ 息子が笑い声を立てている。それにしてもわかっているのか、どうなのか。息子が普段いるという実況解説席の近くにこそ行かないが、そのインターンで世話になる企業の社長、取締役はその辺のブースター顔負けのアリーナの常連だというのに。今日はまだ姿が見えないが、もしかしたらそのうちひょっこり顔を見せるかも知れない。そしてその時の彼はただのブースターとなるのだ。大人しい髪色の息子は久しぶりに見た。痛んだ金髪は水も吸えばオイルも永遠に吸うからと実家に帰ってくる度にそのケアに文句を言っていたから、きっと向いていなかったのだ。それがインターンをきっかけとは言え、本来の彼の姿に戻った。
「じゃあ俺、そろそろ席戻るわ」
 息子が残り三分の一程度にまでビールを減らしたカップを片手に身を翻す。その後ろ姿に、座ったままの妻が懐かしささえ感じる声量で注意を送る。
「あんま飲み過ぎるんじゃないわよ!」
 まるで息子が小学生の時、「雨降るんだから傘持ってきなさい!」と玄関から怒鳴っていた時のようだ。その頃の息子は恥ずかしそうに駆け戻ってきたが、彼ももうこどもではない。立派な成人である。
「それ母さんに言われたくないから!」
 あまりにも正論すぎた。ひとつ妻のために弁護するのであれば、彼女は試合中にはもう呑まない。試合が終わった後、勝とうが負けようがひたすらに呑むのだ。息子はまだまだ甘い。久保田は苦笑いを浮かべながら、とっくに飲み干された妻のカップを受け取り、自分の空のカップと重ねた。トイレに立ちながら、ゴミを捨ててこよう。立ち上がったところで、ちょうど何人かの選手が入場してきた。まだまだ客の入りはそこまでではない。閑散としたアリーナに、まばらな拍手が起こる。
 今年特別指定としてチームに合流したSFの藤村と、宮尾虎徹だ。妻の誰よりも大きな拍手を背に、久保田はまだ空いているだろう男子トイレを目指したのだった。



 渋谷とは、2シーズン前のプレシーズンマッチ以来の対戦である。その時は僅差での敗北だった。久保田が、大黒柱を喪ったこのチームを応援し続けるきっかけとなったのがその試合だった。はじめて三井と宮城のプレーを見た試合でもある。あれから2シーズン、今は3シーズン目。奥田という軸があり、このチームはチームとしてのフィロソフィーを、歴史を紡ぎ上げている。積み上げてきている。泥臭い、誰もが献身を果たし、誰しもが前に出る。祭なのだ、なにせこのチームの魂は。
 アリーナMCが今日もよく通る低い声で会場中を盛り上げている。和太鼓の音がする。お囃子が鳴り始める。鉦の音、響き始める笛。狛犬が獅子舞のような動きで今日も魅せている。法被を模した、どこか下町風情のあるチアの衣装。健康的な、賑やかな踊り。よさこいのようで、ソーラン節のようで、エイサーのようで、日本全国の祭りが一同に会したかのようなそんなEDM。旗を振るものがいて、バチのようなスティックを叩く者がいて、ここに、日本の祭のすべてがある。
 会場が暗転した。パフォーマンスの後、選手入場。スモークが焚かれ、ひとりひとり呼び込まれてくる。選手紹介のたびに和太鼓がどどんと鳴った。大型のビジョンには今シーズン、筆文字でそれぞれの選手の名前が描かれるようになっている。その和太鼓にあわせて拍手が、大向こうのようなかけ声が放たれる。リングライトをはめた人々が会場中におり、制御された光が演出にあわせて色を変え、光を放っている。まるで、夜空に瞬く星のように。祭の夜、さんざめくような光が町に灯るかのように。
 それぞれ、カラーがあるのだろうか。奥田はオレンジだった。宮城は紫で、三井は緑。ペンライトの文化には馴染みはないが、これはこれで綺麗な光景だと久保田はため息をもらしてしまう。我らがホームチームは年々、このゲーム前の演出に力を入れるようになっている。というよりは入れられるようになったのだろう。B1に上がり、チアの衣装も増えた。グッズのラインナップも増えた。きっとそれだけの集客が見込めるようになったに違いない。
 それもこれも、二年前が契機だったように思う。
 試合はその二年前とは打って変わって、渋谷の狙い通りのスローペースの展開ではじまった。どうにもむずがゆい、ペースに乗せられた嫌な展開が続く。あと1ポゼッションが追いつけない。ハーフタイムに入る前に修正が必要じゃないだろうか。
 それにしてもスローペースすぎる。第2Q残り5分で、22‐25、3点ビハインド。どちらもファウルは少ないが、フラストレーションが溜まっているのは目に見えてわかる。と、その時だった。三井のスティールが決まり、宮城にパスが放たれる。電光石火、コートを一閃するかのような脚力で捻じ伏せるがごとく宮城が床を蹴る、その瞬間。
 ブザーが鳴る。
 相手のPFが、明らかに速攻を潰そうと手を出してしまっていた。
「アンスポだろ!」
 久保田をはじめブースターたちが色めきだつように叫んだ通り、レフェリーは手首をつかんだ。これでフリースロー、こちらのポゼッションからのスタートとなる。
 宮城のフリースローの確率は悪くない。会場が固唾を呑んで見守る中、一投目。
「……、」
 リングに嫌われた。ため息がアリーナに響く。妻と手を握る。こういう時にため息は厳禁だ。息を飲む。選手は、なんの後ろ盾もなく、あの場所に立っている。こちらがその集中を裂くような真似、できるわけがない。
 宮城は一度首を回して、深呼吸をしているようだった。いつものように、右手を開いて、とじる。それから。三井が、いつもなら背中を叩くのに、今日は。今日はなぜか、宮城の頭を軽く撫でた。
 宮城のフリースローはともかく、スリーやジャンプシュートを留学時の餞別だと、そう教え込んだのが三井だというのは有名な話である。ふたりは同じチームでいた年数は多くないはずだ。B1に所属していた時もかぶっていない。この業界、久保田も伊達に長年ブースターをやっているわけではないのだ。チームが違えば、滅多に会うことはないというのはあらゆる選手が発信しているから知っている。けれどふたりは。三井と宮城は、それでも会うことをやめたことはなかったという。
 きっと、特別な絆があるのだろう。そう、思うことが多々あった。大切な先輩で、大切な後輩で、信じる仲間なのだ。
 宮城は背後からだったのにも関わらず、自身の頭を撫でたのが誰だったのかを察したようだった。久保田の位置からは、少しだけ力が抜けた様子がうかがえた。
 二投目。今度は、リングにかすることなくスウィッシュ。会場中から称賛の拍手が贈られる。ガッツポーズを胸の辺りで握りしめた宮城の頭を、やはり三井はやや乱暴に撫でた。それからいつも通りの距離に、試合中の約束の位置へ戻る。再び、オフェンス。オフェンス時の音楽が鳴る。慣れた、身体にしみついたリズムで手拍子を、コールを送る。少しでも彼らの力になるように。
 ボールは再び宮城がコントロール。ジョセフがスクリーンに、それから三井が逆サイドへ走る。それを見越した宮城がペイントエリアへ切り込み、シュートを放つ、のではなく流れるように三井へノールックパス。胸がすくようなホットライン。素早いリリースだった。三井は手にボールが収まるやいなや、わかっていたかのようにジャンプモーションへ入る。コーナースリー、相手が止めようと突っ込んで、三井はそのまま床に倒れた。激しい転倒、けれど受け身は取れていたし、シュートは入っている。
「っ、エンドワン!」
 スリーの手を突き上げて、ベンチは総立ちだった。三井もすぐさま立ち上がり、宮城がその胸に飛び込んでいる。怪我はなさそうだった。難なくフリースローを決め――そもそも三井の今シーズンの目標はフリースロー90%だ――27‐25。1ポゼッション差とはいえ、本日はじめての勝ち越しとなった。
 選手たち、前半からそんなフルスロットルで大丈夫か。ベンチメンバーのことを言っている。奥田も、そんな熱く手を叩いて。まるで、鍋島のような激励を送るなんて。キャラじゃないだろう。
 チームは変わった。それが悪いなんて、なんであの時一瞬でも思ってしまったんだろう。久保田は今こうして、心から全力で声援を向け続けている。自分の人生に、彼らの勝ち負けがなにか取り返しのつかないものをもたらすわけではないのに。けれど、彩りだ。誇りだ。彼らは、このアリーナの。この町の。こんな、自分の。
「っ来い!」
 ジョセフがお家芸でもある得意のジャンパーを決め、渋谷を突き放す。流れだ。バスケは、流れのスポーツだ。長年見てきた久保田は、それを知っている。そして今がその時だと知っている。ここだ、抑えるんだこの時間を。譲ってはいけないんだ、相手に。
 声が涸れても、手が腫れても。それでもその勝利のためだけに、ここに自分はいる。ずっとずっと、いる。

