はじまりが致命的に遅い人



そこは青春の舞台でもなんでもない
ただの寂れた居酒屋での一幕







 その日は、余りの寒さに目が醒めた。
 ふと隣を見れば、そこには僅かな温もりが残るシーツだけで、その上で眠る筈の彼女の姿はもう部屋のどこにも見当たらなかった。

 どうやら、彼女は遂に楽園の外へと逃げ出したようだ。


***


「結婚は人生の墓場とは云いますが、本当にそうなんですか?」
「先日結婚した友人に振る話がそれっすかぁ?」

 呆れた表情をする男と、週刊誌の一面飾るアイドルの顔を見比べる。まんま瓜二つであるが、違いを見つけるとするならば写真の方が本物よりもやや凛々しく見えるくらいか。
 『電撃結婚!』なんて、品のないフォントで書かれた安直すぎるその文字を指先でなぞった。

「事実婚が増えつつあるこのご時世で結婚ですか」

 男の指に嵌められたシルバーリングに目を遣る。撮影の時は外してくださいよと告げれば、名残惜しそうにジュンは指輪を外し、それを机の上に置いた。
 まるでそれが愛しい人そのものだというように扱うので、思わず笑ってしまう。

「……なんすか」
「いえいえ!貴方のようなガサツな人間にもそのような効果があるのなら、結婚も悪くないのかと」
「それ微塵も思ってないっすよねぇ」

 そう言って、呆れたような眼差しをこちらに向ける。

「そんなんだから、愛想尽かされたんじゃないんすか?」

 何気なく、本当にただポツリと口から出ただけといった言葉に、思わず手を止めてしまった自分が恨めしい。
 おまけに表情にも出ていたらしく、ジュンは失言だったとでも言うように頭をかいた。こういう時、生暖かい対応を取られるのが最も不愉快だ。

「……苗字を統一するというのは、それ程魅力的なものなんでしょうか」
「そうっすねぇ、確かに、奥さんが慣れない様子で電話やインターホンなんかで漣ですって名乗る時は大分グッときますけど……」
「それだけですか?」
「いや、それだけなわけ。プロポーズって、大抵男からするじゃないですか?そういうのって男の我儘つーか、結局のところ自分が安心したいだけなんすよ。目に見える独占欲が苗字で、分かりやすい牽制が結婚指輪になるわけだし」
「成る程。ハイエナとはいえ、毎回夜にマーキングするのは流石に面倒ですもんねぇ!」
「言い方もうちょっとマシにならないんすかねぇ!?」

 惚気られる前に強引に話題を逸らしてやった。
 ジュンはそれに対し不機嫌そうに暫く眉を寄せていたが、ゴホン、と強引に流れを変えるように、態とらしく咳払いをした。

「兎に角。あんたらは、難しいことだけを考え過ぎなんすよ」

 随分とらしくもない優しい声で言うものだから、自分はただ目を逸らすことしかできなかった。

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