 勝負がついたのは、それから約一時間半後。リーグ上位の渋谷に、競り勝った。最後はファウルゲームだった、そんな。妻と抱き合い、喜びを爆発させる。ついに土をつけたのだ。同じ都内にホームタウンを構えながらも負け続けた、王冠を戴いたこともある相手に。三井と宮城がこのチームの家族となり、「勝つ」ためのメンタリティを植えて育て続けた、2シーズン。それが結実した。勝利の余韻は醒めやらず、いつまでもいつまでも音楽は鳴り響き、ブースターたちは声をあげていた。息子が座っている位置を見上げてみたが、金髪ではないからよくわからない。それでもその辺り一帯も騒いでいるからきっと、同じように喜びを爆発させているのだろう。
 今日のヒーローは、流れを変えたキャプテンの三井。
 アリーナの中心でマイクを持った男は、
「自分がはじめてこのアリーナで試合をしたのが渋谷さんで、その時は悔しい痛い負けでした。今日も立ち上がり相手のペースでなかなか打開できずに、皆さんをヤキモキさせてしまって……」
と振り返るかのように、噛み締めながら静かに語った。かと思いきや。
「……っしゃ勝ったぞー‼」
 マイクがハウリングするくらいの、大声で、吠えた。その様子に、ブースターたちも歓呼し腕をつきあげている。その様子に、チーム全員が笑っていた。久保田も、妻も。宮城も歯を見せて満々の笑みを見せている。
 バスケはこんなにも、泣いて怒って、そうして笑える。そんなスポーツであり続けるのだろう。これからも。ずっと、絶対に。だから久保田の人生は、満たされたものであり続ける。ずっと、ずっとだ。









 V‐D

 年末はホームでの佐賀戦。一勝一敗とまた引き分けを積み重ねての年越しに、わずかに焦燥が滲む。当初の下馬評よりは勝ち星を掴んでいるが、チームや自身の目標からすればなかなか勝ちを取り切れない。まだ前半戦とは言え、勝ち点や勝率は今のうちに稼いでおかなければ後半の息切れは必至だ。喘ぎながら追いすがるのを想定しつつ入った短い帰省、三井と宮城は揃って近所の神社に詣でた。今年の冬は酷だとかねてより予告されていた通り、氷点下まで下がりきった外気温に身体を震わせる。
 毎年夏も冬も競うかのように暑さも寒さも厳しいものになっていく。宮城はダウンジャケットにマフラー、ニット帽という完全装備に首をうずめて、三井にせがんだ甘酒を傾けながら賽銭箱までの行列に並んでいた。四列に揃った列はゆっくりとしか進まず、吹き抜ける風に苛々を通り越し悲しささえ覚えはじめる。
「お前、カイロは」
「腹にも背中にも貼ってる。でも無理」
「ったく、ほら内側入れ。見てらんねえわ」
 すぐ隣に並ぶ三井が、少しでも宮城を風から守ろうと場所を交換してくれた。それに甘えながら、分厚い防寒具同士を触れ合わせてくっつく。隙間をなくしたい。宮城のその願いは簡単に叶えられて、三井はそこから半歩も動くことなく、じわりじわりと列が進む度に同じ歩幅で進んでいった。
「天気荒れなくてよかったなマジで」
「いやオレ雨とか雪だったら来なかったからね。絶対」
 ぜったい、を強調すれば三井は呆れたように笑い声を転がす。その軽い響きに特に言及もせずに宮城は冷えないうちにと甘酒をあおった。甘やかな香りが温もりとともに口に拡がり、浸透するかのように身体に充ちていく。喉元を通り過ぎたそれが柔らかな軌道で胃に沈んでいくのをなんとなく実感していれば、三井はすでに飲み終わったらしく紙コップを持て余している。宮城が飲み終われば、その空のコップを取り上げて丸めてしまうつもりだろう。
「三井サンてさあ」
「あ? んだよ」
 甘いよね、昔から。オレに。
 そう言おうと思って、やめる。最近こういうことが多い気がして、宮城はなんとなく落ち着かない。なんでも遠慮なく好き勝手言い合えるのが三井と宮城であるはずなのに、確信はあるのに踏み込んだら戻れない気がして言い淀んでしまう。迷ううちに結局言い出せずに、今もそうであるように三井が痺れを切らして、
「……思い出したら言えよ」
と会話を区切ってしまった。
 三井は、宮城に甘い。いつからだろう。気がついたらそうだった。言動こそ雑な時もあるから気付くのが遅れただけで、きっといつでも三井は宮城を大切に思っている。少なくとも、何年もそうだからと宮城が気付かないうちから、そっと、静かに。隠すように、気付かれないように。なぜ。その正体に気付きたくて、気付きたくなくて、吐いた白い息にため息を隠し込む。

 ――ずっといっしょにいるしかないぜ。

 だからおそらく、あの時あの砂浜でのあの言葉を、三井は言うつもりはなかったのではないだろうか。言えば宮城が気付くかもしれないから。実際はわからないが。
「……はーい」
 従順な後輩ぶって返事をすれば、三井は驚いたようなそぶりを見せた。
「どうした、お前変なもん食ってねえだろうな」
「ねーよ!」
 大変心外である。身体の表面は冷たい。けれど吐き出す息がそうであるように、中心には熱が宿っている。
「ていうか三井サン、願い事決まってるんすか」
「願い事っていうか決意表明だろ」
「……そういうもんすか、やっぱ」
「そういうもんだろ。お前は?」
「オレも。……オレも、そうっすね」
 というか、そう宮城に教えたのは三井だ。大学が決まった三井に引っ張り出された高校二年の冬、この神社で同じように並びながら「本気だってのちゃんと言わねえとな」と、胸を張っていた。もう、三井は忘れてしまったのかもしれないけれど。あの時と同じように並びながら、あの時よりも時間を重ねて、関係も深まったはずで。
 鳥居をくぐりながら、参道の石畳を歩く。足下を見下ろせば、変わらぬサイズの靴がふたつ並んでいる。宮城はマフラーに顔をうずめる。布に纒わる呼気が水滴になるような寒さの中、じわりと触れ合う左腕からは三井の温もりが分けられているような気がした。
「優勝すんぞ」
「もちろんすよ」
 今は、それだけ。



 大阪へ殴り込んだのは年明け一発目の土日だった。アウェイ戦、正月の空気を満喫するのもそこそこに関西に乗り込んだ。三井はどうやらチームが離れた小西に大阪のおすすめのタコ焼き屋を聞いていたようで、嫌味を散々並べられながらもメッセージの最後にはきちんとリンクが貼られていたらしい。時間があれば一緒に難波に行こうと誘われ、それには大人しく乗ることにする。
 アリーナには正月休みということもあるのか、大阪のブースターたちがほとんどの席を埋め尽くしていた。アウェイとはそういうものだ。それでもアウェイ側ベンチの裏や向かいには見慣れた紺色のユニフォームが並んでおり、温かな、背中を押されているような気持ちになる。
 アップの最中、大阪のコーチに就任して二年目の柏崎がコートに現れたので、世話になったチームメイトたちは次々と挨拶に彼の元へ向かう。宮城も三井とともに向かえば、久しぶりのコーチはどこかスリムになりながらも、笑い皺が濃くなっているのがわかった。
「お久しぶりです」
「ご無沙汰してました」
「ああ、久しぶり。ふたりとも怪我はもう?」
「すっかり」
「オレも平気です」
 和やかに挨拶を交わしてはいるが、このコーチのことだ、ひとたび試合がはじまれば熱く激しい激を飛ばすのだろう。熱血と情熱、それでいて理知的な男。このコーチの元で指揮を受けながら戦った一年のことが思い出され懐かしい気になっていれば、そういえば日下部はどうしたのだろう、と自陣のベンチを振り返る。
 日下部はあえて視線を向けないようにしているようで、己の仕事に邁進するかのごとくアップを続ける選手に声をかけ続けていた。
「……柏崎さん、」
「いや俺も覚えてるよ、借りパクしたわけじゃないから返すって言ったんだよあいつに」
 コーチを退任し大阪に行くことが決定した柏崎は、アシスタントコーチである日下部に携帯の充電器を借りたまま大阪へ行ってしまったのだ。それを返してもらうこと、その体裁で日下部は昇格を、アウェイへの殴り込みを息巻いていたのだが。
「勝ったら返してもらいますって言われちゃね」
 日下部は本来、そんなことを言うタイプではない。というより、年上の者への敬意はきちんと払うタイプだ。三井と宮城はどうにも信じられないものの、柏崎がそのような嘘をいう人間ではないことも知っている。口々に日下部の人格豹変ぷりに同じように苦笑いを漏らした。
「うわあ」
「素直じゃねえ」
「俺にだけ素直じゃねえんだよなあいつ」
 苦笑を浮かべる柏崎に、ふたりは苦笑ではない笑みを浮かべる。一年だけのチームだったが、確かに家族だった。懐かしささえ覚えていれば、大阪のマネージャーらしい女性が柏崎に声をかけた。
「コーチ、来はりました」
「あ、ありがとう」
 関西のイントネーションの女性に、標準語の柏崎が礼を返す。奥田から聞いたことがあるのは、柏崎の妻が大阪出身であるということだった。こどもが生まれるからと単身赴任であった関東のチームからこうして家族のいる大阪のチームと契約をしたということは、宮城も知るところではある。
「悪いけど今日勝たせてもらうから。家族観に来てるし」
「へえ、ご家族が」
「そう。下の子は奥さんの実家に預かってもらえたから奥さんと長女がね、たまにはって」
 三井の相槌に、まだ閑散としている客席を振り返った柏崎が一点を見つめて手を振る。アリーナは、それほど大きな会場ではない。アットホームな近さを感じる、そんな、目と鼻の先の客席で女性が手を振り返した。写真で見たことがある、柏崎の妻だ。そのショートカットで背の高い女性は、子供用の車椅子を押していた。その車椅子に乗っている少女が、柏崎に向かって手をあげる。笑顔の少女に手を振る柏崎の姿は、父親のそれだった。
「……2歳の時、事故でさ」
「そうでしたか……」
 知らなかった。三井が相槌を打つ隣で、宮城は以前奥田と話した時のどこか何かを知っているかのような口調を思い出していた。その時から数えれば、今年で、七歳の女の子。一階の車椅子席に、落ち着いた少女の元へ行くために柏崎は三井と宮城に軽く手を振る。頭を下げてから、ふたりは相手ベンチに背を向けた。その時奥田とすれ違う。まだ長袖ジャージを羽織ったままの奥田は、おお、驚きながら顔から笑みを隠せない様子でいる。
「びっくりした、佳奈ちゃんおっきくなったなあ」
「知り合いっすか?」
 すれ違う間際尋ねれば、自信満々に胸を張られる。
「ともだちだよ。俺はね、ほまれおじちゃんて呼ばれてる」
「……奥田さん絶対なんでも買ってあげてるでしょ」
「三井なんでわかるの」
「いや想像簡単にできるでしょ」
「宮城まで」
 笑いながら、奥田が柏崎の元へ向かっていくのを見送る。馴染みらしく、少女が顔を綻ばせた。ほまれおじちゃん! と呼ばれた奥田は相好を崩しながら「わあ、佳奈ちゃんひさしぶり〜! 奈々さんもー! ……あ、いたの? 柏崎さんおひさー」とそれぞれにそれぞれのリアクションを取っている。
「……」
「……こどもの目の前でお父さんぼこぼこにするの、どう思います?」
「まあ勝負ってのは時に厳しい現実があるってのを学ぶのは大事だよな」
「すね。勝ち点もらってタコ焼き食いに行きましょ」
「小西アイツ店五つくらい寄越しやがったんだけど」
「厳選しないと……」
 そんなことを話していれば、日下部がふたりに目を留めて呼びかけてきた。
「みつみやー!」
 最近、彼はその呼び方が気に入っているらしい。田中もここぞとばかりにカメラを回しており、二人は顔を見合わせることもなく同時に返事をしてやる。
「はーい」
「うーす」
「今日は俺の充電器かかってんだからな」
「わかってますって」
「日下部さん、なんで柏崎さん相手にだけツンデレなんすか?」
「お前何言ってんだデレだったこと一回もないだろ」
 今日はあえて無視しているくせに。三井が哀れむような視線を日下部に送っている。宮城もそれと同じように目を細めながら日下部を見つめる。きっと彼は試合が終われば泣きそうな笑顔で柏崎の元へ行くのだろう。そうして家族ぐるみで仲良しだというから、彼女たちに笑顔を向けるのだ。かつて同じチームだった時、阿吽の呼吸のベンチワークを見せていたふたり。
 充電器をかけた戦いなんてただの言い訳。面白おかしくバスケをするために理由にまつりあげたに過ぎない。そうやって、それぞれが戦う理由をでっちあげたり、本気で掲げたらしながらこのリーグは日本全国で熱風を巻き起こしている。
 試合は、僅差で白いアウェイユニフォームを着たこちらの勝利だった。白熱した試合後、柏崎はかつてのチームメイトやスタッフたちを称えながらひとりひとりの背中を力強く叩く。日下部とは涙ながらに抱き合っていたし、手には充電器が握られていた。
 こうして一つの充電器が、時を超えて日下部の手元に戻ったのである。








 V‐E

4月下旬。
 横浜との二連戦。
 混沌を極めたシーズンにも終わりが見えてきた。昇格した一年目、破竹の勢いとまでは行かず、勝率も勝ち星も地区の3位から4位あたりで浮き沈みしており、トップに食い込むような浮上を見せられてはいない。CS、優勝の喉元はそこまで見えているというのに、研いだ爪も剥くべき牙も空振ってしまっている状態だ。
 チームの逸るような焦りを落ち着かせるのはキャプテンである三井と、大ベテランの奥田の役割だった。浮き足立つような若手、熱しやすい外国籍選手の手綱を握りながらコントロールしつつ、自身のプレーにも翳りは見せない。どこからどう見ても立派なベテランに、三井はなっている。自分はどうだろう、と思う瞬間がある。誰かが熱い時は冷静になれるが、自身の喧嘩っ速さは健在だし、切り込み隊長としてのあらゆる速さへの自信も自負もある。頭は常に冷静に。平気なふりが良い方に働くことだって多いが、だからこそ状況があまりよくないことはわかってしまい、打開すべくいくつかの手を考え始めたところだった。なにせまだ試合は終わっていない。諦めるなんてあり得ないだろう。
 第3Q、2分を残したところだった。笛が鳴った瞬間、アリーナは判定にどよめきを起こした。
「ジョセフ! 落ち着け!」
 ファウルの判定に納得がいかないジョセフが、レフェリーに食ってかかっている。なぜだ。今のがファウルなのか、よく見てくれおかしいだろう。英語で捲し立てる彼は、今年から帰化したチームの大黒柱であるセンターだ。ここで更に心証を悪くしたくないし、このままだとテクニカルファウルを取られる可能性がある。三井と左右から彼を挟むように、冷静にさせようと審判から物理的に距離を取らせた。自分たちのホームアリーナでの、強敵との一戦。今日はCSへの道を歩み続けられるか、絶たれるか。互いにそんな一戦だった。熱くなっているのはジョセフだけではない。ベンチも総立ちで、コーチも頭を抱えている。ジョセフはここで3ファウル。ライアンが前節の肉離れでロスター登録から外れている今、彼が抜けたらどう考えてもジリ貧だ。
 第2Qの終わり、流れがこちらに傾きはじめていた時のきわどいアウトオブバウンズの判定でヘッドコーチチャレンジは使ってしまっている。それは成功に終わったが、第3Q、流れは横浜に掌握されつつあった。何年も前の、宮城の古巣だ。
 ジョセフの身体が熱い。激高する彼の顔が赤い。力強く腕を振り上げようとする彼の左手をおさえながら、三井を見上げて一度頷く。ベンチでは同じようにクールダウンとプレイタイムを考えていたらしいコーチとスタッフ陣が荒木に声をかけていた。
 準備した若手が立ち上がっている。三井とともにジョセフに声をかけつつ、4Qに彼の活躍を期待する。相手のフリースロー、ここですでにチームは5ファウル。サービスに入っている。
 奥田は3ファウル。そもそも彼はプレイタイムを限りながら、状況と流れでそうやって相手を止めるのがひとつの仕事でもある。宮城は2、三井はまだ1。コートにいられる。
 肩で息をしながら、相手のSFが位置につくのを見守る。自分たちも短いハドルをしながら位置についた。ブースターたちによるディフェンス。ブーイング。ホームチームの圧倒的なアドバンテージだ。けれど、フリースローの際、静寂がプレッシャーになる選手もいる。今フリースローラインについている彼はどちらだろう。いずれにせよ、これだけの味方に背を押されているのは、ホームチームだ。宮城を応援するフラッグ。いつの間にかセットになった電光石火、雷モチーフのフラッグが掲げられている。堀田もほぼ毎回いるから、三井おなじみの炎の男フラッグもアリーナには掲げられていた。それはどうやらお決まりになっているらしく、同じデザインのものがいくつかある。用意するのだって、毎回試合に来るのだって、彼らは何かを削ってやってくる。時間もお金もかかることだ。そうして声を張り上げて、手を腫らして涙を流して、同じように喜んで悔しがってくれる。
 いっしょに戦うブースターたちが、ホームアリーナにはいる。
「三井サン」
「あ?」
「あのさ、」
 三井のユニフォームを少しひっぱる。三井が耳を傾けるように身体を折り曲げた。このディフェンスの中だ、相手に聞かれることはないだろう。
「お前、」
「やる価値あるでしょ」
「……」
 三井が巨大なスクリーンを見上げる。残り時間、点差、ファウルの数。びびってんのかよ、三井。笑いかければ、三井は底意地の悪い、まるでラスボスのような笑みを見事に浮かべた。今季の横浜はバックカットとオフボールスクリーンを多用するチーム戦略。チームの練度が高まってきた後半戦にこそ活きるスタイル。でもそれは、自分たちも同じだ。なんなら三井と宮城が加入した年からこのチームは鍋島やトミーというスターシステムから、同じようにボールをチームでシェアする、そんな戦略を練り続けてきていた。
「……殴り合いか、オレららしいな」
 三井が微笑む。宮城もチーム全体にハンドサインを送る。泥臭く食い下がり、ボッコボコに殴り続ける。ディフェンスの約束事だけは守ってあとはひたすらに殴る。以上である。


 チームの平均年齢は若返ったと言われている。けれど三井と宮城が今中心となりボールをシェアしている以上、完全なそれとは言い難い。ただジョセフの代わりに入った荒木が、奮闘している。荒木と同級生の八巻も奥田とプレイタイムをシェアしながら確実な得点源となりつつある。去年はノンシューター扱いだったけれど、今年彼をそのように見なすチームはいない。戻ってきた宮尾もいる。
 宮城は身体の熱を自覚しながら、残り2分を切った時間と点差を確認する。8点差。いける。いける。コートに散らばり、動き回り、または位置を譲らずに盤面を整えるチームメイトたちを脳内に描いて、相手の位置と作戦と出方と、とにかくめまぐるしい。けれど宮城が考えているようにチームメイトも同じように考えて動いている。その濃度と深度で言えば、なぜだか三井とは同じものを、気付かぬうちに共有できていると思えることがある。それはほとんどいつも。いつも、相手と同じように、まるで同じ生き物であるかのようにぴたりと当てはまることがある。そのくせ、互いに出し抜きたいと、それ以上のことを実際にやってのけてやると思っているのだからやっぱり同じいきものではないのだ。その証左に、三井のことがわかって、宮城はわからない。なんでアンタ今そこにいんの、と遅れてああ、と思った。
「宮城!」
 そうだね、残り7秒で24秒だ。宮城がコートを広く使おうとハンドサインを送りつつ、焦燥をなだめるようにボールを維持しているところに三井から名前を呼ばれた。わかってるってば。
「はは、」
 なぜだか、こんな状況で自然と笑みが漏れた。
 オレたち、いつもバスケのことばっかだね。
 三井が宮城のパスを呼ぶ。両手を胸の前に広げて、ボールをここに寄越せと身体全体で叫んでいる。三井は覚えていないけれど。まるで、はじめて会った時のように。
「ヘイ!」
 歓声、応援、ブーイング、指示。あらゆる声が振動となり空気を震わせる。幾重にも、幾層にも連なるあらゆる音。オフェンスコールにEDM。そんな音の波を切り裂くように、三井の声はいつでもまっすぐに宮城に届く。そう、届いた。だから宮城は視線のフェイクを入れて左サイドから切り込むと見せかけて、望み通り三井にパスを放ったのだ。それは過たず彼の手中に収まる。ディフェンスが一人ついているが、三井なら問題ないだろう。
三井は、スリーポイントラインにいた。彼より大きな身体に一度身体を当てると見せかけてのバックステップ。美しいフォーム。流れるような動作。洗練された筋肉、完璧に制御された、数え切れないくらい描いてきた同じ動き。宮城は、目を奪われたように息を呑んだ。何度でも見上げるのだろう。何度でも見惚れるのだろう。馬鹿の一つ覚えみたいにずっとずっと、宮城はその軌跡を、ずっと。
 これ以上ないくらいに美しい軌道だった。天を裂くような、雲を取り払うような。そんな光のような一閃が、ゴールリングを音も無く通り抜け、3点がコールされる。
 爆発するかのような、そんな音がアリーナに響き渡る。こらえきれず立ち上がるブースターたち。宮城は三井の元へ駆け寄り、思い切りハイファイブを交わした。チームメイトたちも三井に乱暴な祝福と称賛を贈り、ディフェンスに戻っていく。
「よしよしよし! オフェンスはディフェンスから!」
 三井のよく通る声が、コートのメンバーを鼓舞する。これ聞くの、何回目だろう。宮城は、手を叩きながら自身のマークする相手のPGに前のめりで向かっていく。自分よりも、20センチも大きいハンドラー。恵まれた体格の相手。今更怯むような身長差ではない。

 ……オレは別に、バスケの神様に愛されているわけじゃないし、もうそれを信じたり信じたいと思う年でもない。たぶん、アンタもそう思ってる。このチームに来てからはじめて奥田に言われたように、もう、自分たちにとってのバスケは仕事で、生活で、それで、人生だ。プロってそういうことだから。
 でも。
 でも、と宮城は思う。バスケに愛されていようといまいと、きっと宮城も三井もこうして、全力で駆け続ける。足が動く限り立ち上がって、歩いて、走って。手が動く限り、指のタッチを確かめて手首のスナップをきかせて。目が見える限り、コートを見回して相手を見つめて、関わるすべてのひとを見つめて。たとえそこがコートでなくなっても。
深く息を吸う。早くなる呼吸も早鐘を打つ鼓動も脈打つ血管も、からだのすべてを制御して。酸素を取り込み、熱を生み、全身に巡る血液でその火を運び、満たし、燃やし続け、汗をかいて筋肉を躍動させて関節を使って指先の感覚ひとつ馬鹿みたいに丁寧に基本の動作を繰り返して、練り続けてきた技術のすべてを昇華するように、ここに立っている。それだけは、何があっても変わらない。たとえ、もうバスケができない日が来たとしても。

 ――そもそも、神様がいても、いなくても。

 オレは、自分のバスケを愛している。……三井のバスケを愛している。三井とのバスケを、愛している。たとえ誰が否定したとしても、この気持ちだけは、海を駆けるように空を泳ぐように自由なはずだ。どこまでもどこまでも。三井との道が、ずっと、続く限り。たとえ終わりが来ても、続きがなくても、エンドロールを迎えても。
だって、ずっとって言ったのは三井なのだから。



 終わりは、どんな望みや絶望にも平等に訪れる。勝敗を分かつ、試合終了のブザーが鳴り響いた。
 ダブルオーバータイムまでもつれた試合は、5ファウルの退場者を出しながらの熾烈なシーソーゲーム。固唾を飲み込みブースターたちが見守る中――一進一退の試合は、横浜の勝利で終わった。粘られて、負けた。今日の負けはただの負けではない。CSへの望みが絶たれた、そんな敗北だった。ベンチでは宮尾が顔をタオルで覆っている。その背を奥田と八巻が抱えて、まだシーズンが終わった訳ではないと目を真っ赤にしていた。
 惜しくも、惜しくも? 悔しい。けれどうなだれてはいられない。敗者だが、ここはホームだ。気丈でいなければと宮城は悔しさに目の前が真っ赤になりながらも、喜びを爆発させるアウェイチームを称賛した。リーグトップを決める戦いに駒を進めることは叶わなかった。汗まみれ、心臓への負荷はどれだけのものだろう。もう一ミリも動きたくない。疲労が突如として襲ってくる中、宮城は三井の様子を伺う。
 同じチームになって、三年目。3シーズン。三井とこれだけ長い間バスケをやることになるとは思っていなかった。その三井は、下を向いてなかった。膝に手をついてもいない。腰に手を当て、ただただ天井を、その先の空を見上げていた。宮城もつられて、まばゆい天井を見上げる。目に入るスクリーンには2点差、たった1ポゼッション差の敗北が刻まれている。アリーナを照らす光が、降り注いできた。眩しくて眩しくて、思わず目を閉じる。瞼裏に結ぶのは残像。あと一歩。あと一秒。あと、あと。息を吐く。熱い、悔しい。
 そうしているうちに、背中を誰かに叩かれて、肩を抱かれた。熱い身体だ。宮城には、誰か確認しなくても、誰だかわかる。ずっとずっと、わかっていた。
「……三井サン」
「おう」
「……あのさ、悔しいから」
「おう」
「残り、全部勝とうね」
「当たり前だろ!」
 三井の声が、宮城の耳元で反響する。怒鳴り声とも思えるくらいの、何かがこもった声だった。
 最後までコートに立っていた荒木が、肩を落として床を見つめている。退場になったジョセフの代わりにゴール下を守った、まだ若い選手。責任を感じているのか、立ち止まって動かない。
「荒木」
 その荒木を三井と挟みながら、いつまでも歩き出さない彼を導くように進む。
「下を、向くな」
 後頭部を撫でながらの三井の声が、荒木に溶け込むようにかけられる。宮城は腰あたりを力強く叩く。お前のせいじゃない。チームの力が足りなかった。それだけだ。そんな三人に、八巻が真っ赤な目でタオルとともに駆け寄ってくる。荒木はうつむいていた顔を三井と宮城には見せずに、タオルごと八巻に倒れ込むように抱きついた。
 まだ、シーズンは終わりじゃない。ゴールデンウィークの、ホームでの宇都宮戦。そこで、ブースターたちと、勝利で終わらせる。それしか、今は考えられなかった。






V‐F

「そういや今年は牧が解説席に呼ばれてるらしいぜ」
「それ聞いた。毎年思うけど普通進めなかったチームの選手に声かける? こんな負けず嫌い集団に。オレなら悔しくて絶対無理」
「だよなあ? オレ悔しいから断ったわ」
「え、声かかったの」
 隣に座る三井の横顔を見上げれば、ことさらゆっくりと三井は頷いた。胸の前で腕を組み、口をすぼめた三井は不機嫌をありありと隠さないでいる。顎の傷はもう薄くなっていて、いつかの練習中についた古傷のようにも見えるし、実際にブースターたちにはそう捉えられているらしかった。
 CS、一勝一敗で迎えた運命の第3戦。今年一番強いチームを決めるのがこれから行われる試合だった。雌雄を決するその場に許された2チームは、奇しくもかつての山王メンバーを擁する2チーム。河田がキャプテンをつとめる秋田がワイルドカードからはじめてのCSを駆け上がり、深津がキャプテンをつとめる島根が下馬評通り決勝へ勝ち進んだ。これはこれでたいそう盛り上がるカードである。三井と宮城は最上階の最後列にチケットを取り、じきに試合がはじまるだろうコートを見下ろしていた。髪を下ろした宮城と、最後列なのを良いことにキャップをかぶったままの三井。誰もが2チームのこれからはじまるドラマに夢中になっており、ホーム側、アウェイ側の応援団のコールリーダーがそれぞれの応援を確認するように客席を駆けずり回っていた。
 横浜アリーナ、5月末。横殴りの雨は予報通り。荒天となった本日、それでも秋田と島根からブースターたちは駆けつけているし、バスケファンも3戦目に縺れ込んだ物語の結末を見ようと、嵐をものともせずに訪れていた。三井と宮城が会場に辿り着いた時、予約していた近くの駐車場からの一キロにも満たない往路で足下どころか腿のあたりまでぐっしょりと雨粒により濡れてしまっている。同じように髪や服を塗らした人々が続々と会場入りしてきていた。
 本当は、客席ではなくて。本当なら、あのコートで。そんなことを思っていれば、機嫌悪く足を組んでいた宮城の膝を三井が軽く叩いた。同じ列に座る客が来たらしい。若いカップルだ。彼らは頭を下げながら三井と宮城を跨いでいく。
「……深津の語尾って今なんだっけ」
 唐突に三井が疑問を口にする。試合をした時のことを思い返してみるが、毎年変わる彼の語尾、「ぷん」は去年で、「もる」は一昨年だった気がする。今年は。
「っぴ」
「っぴ、か」
 結局同時に辿り着いた。互いに背もたれに背を預けながら、脱力する。
「なんだよなめてんのか? それともふざけてんの?」
「あれで本気なんだよなアイツ」
「……三井サン、山王のひとたちと普通に仲良いよね」
「そういや去年、松本経由で普通に山王の同窓会混じったけどなんも言われなかったわ」
「は? 心臓どうなってんだよアンタ」
「受け入れるあいつらもバグってんだろ」
「まあそれはそう」
 売店で買ったホットドッグを口に運ぶ。安定の味。ぱきっと割れるソーセージから溢れる肉汁に、ケチャップとマスタードが絡んでなんとも言えないジャンキーさが口の中に溢れる。三井はもごもごと顎を動かしながら、アップ中の米粒のような選手を見下ろしていた。本来であれば。スタッフに頼めば。もっと良い席だって手に入っただろうし、実際にチームの若手はそうしているらしい。この会場のどこかにいる後輩たちを思い浮かべながら、それでも自分たちでこの席を取ったのは、感傷がそうさせたのだろうか。
 コートが遠い。
 食べ終わったホットドッグが入っていた紙製の箱。三井がそれを受け取って、ふたつまとめて折りたたんでいる。捨てに行ってくれるらしい。宮城は軽く頭を下げれば、三井の掌が頭に乗せられた。気にするな、という意図だろう。ゴミ捨てに向かう三井のジーンズは、少しずつ乾き始めているようだった。
 客席がほぼ満席になる頃、盛大なセレモニーと共に試合は開始した。もったいぶるような映像やナレーションが、会場全体の音響照明を使ってこれ以上ないくらいのドラマティックさで演出されている。三井と宮城の座る周辺は、さすがに空席もところどころ目立っていた。それでも平日に縺れ込んだこの夜、突然の3戦目に2階席は満席というから驚きだ。各チームのチャントがぶつかり合う。すでにボルテージはマックスまで上がっており、お馴染みのナンバーがそれぞれのオフェンス側の時にだけかかるこのシステムは天皇杯の決勝と同じだ。
 来年目指すべき頂が、ここにもある。何冠だってしてやりたい。宮城は隣に座る三井が座り直したのを横目で確認する。一般人にとっては普通でも、プロのスポーツ選手が座るにはどのアリーナもいささか座席は狭い気がする。
「おお、惜しい」
「もう河田と深津の読み合いみたいになってんじゃねーか」
 ターンオーバー。深津のボールが河田の手に弾かれて秋田にボールが渡る。その瞬間に音楽が切り替わった。勢いを増す、アウェイ側の客席。ほぼ半々ずつ占められているようなのは、ユニフォームの色でなんとなくわかる。そのどちらでもない三井と宮城は、じっと試合の趨勢を見守っていた。
 一進一退で試合は進む。チャンピオンに相応しい、今年最後の試合として一年を締めくくるには相応しい、そんな試合。よく練られた戦略、選択される戦術、相手との探り合いに技術の応酬、そして力のぶつかり合い。見応えのある試合で、すべての人々が最後の一瞬まで目を離せない、そんな展開が続いて、そうして。
 そうして今シーズン最後のバスケは、ブザーと共に終わりを告げた。
 詰めていた息を吐く。見守った。見守れた。優勝チーム、準優勝チームのセレモニーが準備されている。表彰式の時間だ。何度目かのアナウンスが響き渡る。
「選手、そしてスタッフ一同に、今一度大きな拍手をお送りください!」
 客席の半分からは盛大な喜びと拍手が。半分からは涙混じりの声が。悲喜交々、すべての感情が、今、ここにある。
 外の天気は荒れたままらしい。電車が止まるか心配な人もいるだろう。まばらに帰途に着く人々も見えはじめていた。三井と宮城は動かずに、最後まで見届けることにする。じっと無言のまま舞台の中央で光を浴びる姿を見下ろした。アリーナに用意されたチャンピオンだけが登ることの許される台。そこに、チーム全員が歓喜の声とともに飛び乗る。そしてキャプテンがトロフィーを掲げた瞬間、金色の光の群れが、アリーナを埋め尽くした。金色のテープ、紙吹雪、スモークと共に宙を舞い踊る美しいひかりたち。黄金色、白銀、プリズムが弾けるようなひかりに満ちるその中心に、今年の王者が力強く誇りをたかだかと掲げており、駆けつけたブースターたちに呼応するかのように声をあげている。
 なんて。なんて、美しい光景だろう。なんて、眩しい景色だろう。オーロラのようなグラデーションがコートを埋め尽くしているその光景を、目を細めながら眺める。三井は会場中に混じるように拍手をしていたが、やがて静かにその手を膝に置き、刻みつけるかのようにまばゆい光たちをじっと睨むように焼き付けているようだった。定めるかのように。確かめるかのように。狙うかのように。その真剣な眼差しに、揺らがぬ目の光に。宮城は同じように輝く光景を目に焼き付けながら、三井の名前を呼んだ。
「……三井サン」
「……ん?」
「ずっとって、言ったことあったでしょ、オレに」
 三井の方を見ないまま、宮城は呟く。荘厳な音楽、どこかエレクトリックな曲調に、歓声に、拍手。割れんばかりの喜びが爆発するアリーナの中、三井は確かに宮城の声を拾った。いつの間にか、このブロックの最後列には自分たちしかいない、静寂が訪れている。
「……ああ、言った」
「オレさ、ずっとっていつまでだよって思ってたんだけど」
「おう」
「……わかったよ」
 宮城は、三井の手を取る。左手。宮城よりも大きくて、少しだけ細い指。骨太な宮城の指が、その指を絡め取るように握り込む。三井は抵抗らしい抵抗を見せなかった。あの日も、いつも、いつだってそうであるように、今も宮城の好きにさせるつもりらしい。
「あのさ、三井サン」
 ――星が綺麗な夜ではなかった。
 潮の匂いを纏う夏風がそよぐ透明な午後でもなく、世界が白み微睡みを縫う春の夜明けの海でもなかった。ここは自分たちが辿り着けなかった決勝の舞台で、嵐の夜の内側、用意されていたのはコーラやホットドッグやチュロスといったおなじみのメニューだった。
「……なんだよ、宮城」
 宮城の言葉に、三井は耳を傾けた。顔を覗き込んでくることはなく、ただ宮城の手を握り返してくる。白いTシャツにジーンズ。強風と強雨により濡れた服は2時間ばかりの間にすっかりと乾いていて、宮城は己のカーゴパンツの裾もとっくに乾いていることを知っていた。荷物は多くない。今、宮城は三井の手だけを、その温もりだけを握りしめている。
「ここまできたらさ」
 宮城は、いつもの角度で三井を見上げた。まっさらな耳たぶ。短く揃えられた黒髪が、キャップからはみ出している。ボールの弾む音はもうどこにもなく、ただ勝者を称える音楽が、高揚の雄叫びが、多幸感に満ちあふれた拍手の音がこの、世界を変えた箱の中を満たしている。雨の音は聞こえない。風の音も聞こえない。あの浜辺での、すべての音がもう遠い。遠いけれど。
「オレたち、もう一生いっしょにいるしかないよ」
 三井だけは、ずっとずっと、宮城のすぐ隣に、いる。
三井の顔が、宮城を見下ろしてくる。揺れる瞳が宮城を捉えて、その表情がどこか確信めいた笑みを浮かべていることをすぐに読み取ったらしい、三井はあの時と同じように、少年がつくるような無邪気で無垢で、無敵だと誇るような、そんな笑みを唇で描いていた。風に揺れる水面のように、朝日を弾く雨上がりの水たまりのように、まばゆい黄金色の光を反射した瞳が柔らかく、けれど力強く宮城を、宮城だけを見つめている。宮城だって、三井だけを見つめている。熱い手が、確かだった。その熱に泣きそうになりながら、宮城はようやく、三井の心に、心を返せた。
「――まだ、アンタと見てない景色、ある」
 本当に、それだけだ。それだけなんだ。それだけで、よかったんだよ。
宮城は、三井と、これからも一緒にいたい。生きていきたい。この世界の美しいものもそうでないものも、全部、このひとと、見たい。微笑むひとに、微笑みを返して。笑って、怒って、泣いて、本気でぶつかって、走って歩いて立ち止まってしまう時がきたとしても。そんな時だとしても。
「……オレもだよ、宮城」
 まぼろしなんかじゃない、今もこれからも隣で生きていく、オレとアンタが見るすべての景色、とか、さ。








 晴れ渡る空が広がっていた。抜けるような晴天が頭上でまばゆく初夏の陽射しを世界に降り注いでいる。めかし込んだ人々が集まり、口々に祝福を唱えながら賑やかにかしましい、どこか落ち着きのない集団を形成していた。やがてその集団が荘厳な白壁のチャペルに飲み込まれて行くのを見送りつつ、三井と宮城は己の出番を待つ。先ほどの人々同様どこか落ち着きのない様子で身じろぎをしながら。今日は世界でいちばんしあわせなふたりを、祝う日。永遠を誓い合うふたりのために、多くの人が集まっている。周囲に愛され祝福されるふたりは、きっと、どんな日よりも今日を待ちわびていたことだろう。
 今日も今日とてカメラを構えた田中が、妙ににやついた顔で三井と宮城を眺めてきた。慣れないスーツ姿のふたりに相好を崩した広報担当に、じろりと睨みをきかせる。
「いやあ……お似合いですって」
「何にやけてんだてめえ」
「馬子にも衣装ってかコラ」
「一言も言ってないじゃないですかそんなこと。それより、ちゃんとお上品にしててくださいよ。結婚式なんだから」
 そう、結婚式である。三井と宮城のものではなく、ブースターの結婚式だ。サプライズで、ふたりのファンだという新郎新婦の結婚式にお邪魔にならない程度に参列するのが本日の三井選手と宮城選手のスケジュールであった。
 礼服をまとった三井も宮城も、胸ポケットにはこの日の為に手先が器用なスタッフが誂えたというマスコットが花束を掲げた姿勢のものを納めている。宮城は辺りを見回し、先ほどまでその辺にいた田中の広報の後輩の行方を尋ねる。
「あれ相方は?」
「中田は主役の方に。とりあえずチャペルからフラワーシャワーに移動するところでサプライズ登場してもらうんで、それまで髪型とか絶対崩さないでくださいよ、服も」
「お前オレらのこと小学生だと思ってる?」
「扱い年々雑になりやがるな」
 はいはい、と意気揚々と田中はカメラを構えたままだ。田中に導かれて移動中に、一度説明を受けていた詳細を改めて教え込まれる。新郎新婦のふたりは、三井と宮城のファン。ユニフォームとタオルをそれぞれあべこべに持って観戦に訪れることが多いらしい。学生時代にふたりで行った三井の怪我をした試合がきっかけでより仲が深まり、この度無事に結婚式を迎えることになったという。
「これ、オレは怪我の功名か?」
「うーん。まあ、いいんじゃないっすか、めでたいし」
 じゃあここで待っててくださいね、と田中が何かを相方と連絡を取りながらチャペルへ続く扉、おそらく裏口だろう場所へ三井と宮城のふたりを陣取らせた。大人しく並びながら、知り合いの結婚式に知り合いが新郎しかいないことはあったが、本当に見ず知らずのひとの結婚式に来るのははじめてだな、と感心すらしてしまった。けれど、ふたりは自分たちを応援してくれるブースターだという。きっとふたりで何度も自分たちの勝ち負けを目にしてきたのだろう。
 新郎、西家。新婦、東根家。入り口で見たふたりの名字に、思わずすげ、と言葉をかぶらせたのは同時だった。
 扉が開く。緊張した面持ちで、それでも笑みを形作る新郎新婦。世界でいちばん幸せなふたりは。
「っきゃ――‼」
「ッウワ――⁉」
 三井と宮城を認めた瞬間、全力で叫び、互いに抱き合った。その光景を見て、三井と宮城は面食らいながらも、当初の予定通りに手を叩く。
「……え、えっと、そう! ご結婚おめでとうございます!」
「ふたりをお祝いしたくて来ちゃいました! おめでとうございます!」
 拍手を贈りながら、自分たちを凝視してくるカップルを見つめる。ふたりの眼からは涙が溢れ、「だいすきです……」「ほんとに、ずっと好きです……」と蚊が鳴くような声で愛がこぼされた。力が抜けたのか、ふたりでうずくまる。ここまでの様子を想像していなかったのか、広報やスタッフ連中が慌ててふたりを支えようと駆け寄るが、ふたりは互いに顔を見合わせて、すくっと立ち上がった。中田が何か、二人の後ろから企画を口早に説明しているようだ。それを聞き取ったふたりは、深く頭を下げて、
「ありがとうございます……」
「本当に、嬉しいです……」
そう感謝を述べて。
「待ってごめんねほんとにあるんだこういうの……プロポーズより泣いてる私……」
「ほんとごめん俺も……ちょっと、あー……! ずっと……っ好きだったから……!」
 と、多少の問題発言をしながら、三井と宮城と向き合う。ここまで。ここまで、愛してくれるとは。三井と宮城は顔を見合わせながら、満面の笑みを形作る。これから、ふたりはフラワーシャワーを浴びることになっていた。永遠に愛を誓い合ったふたりは、青空に花が舞う中、祝福に囲まれた道をゆく。その道を、三井と宮城も作ることになっている。
「あの、来シーズンもアリーナに行きます!」
「ずっとふたりのこと応援してるんで!」
「複数年契約ありがとうございました……!」
「できたらふたりセットのグッズもうちょっとほしいです……!」
 想像以上に時間が押したようで、スタッフの声がけにふたりは後ろを振り返り三井と宮城に欲まみれの言葉を届けながら次の場所へ向かっていった。三井と宮城も、用意された花を手に歩きはじめる。
「……こんな泣くほど応援されてるとはね」
「ますます来年、頑張んねえとな」
「本当だよ、優勝くらいしないと」
 三井は、手の中に満たされた白い花を一輪、宮城の胸ポケットへ。宮城も同じように、青色の花びらを三井の胸ポケットへ。ふたりで合わせれば、我らが誇るユニフォームの色だ。都会とは少しだけ空気を異にする、ちゃきちゃき下町のお祭りチーム。喧噪と喧嘩、賑やかさならどこにも負けやしない、粋でいなせな我らがホーム。
 なにせふたりには、少々扱いを雑にしてくる信頼のおけるスタッフがいる。賑やかで個性的なチームメイトがいる。応援してくれる、ブースターたちがいる。そして。
 三井が手を差し出してきたので、宮城はその手を取った。田中は気にもせず、ふたりを先導する。三井と宮城はチャペルへの道を、歩いていく。
 そして何より、お互いがいる。青空の光の下、笑みを交わし合う。ずっと隣で歩くひとと、手を繋いでいる。



 ――これは、まぼろしなんかじゃない。

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